奉 祝
作 ・ 凛さま
2009/05/01(Fri) 03:49 No.276
慶東国を旅立ってから半年。暦の上では春だというのに故国は華やぎの無い荒涼とした大地が広がっているだけである。李斎にはそれがこの国が半ば天意に見限られているのではないかと感じさせ、閉じ込めたい不安を掻きたてさせていた。
李斎が無意識に小さく息をつくと
「お疲れになりましたか」
と泰麒が心配そうに尋ねる。李斎は慌てて否定するも泰麒はただ淋しく微笑し
「あちらで休みましょうか」
と丁度近くにあった野木へと彼女を促した。
二人は残り僅かの飲み水を大事に分け与えあい喉を湿らせひと心地つくと、突然泰麒が李斎の右肩を凝視しながら口を開いた。
「……僕のせいですね」
李斎は泰麒が発した言葉の意味が分からなくて怪訝そうに目を細める。すると泰麒は李斎の右肩におずおずと指を這わせ沈痛な表情をその美しい顔に貼り付けた。
「僕があの時この国を逃げ出しさえしなければ――」
「それは違います!!」
李斎は自身の右肩に触れている泰麒の手を、自由になるもう片方の手でしっかりと握り返し必死に訴える。
「台補は身に降りかかった危険を回避しようとしただけの事。それは台補が生き延びようとする為の本能です。逃げ出したのではございません」
「でも結果的に僕はこの国に嵐を起こして、ありとあらゆるものを破壊し、李斎を――」
「これは――」
李斎が泰麒の言葉を遮ろうと思わず声を荒げた。しかし喉まで出かけた続きは凍えてしまう。
(なんてお顔を為さるのです、台補――)
泰麒は悲しみや後悔にくれるというよりもどこか逸脱したような侘しい表情であった。世界中の静寂を掻き集めたような陰影を築く黒い瞳。それを見ると李斎の胸は酷く痛む。
李斎が慣れ親しんでいる泰麒は純粋無垢で李斎に対して零れんばかりの笑顔を見せてくれた。だが今の彼にはそれが見当たらない。
――六年も辛い所にいらしゃったんだね。だからご病気になってしまったのでしょう?
慶東国で世話になった少年とのやり取りが李斎の頭をよぎる。蓬莱に流れ着いた泰麒は李斎には到底窺い知れない苦い経験を積み重ねてきたのだろう。それが今の彼を形成している。
「……ごめんなさい」
黙ってしまった李斎から何かを察してしまったのだろうか。泰麒は小さく詫び二人の間に重い沈黙が横たわる。
「――台補。少し様子を見て参ります」
この沈黙から逃れたいと李斎は立ち上がった。泰麒は特に表情を変えるわけでもなく李斎を見上げている。
「台補はここに居てください。野木にいれば安全でしょうから」
「……ああ、そうだね」
泰麒は視線を落とし膝を抱えてうずくまる。それを李斎はなんとも言えない面持ちで見送り一人その場を離れていった。
土手には荊柏の白い花がぽつぽつと咲いている。荒地でも放任したままよく育つこの植物は、白い花がやがて落ちて鶉の卵ほどの大きさの実を結び、この実を乾燥させると炭の代わりになる。
驍宗が失踪した後、偽王の圧政と災異にさらされ続けた戴極国の民にとって、いまや荊柏はなくてはならない植物の一つとなった。
寒さを凌ぎ生き延びるのに必死に成らざるを得ないこの国の者らは。実を毟り採るのに余念がない。中には何とかして食せないものかと思案する者もいるだろう。
(あれは主上が路木に願ってもたらされた戴の恵み。だが地面をはべる荊の緑の力強さと真っ白な花弁の清清しさを愛で心和む余裕のある者がいるだろうか……)
乾いた風が李斎の頬を冷たく掠めた。
李斎には忘れられない花の思い出がある。それは驍宗が新しい王として登極してからひと月余り経った初冬。
李斎は瑞州師中軍の将軍に任じられ住いを白圭宮にある官邸に移したばかり。その官邸に泰麒が直々に訪ねてこられ李斎に花を贈ってくださった。
泰麒は当時まだ十で稚い子である。その子が己の顔よりも大きな花束を抱え輝いた笑顔を李斎に向けてくれる。
