昇 竜
作 ・ ネムさま
2010/03/23(Tue) 00:35 No.130
「これは ―」
思わず漏れた感嘆が耳元を過ぎる風にさらわれる。
眼下には龍の如くうねる山の峰々。その背を覆う薄紅の鱗−今を盛りとする桜の筋は、尾根伝いに遥か雲海に霞む凌雲山へと消えていく。
「如何かな」
問われて振り向けば、同じく騎獣に乗り空に止まる延王が笑いかけている。
「戴王は花の下での宴がお好きらしいが、乍将軍はこちらの方が好みではないか?」
「感謝します」
驍宗は素直に頭を下げた。
雁への玉の輸送に伴い、先年の御前試合の礼をと玄英宮を訪れたところ、ちょうど官から逃れようとした延王に出くわし、攫われるように空からの花見に連れてこられた。しかし長い山脈を覆う桜の背波は、戸惑いなど消えてしまうほど圧倒的だった。
「このように、山上に桜が延々と続く景色など、戴ではとても望めません」
飽かずに視線を眼下へ向ける驍宗を見、延王は軽く笑う。
「雁でも稀だ。それにここは多少人の手が入っている」
「人が植えたのですか?」
上空から眺めるからこそ一望できるが、この険しい山並の長い尾根を繋ぐのは並大抵のことではない。
「あの凌雲山の中腹に、海客の僧が建立した古い仏寺がある。やはりその後蓬莱から流されてきた僧が、廃れかけたこの地の信仰を復活する為、寺への道しるべに桜を植えたのが始まりとされている」
山を指差し語る延王の言葉に、驍宗は思わず、日頃滅多につかない溜息をついた。
「人の信心とは凄まじきものですね」
そしてふと漏らした。
「それにしても何故、桜だったのか…」
「想いを託しやすかったのかもしれぬ」
延王が呟くように言う。
「辛い冬が過ぎ陽光が増してくるこの時季に咲く花。しかも一瞬とも言える間にだけ美しく咲き散っていく。まるで人の願いのようだ」
驍宗の怪訝な目線に気が付いているのかどうか、延王は独り言のように続ける。
「信心にしろ欲にしろ、人が強く望めば望むほど、その想いは美しく潔い。強すぎて…想いが適うなら、砕け散ってしまっても構わないと願ってしまう」
また強く吹きすぎる風に括った髪が揺らぎ、延王の表情が見えない。しかし急に髪を払うと、延王は笑い肩をすくめた。
「実は将軍を招いたのは、この風景を一人で見るのが怖かったからだ」
「はっ?」
いつもの明朗な声で延は続ける。
「花は里から山を上り、凌雲山まで上り詰める。そしてまた里から散り始め、山頂まで散り消える様は、龍が空を昇り消えていくようだと、誰かが言った。
美しい光景なのだろうが…あまりに美しすぎると、その後に緑が茂り実がなり、また季節が巡ることを忘れてしまいそうになる。俺は…王は一瞬の美しさに賭けて砕けるわけにはゆかぬ」
そしてぽつりと言った。
「でも、惹かれる」
僅かな間の後、また延は笑った。
「五百年近く生きても、人とは仕方のないものだな」
それから少し走ろうと、延王は騎獣の首を軽く叩いて駆け始める。驍宗は後を追いながら、見た目は自分より若いその王の背に、遥かな年月の重みを感じずにはいられなかった。
(この方は、どこまで気付いておられるのだろう)
いつの頃からか芽生えた玉座への渇望、自国に比べ豊かな雁への羨望 ― 自分が王ならば、戴を決して他国に負けぬ国にしてみせる、それが出来なければ…深く強く根付いたこの想いに対して、延王は何かを伝えたいのか。
吹きつける上空の強い風に、驍宗は僅かに目を逸らした。逸らした目が再び薄紅の鱗を捉えた瞬間、幻影が走る。
山のふもとから花弁が風に巻き上げられ、山の背を走り、一気に凌雲山の遥か頂きまで昇り散り、消える ― それは全身が震えるほど美しい夢だった。
― 了 ―