峰 桜
作 ・ griffonさま
* * * 一 * * *
2010/05/02(Sun) 13:51 No.648
慶東国の首都である堯天。里府のある丑寅の角と丁度対角となる申未の角に近い広途に、朱旌の小屋がかかっていた。堯天の中央付近にある常設小屋に入るような、常連の朱旌ではなく、新参の小屋と言うこともあって、多くは好事家とも言えるよう者達が挙って出かけているようだ。ただ、架かっている物は小説だけと言うものではあった。
本日の最終回と大声でふれてまわる少女の声に誘われるように、紅い髪の少年が小屋に吸い込まれた。
慶東国では、紅い髪は本来珍しいものだったのだが、数年前に登極した美少女王の手腕が民の期待に答えるたびに、紅い髪に染め直した民の数が増え続けた。王と同世代の少女達の過半数は紅く髪を染めているほどだ。だが、少年となるとそう多くは無いようだ。
小説が終わり、吐き出されてくる観客に混ざって、先ほどの少年も出てきた。あたりの観客達は、口々に感想を述べあっていた。
――意外なほどに面白かった
――話に出てきた桜は、きっと明郭のことね
人並みに紛れながら、少年は他の観客達とは違い、固く唇を結び眉間に皺を寄せていた。
* * * 二 * * *
2010/05/02(Sun) 13:52 No.649
朝議を終え、執務室を訪れた浩瀚からの種々の報告を一通り受けた後、陽子は浩瀚に硬い表情で、報告とは全く関係の無い話を切り出した。
「浩瀚は峰桜と言うのを知っているか?」
「明郭の峰桜のことでございますか?」
あくまで浩瀚は、にこやかな表情のままだ。
陽子は小さく肯いた。
「それが?」
「阮璋と言う酷吏が、何万人もの罪人や黄朱の民を使い、たったの七日作らせた物だと聞いた。おかけで、大量の怪我人や死人まで出たとか。植樹のそもそもの理由が、赤子に取り入るためなのだそうだ。明郭の凌雲山の峰を雲海直下まで桜を植え、桜を好む赤子を喜ばせれば色々好都合な事が起こると考えたらしいぞ」
陽子が気付かないほどのほんの一瞬、浩瀚の表情が明らかに驚きの色を表していた。
「なるほど」
「なるほどって」
陽子は、あきらかに不満そうな貌をしていた。
「わたしの知らないところで、まだこんな事を考える輩が居るらしい。それも和州だ。和州侯は柴望、よもやは無いはず。話の出所が新興の小説と言うのも如何にもすぎて逆に気にかかってしまうんだ。何かの企みの伏線と言う事もあるようにも思えるのだが」
「阮璋と言う酷吏。私の記憶の中にはございません。それに主上のおっしゃるとおり、柴望によもやはありませんでしょう。ですが、確認のためお時間を戴けますでしょうか」
「任せる」
冢宰府へと向う回廊を歩きながら、浩瀚は脳内の仙籍簿を捲っていた。ふと立ち止まり、園林に視線を向け、顎に右手をやると溜息をもらした。
――阮璋……ね
* * * 三 * * *
2010/05/02(Sun) 13:53 No.650
共に吉量に騎乗した陽子と浩瀚は、和州侯柴望自らの見送りを受けて、州城の禁門から飛び立ち、直ぐに吉量を反転させ凌雲山と正対しながらゆっくりと降下し始めた。
禁門のほぼ真下から凌雲山の峰を辿る様に、桜の道が続いている。ただ、人がどうにか張り着けるような場所には見えない。
和州の峰桜は、小説の語るように人の手だけで植えることは不可能と言うしかない。それでも実際に植えられてあるのだからと、陽子が眉を顰める。
「この峰桜は、おそらく騎獣を操って植樹したものと思われます。勿論、麓のあたりともなれば、人が登ってくることも可能でしょうが、ここまで下から登ってくる事はまず不可能です。凌雲山の外壁を、禁門まで登ったと言う記述は、我が国だけではなく十二国中の正史を繰ったところで発見は出来ないかと」
「つまり?」
「小説の語るように、罪人を使役してと言うのは現実的ではないと言うことでしょう。阮璋と言う官吏に関しましても、達王の代に八人、薄王の代に二人、仙籍簿で確認は出来ました。それぞれ管轄府と任地程度の記載で、酷吏であったとも能吏であったとも判りません。或はその程度の者達であったのではなかったかと想像は出来ますが」
「うん。たぶん今のところ、わたしの予想の範囲内ではあるけれど」
「裏も確認いたしましたが、今回の小説の作者は朱旌ではなく、どうも持ち込みのようです。持ち込んだ者も調査いたしました。戯作家志望の女性で、明郭の峰桜からの全くの想像でしかなさそうです。特段の意図は感じられませんでした」
