桜に宿る鬼
作 ・ 翠玉さま
2010/04/01(Thu) 01:44 No.294
陽が落ち、朏魄(みかづき)の仄灯りが煌めき始めた頃、人の4代分を生きてきた彼であっても初めて聴く調べが潮騒の音に紛れて彼を誘っていた。
虚空に拡がる美しい調べは鳳凰の囀ずりか龍の咆哮かと思わせるほど俗世の感覚から駆け離れており、それでいながらこれから深まる宵闇の静寂(しじま)よりもなお深く沈んでいく嘆きのようでもあった。
その底に沈んでいるものを彼は知っていたが、それを言葉で顕す術は未だに見つかってはいない。
潮騒の響く崖の上で天上の、もしくは地底(ちぞこ)からの調べを奏でていたのは彼のよく知る意外な漢だった。
だが、夜に浮かび上がる夥しい数の花を纏った桜の木の下で振り向いた形相は闇の淵から這い上がってきたばかりの鬼を思い起こさせた。それは恐らく先ほどまで奏でられていた調べと同じ、常世にあるはずのない鬼だった。
その鬼は彼を見止めると、いつもの顔に戻り、口の端で嘲笑った。
「俺の演奏に聞き惚れたか?」
この科白に彼は鼻で笑って返した。
「不思議な調べに誘われて来てみれば、猿王のものだったとは興が削がれたわ」
彼の言葉に漢は肩を竦めて、手にしていた笛を彼の前に翳した。
「次はお前の知る曲を吹いてやるぞ」
「その笛を見せてくれれば邪魔はせぬ。後は好きなだけ、鎮魂でも郷愁でも吹くがいい」
目の前の漢は刹那だけ目を見開くと、くつくつと笑って笛を差し出した。
「塗りも巻きも見事な造りだな。手入れもよく行き届いておる。思ったよりも重いが、倭の笛か?」
「倭の国の漆塗りの技はお前の国より上だろう。それは総巻きと言って桜の皮が多く巻かれているから普通の笛よりも重い。向こうでは龍笛(りゅうてき)と呼ぶ」
「なるほど、この笛の音は龍の咆哮という訳だ。どうやら倭の国では笛の種類は多いと見える」
「さすがだな。他にも地の音を奏でる笛や竹だけの素造りのものもある。この笛は親父が趣味に飽かせて造らせたものだが、重いと言って俺に押し付けた」
「実用性に乏しい笛を吹くとは、そなたらしいな。大事にするがいい」
そう言うと彼は笛を漢に返した。
「先程の曲は何を唄っている?」
普段の毒舌とは異なる問いに漢はいつもとは異なる笑みを返した。
「さあな。由来も廃れるほど倭国ではよく奏でられていた曲だ。いつぞやの上皇が今様と歌詞をつけたが、四季の移り変わりを唄ったものだったな」
「そうか。では、次は我が宮城で聴くことにしよう」
そう言って去る彼を見送る音は彼の心に沈む魂を鎮める楽だった。
―了ー