慶国桜伝説―厳頭より―
作 ・ 翠玉さま
2010/04/07(Wed) 23:00 No.404
慶と雁との高岫山にある町の名は厳頭と言い、彼は慶国側を守る門人だった。
高岫山を一歩だけ越えた向かいには雁国の府邸があるものの、互いにそれを踏み越えることはなかった。
雁国から慶に足を踏み入れた者は一様に溜め息をいて行く。それは彼のせいではなかったが、何もできない罪悪感が胸の内に積もって行った。
新王が立って年号が改まっても、相変わらず人々はここで溜め息をつき、悔恨を呟く。延王の助力を得て登極した胎果の王は予王よりも期待はあったが、高岫山まで王の威光が届くにはまだまだ先のことだと皆は思っていた。
そんな彼の意識を変えたのは、景王赤子の初勅とその意味する由縁を聞いてからのことだった。
今、自分に何か出来ることがあるのではないかと・・・
彼が起居する館舎は厳頭の街中にある。いつも食事を摂る飯堂(しょくどう)で一緒になったのは雁国から来た海客だった。
その海客は堯天にいる高官に招聘されたとのことだったが、それが誰かはその海客は言わなかったし、彼もまた聞かなかった。
ただ、恩人に頼まれたと言う枝を大事に抱え、「これが花を咲かせる頃にはこの国も良くなっていますよ」との言葉にその高官がこの国の政治の中枢にある人物だということは見当がついた。
「それは桜だろう?山に入ればこの国でも珍しくはないはずだが、わざわざ雁国から運ぶとは特別な木なのか?」
彼の問い掛けに目の前の海客は相好を崩した。
「こちらの方々は桜への感心が少ないと思っていましたが、よくお分かりになりましたね」
「ああ、親父が庭師で正丁になるまでは手伝っていた。その横縞のある樹皮は間違いない」
「お察しの通り、この桜は特別なのです。蓬莱でよく植えられている桜は葉よりも花が先に咲く種類で、この桜はそれによく似ているのです。挿し木にするには花が終わった後の新しい枝が根付きやすいそうで、お二方の約束の後にわたしが運んで来ることになりました」
「蓬莱では桜は特別な花なのか?」
「国の象徴と言っても過言ではありません。国中至るところに植えられていますよ」
この言葉に彼は一つの計画が思い浮かんだ。そして、他にも蓬莱で好まれている花を海客の男から聞き出した。
彼はまず、夏に向けて綉球花(あじさい)を、秋や冬に向けては茶梅(さざんか)を沿道に植えた。その作業や手入れは任務の前や後になるのだが、疲れは感じなかった。
日々成長する植物が愛しく、他人の溜め息が気にならなくなった。
そして冬を待って、仲間と桜を植樹した。この頃になると、高岫山を越えて来る旅人達の溜め息が感嘆に変わっていた。
翌年の春には桜に花がちらほらと咲き、仲間と一緒に祝った。それに、征州侯や和州侯までが視察に来て慶を桜で埋め付くそう、と張り切って帰っていったのだった。
さらにその翌年には花の数も増え、昨年に植えた菁莪(しゃが)がその木の下に群生し始めた。
「素敵、わたしがここを通った時とは全然違うわよ、陽子」
蒼い髪の乙女が傍らの赤い髪の少年に声を弾ませて言うと、その少年は足を止めて碧の目を見開いた。
「これは桜?」
「あら、そうじゃない?」
もう一人の黒髪の少女は少年を追い越して、桜の樹に近づいた。
「君達は海客かい?」
彼が声をかけると蒼い髪の少女が振り向いた。
「わたしは違うけど、向こうの二人はそうよ。どうしてわかったの?」
「桜を見て足を止めるのは海客が多いからね」
彼が笑って言うと蒼い髪の少女は小首を傾げた。
「3年前に花はなかったわ、この道を整備しているのは貴方達よね。花を植えようとしたのは何故?」
「慶国の高岫山が雁国並みになるには時間がかかるけど、いつまでもみすぼらしいのは寂しいだろう?、花でも植えれば楽しくなるかと思ってね」
「なぜ、桜を?」
今度は赤い髪の少年が問いかけた。
「蓬莱は桜が多い処だと聞いて、胎果の主上に相応しいと思ったからだよ。桜の他にもここには蓬莱でも親しまれている花を植えてある。それに桜は梅や桃よりも、慶が新しく生まれ変わる気がしないかい?」
「するわ!」
二人の少女が声を揃えて叫ぶと、少年は俯いてくつくつと笑った。
「そうだな。きっと王も気に入るだろう」
「ええ、絶対にお喜びになるわよ」
黒髪の少女が断言すると蒼い髪の少女も「そうね」と言って二人の少女は華やかに笑った。
三人は他にどんな花が咲くのかを彼に聞き、話が終わると礼を言って元来た道を引き返そうとした。
「雁に行くんじゃなかったのか?」
彼が声をかけると、赤い髪の少年は明るい笑顔で振り向いた。
「花を見に来ただけです。また来ますよ」
そう言って立ち去る少年の後を二人の少女が従う。
「今度はお盒飯(べんとう)を持ってきましょうよ!」
そんな少女の言葉に彼は腰掛けも必要だな、と思った。
不思議な三人の少年、少女達が立ち去った後には春らしい華やぎが残った。
―了ー