「ではわたしは、純粋にこの桜を愛でても良いのだな?」
「そうなりますね」
その言葉を待っていたかのように、陽子は華やかな笑顔を浩瀚に向けた。浩瀚の浮かべた笑顔には、何やら含むものがあるようにも見えたが、陽子はあえて無視することにした。
「浩瀚と二人きりで、それものんびり桜を眺めるのって、いつ以来かな」
ゆっくりと二頭の吉量が螺旋を描きながら峰桜に沿って降下していく。ゆるやかに凌雲山の麓から吹き上げる風が、峰桜の花弁を舞わせ、吉量の周りで桜色の帯を成していた。
* * * 四 * * *
2010/05/02(Sun) 13:54 No.651
「主上は如何されました」
和州城に幾つもある四阿の一つ。淡い風に揺らされる燈火の下には、石案の上に杯を並べた男が二人、向き合って座っていた。二人の頭上から、桜の花弁が一片二片と舞い降りていた。燈火の陰になったあたりに、桜の木があるのかもしれない。
男達のうちのひとりは寛いだ様子で、もう一人は恰幅の良い身体をきっちりとした官服で包み、背筋を伸ばして座っていた。
「先にお返し申し上げた。今回の一件の最後の詰めがありますからと言う事にした」
「詰め……ですか。詰めも何も、正直に桜を植えたのはご自身ですとおっしゃれば、それこそ詰みでしょうに」
石案の杯に手を伸ばした寛いだ風の男は、鼻を鳴らしてから、それを煽った。杯を石案に戻すと空かさず、恰幅の良い男が酒を注ぎ足した。
「いまさらどの面を下げてそんなことが言える? まさかこんな事が起こるとは、流石に想定外だった」
「たしかにそうでしょうが、それとこれとは」
「違うと言えば違うが」
「もともとこの桜は、浩瀚様が官吏になられた時、悧王の圧制から救えなかった民への贖罪のために植えられたものでしょう。桜を選ばれたのも、延王君がご自身のために、桜を十二国中に広めようと、安価で各国に苗木を流されたため。下級官吏でも買えるほどのものが他に無かったからと言うだけで、今上の主上に阿ると言う意図など在るわけも無いでしょうに。背景も何もどう考えたところで絡む物など在りはしないのですから。迷惑な小説が流行ったものです」
恰幅の良い男は、盛大に溜息を漏らした。
「私の不徳であると、言えるほど私も人間は出来てはいないが。まぁ良い。柴望、この件はこれで話は終わりだ」
「はぁ」
「桓堆にも喋るなと言ってある」
浩瀚は、燈火のために逆光となって姿の見えない桜の木を見あげた。一片二片と舞う花弁を見ながら、柔らかで、少しだけ残念そうに笑みを浮かべた。
* * * 五(了) * * *
2010/05/02(Sun) 13:55 No.652
堯天の中でも最も古いとされる茶館の通りに面した側は、蓬莱で言うオープンテラスのような風情になっていて、夜は燈火の下で茶を楽しむ事が出来た。真ん中には楠の大木がある。南側の通りから一番離れた角に桜の古木があり、その下はこの季節予約を受けた者だけに許される夜桜を愛でる席が設けられていて、辺りとは少し隔絶した雰囲気に設えてあった。
その席に、老爺と茶斑の髪の男が座っていた。
「今回の依頼の料金を支払いに来た」
「ありがたく」
老爺は紙の包みを茶斑の髪の男に渡した。押し戴く様な風を一瞬した茶斑の髪の男は、それを懐にしまった。
「案外受けたようじゃな」
「そのようですね。あの朱旌達も、良いねたを貰ったと喜んでおりました」
「そうかな」
「まぁ、設定にかなり無理がありはしますが」
「峰桜の本当を知る者にはそうではあろうが、知らねば、面白くもあろうさ」
「知る者にはいい迷惑でしょうけれどね」
「そうかな」
茶斑の髪の男は、苦く笑みを浮かべた。
「老師のお考えは、私如きには読みきれません」
「いやいや。単に知り合いの戯作者志望の娘から頼まれたまでのこと。彼女も次回作の依頼があったようじゃし、良い仲介者をご紹介いただいたと、わしも感謝されたし、労も紹介料が入ったことじゃし・・・のう。まぁ〜るく収まったと言うとこじゃ」
満面の笑みを浮かべた老爺は、卓の上の茶を飲み干すと、席を立った。
――ヤツ《浩瀚》も妙な対抗馬《ライバル》が出来たものだ。遠回しな攻撃だけに厄介だろうな。他人事ながら……
ゆらりゆらりと人並みを縫って小さくなる老爺を見送り、凌雲山を見あげた労は、小さな溜息を漏らした。
―了―