李斎にとって本来であれば王に次ぐ国の柱ともいえる存在である泰麒にここまでして貰うのは身に余る事で萎縮しようものだが、彼のあどけない眼差しが彼女の心を柔らかく解かし好意を素直に受けようという気にさせた。
これは蓬莱の慣わしだと泰麒は言っていた。蓬莱では祝いの際に花を贈る習慣があるらしい。李斎はこれまで祝いを受ける事が無かった訳ではないが、花を贈られたのは初めてだった。初めてだったが祝いを貰ってこんなにも心が温かく華やいだ事はないと感じたのだった。
(屈託無く笑う事をされなくなった台補。あの頃はまさかこんな台補を見る事になろうとは夢にも思わなかった)
慶東国で再会した時は、願いが成就した喜びと幼子から成長した外見に意識が働き見抜けなかった。しかし行動を共にするに従い泰麒の中で燻っている闇が予想外に大きい事に彼女は気付いてしまう。その上実際に目の当たりにしてしまった故国の変わりはてた姿が泰麒に追い討ちをかける。泰麒はあまりの惨状に顔色が無かった。
それからというもの李斎は泰麒が少しでも元気を取り戻してくれれば、その手助けが出来ないものかと模索していた。だがそれはいつも空回りで李斎は歯がゆさに唇を噛む。
(台補の安寧が私の喜び。私は台補が笑ってくれればそれだけで……)
思うままに歩いたその先で見つけた景色に。李斎の心は大きく揺れた。
李斎に手を引かれのろのろと向かったその場所で、泰麒は懐かしい出会いを果たした。
「あれは……、ヤマザクラですね」
そこは誰も寄り付かない所なのか、人の気配が感じられない場所だった。すくすくと伸びる荊柏に守られるように古木が立ち僅かながらではあるが花をつけている。極々控えめで儚げに咲いているヤマザクラ。だがそれは古木が持てる力のすべてを使って花開かせているのだ。
――ああ、高里か。お前らはどうせヨメイヨシノくらいしか桜は知らないだろうがな……これはヤマザクラだ。
泰麒が蓬莱に流されていた時、担任として少し関わりのあった後藤という人物がいた。彼は理科教師ではあるが趣味で絵を書き、美術クラブの担当もしていた。
何かの折に泰麒が後藤の描くキャンバスを見る事があり、そこで後藤が教えてくれた。葉と同時に花を開いているのが印象的な絵だった。
後藤はその後泰麒に対して何か言いたげな表情をしたが、結局何も言ってはくれなかった事を泰麒は思い出す。蓬莱では殆どの者が泰麒に対してそう接しているようだった。
「――やまざくら…というのですか。荊柏以外で花を見たのは久しぶりのような気がします」
泰麒の傍らで李斎が感慨深げに口を開いた。
「うん、そうだね。もう季節は春だというのにね」
桜を見上げつつ泰麒はこう漏らす。
「そう言えば、蓬莱では桜の開花の頃が新生活を始める時期と重なる事が多くてね。その時の期待や不安の傍には桜があった。新しい生活への祝福と激励。桜を見ると心が華やぐのはきっとこういう理由なのかもしれない」
そう言う泰麒の横顔は心温かい安らいだ笑顔。それを見た李斎は意を決したように切り出した。
「この景色を李斎からの贈り物だと思って受け取ってくださいませ」
振り向いた泰麒が目を見開き李斎を見つめる。その真摯な眼差しに彼女は少々臆するようなそぶりを見せたが、それでも自身の思いを込めて話し出す。
「台補が折角この国へご帰還くださったのに李斎はまだそれを祝っておりません。それが口惜しく思っておりましたがこの景色に出会えて決めました。確かに偶然に見つけたものですし、実際に手元に残る訳ではございません。しかし私は台補がそんな風に笑ってくださる所を久しぶりに拝見し嬉しゅうございます。
蓬莱ではお祝いに花を贈る習慣がございますのでしょう。以前李斎も台補に花を贈って頂き、それはそれは心華やかになった事を覚えております。ですから今度は李斎が台補に……」
必死で言葉を紡ぐ李斎を泰麒はまじまじと見つめていた。それから
「李斎が生きていて……僕の傍にいてくれて本当に良かった」
と神々しくも美しい笑顔を浮かべたのだった。