春に咲く花
作 ・ ネムさま
2010/05/03(Mon) 01:07 No.664
李理は後悔した。
ここは内朝ではないのだから一人で外に出てはいけないと、あれ程母様から言われたのに、我慢ができずに飛び出した。だから誰もいない小路で、こんな怖そうな人に声をかけられたのだ。
そして体を硬くしたままの李理へ、呆れたような声が落ちてきた。
「確かにこの人体じゃ人攫いに見えるだろうが、俺はこれから、まだ三軒も廻んなきゃならないんだ。嬢ちゃんを攫ってる暇なんかないから、その張さん家を知ってるなら教えてくれ」
李理がそっと瞼を上げると、男の後ろにいる馬と目が合った。馬と思ったが、額に一本角があるから騎獣だ。鋭い蹄や角がある割には人懐っこそうな瞳をしている。李理はほっと息を吐いて、一軒先の大きな邸宅を指差した。
男はやれやれといった風に礼を言い、邸宅に入っていった。そしてそこから出て来た時、また李理の姿を見つけ頭を抱えた。
「…ここん家を知ってるからにゃ迷子ではないな」
男はなるべく距離を置き、改めて李理に話しかけた。
「最近の芝草は物騒だって言うぞ。一人で帰るのが怖いなら、張さん所の誰かに言って―」
「知ってる。李理と同い年の子が、悪い人に殺されたの」
そう言うと、李理の目からみるみる涙が溢れてきた。
「おい、おい」
男は慌てて辺りを見回した。そして人攫いと間違える人間がいないことを確認してから、李理の傍に寄ってきた。
男が動くと騎獣が小さく鳴いた。その声と共に李理もぽつりと言った。
「李理は生まれてきちゃ、いけなかったのかな」
「え?」
李理の目から、また涙がこぼれる。
「その子が死んでから、母様は李理の心配ばかりしているの。
今日も叔母様に、李理はこんな時に生まれてきて可哀相だって、そう言ってるのを聞いたの。
母様がそう言うと父様も黙ってしまうし…父様たちを困らせている李理は、生まれてこなかった方がよかったのかな」
男は黙っていた。そして李理がまたしゃくり上げるのを見て、口を開いた。
「確かに ― これから嬢ちゃんが生きるには、きつい時代になるかもしれんな」
そのはっきりした口調に、思わず李理は目を見開いた。
「天候が荒れて大きな災害が続いているし、物価もじりじり上がっている。上も下も犯罪が増えたし、虚海には妖魔も出てきているそうだ。俺が子供の頃もそうだったが、このまま行けば何れ芝草にも現れるだろう」
男の話は難しい言葉も混じって李理には半分しか分からなかったが、その分怖さが増してくる。そんな泣きべそ顔の李理へ、ふと男は問いかけた。
「嬢ちゃんは“黄海”って知ってるな」
「…妖魔がいる所?」
男は少し頬を緩め、では猟尸師は、と問う。李理が首を横に振ると、男は“黄海で妖獣を捕まえ、馴らして売る仕事だ”と言い、また続ける。
「だから妖魔がうようよいる、水も食い物もない所で何ヶ月も暮らすことになる。それから、たまに王がいなくなって荒れた国へ妖魔退治の仕方を教えに行かされることもあるが−そうした所は、やっぱり黄海にいる時と大して変らない生活になるな」
徐に男はしゃがみ、李理と目線を合わせた。
「もちろん楽じゃないし、目の前で人に死なれるなんてことは一度や二度じゃない。だがそんな所にいる奴らへ“大変だから、可哀相だから死んだ方がいい”って、嬢ちゃんは言えるか?」
李理は男の目を見た。そして思い切り首を横に振った。自分でもはっきりした理由は分からなかった。でも“言えない”と感じたからだ。
小さな鳴き声がした。見上げると騎獣が二人を見下ろしている。李理の口元が僅かに緩む。そして、騎獣の背に掛った荷に気がついた。
「あぁ、犬狼真君の桜か」
「サクラ?」
男の言葉に李理は驚いた。李理の知っている薄紅の、少し先の長い花弁の桜に比べ、騎獣の背にある花は赤茶の葉に隠れ気味の小さな白い、何とも頼りなげな花なのである。
「一応“桜”とは言われているが、本当はよく分からん」
苦笑いをしながら男は言う。
「五山のふもとの谷に、春になると必ず咲くから、というだけで“桜”と呼ばれている。
犬狼真君−黄海の守り神が植えたとも、特に愛でているとも言われて…」
「黄海に春はあるの?」
驚いた李理の声に、男は更に苦笑する。
「ここに比べれば僅かだがな、空気が緩み水嵩が増して地に緑が這う時期がある。そうした中で、この桜は咲く。
そうだな。どんな所にも来るものは来るし、咲くものは咲くんだろうな」
そして男は騎獣の背から黄海の桜を下ろし、李理の前に差し出した。李理はそっと手を伸ばす。
微かに揺れた小さな花は、それでも葉の陰で淡い光を湛えている。見つめる李理の耳へ、男の言葉が静かに落ちてくる。
「国が荒れれば真っ先に犠牲になるのは子供だな。だが、状況にすぐ慣れるのも子供だ。
どちらも本当だ。覚えておきな」
李理は結局その男− 知り合いの猟木師に頼まれ、久々の里帰りがてら客へ“桜”を届ける最中の猟尸師に、叔母の家まで送ってもらった(男が言うには、ここで別れて李理に何かあれば、自分が疑われるからだそうだ)。家の門の前で、李理は少し勇気を出して、男の騎獣−駮に触らせてもらった。
駮の首をゆっくり擦る李理を見、男は少し笑った。
「まぁ、いざとなれば子供だって王になれる。多少国が傾いても何とかなるさ」
それを聞き、李理は不思議そうに問い返す。
「でも王様には、麒麟のいる蓬山へ行かないとなれないんでしょ。蓬山は黄海の…」
「十二で黄海を渡り、王になった娘がいる」
男の言葉に李理は目を丸くした。それから指を折ってみたり、目を左右に動かしたりしていたが、ふと思い付いて言った。
「でも、もしおじさんが昇山するなら、私は後でもいいわ」
李理の言葉に“俺はそんな柄じゃ”と手を振りかけた男は、突然動きを止めた。
「万一そんな事になったら…子供をけしかけるより真っ先に自分が行けって、きっとどやされる…」
そしてあからさまに肩を落とした男を見上げ、李理は小首を傾げた。
― 了 ―