悪 夢
作 ・ griffonさま
2010/05/22(Sat) 23:55 No.914
冷たい雨が降っていた。辺りの空気も凍らせるのではないかと思えるほどだ。暫くすると、雨に白いものが交じりはじめた。その白いものは不連続な動きで、空中を舞い降りて来ていた。
―― 雪……?
舞い落ちる雪の量が一気に増え始めた。と、同時にあたりが急速に赤く染まっていく。
―― 夕焼け?
先ほどから降り始めた雪もピンク色に染まりはじめていた。
ふと気づくと、目の前に誰かが立っていた。少し距離があって顔は判別出来ない。
――顔は見えなくとも間違えるはずもない
見たことの無い服を着ていた。
和服のような、怪しいげな中華風小説の挿絵で見たような。濃い灰色のその着物は薄汚れて、袖口も裾も擦り切れたように見えた。
―― 間違はしない
声をかけようとしたが、喉が張り付いたようになっていて、ただ空気の漏れる音がするだけだった。
―― 陽子 陽子っ 陽子ぉ
大きく息を吸い込み、ありったけの力を振り絞るようにして叫んだ……はずだった。嵐の夜の風に啼く電線のような音がするだけだった。
髪は血で染めたような赤。
―― 確かにあの子の髪は赤く見えたけれど、あんなには。でも……
日に焼けた褐色の肌。
―― 大人しい子だったから、日に焼けた事などないし。色白の綺麗な肌だったのに。でも……
見たことの無い服。履かないはずのズボン。力なく下げられた右手に握られているのは。
―― あれは……かたな? そんなっ あの子が何でそんな危ない物をっ
見ず知らずの誰かだと思ってしまえれば良かった。でも、あれは確かに、自分の娘。大切な、たった一人の、かけがえのない……
「ああぁっ 陽子ぉ」
―― 声が
薄暗い。目の前には見慣れた壁紙が見えた。暫く放心したように、律子は壁紙を見詰めたまま無表情だった。ゆっくりと頸を折るように項垂れた。視線の先の布団に焦点が合うと、自身がベッドの上で半身を起こし、布団の端を固く握り締めていることに気がついた。律子は長く伸ばした前髪をかきあげた。額の汗が掌について不快だった。
あの日から毎日、律子は目の前でわが子が攫われる夢を見ることとなった。夢の中では最後に必ず、陽子を攫っていった者が見下したような視線で律子を嘲笑う。哄笑が耳から離れず、眠る事すらままならなかった。
陽子の失踪を引き摺る律子を、正志は理解しようとはしなかった。まるで自分の娘が存在しなかったかのように振舞う正志の態度は、眠れぬ律子を更に苛立たせた。
結局、陽子の失踪をきっかけに急速に冷え始めた二人の間には、どうやっても埋まらない決定的な溝が出来上がっていた。
一年を過ぎる頃、律子にとっては漸くと言える離婚調停が始まった。
時間はかかりはしたが、律子は離婚届けと当座の生活費を勝ち得る事が出来た。独りになり、このアパートメントで暮らしはじめてから五年が過ぎていた。このアパートメントに引っ越してからは、なぜだか悪夢はすっかり治まってしまっていた。
―― 何故また。今日久しぶりに杉本さんと会うのが引き金なのかしら。それとも陽子の身に何か起きたのかしら
律子は今でも陽子はちゃんと生きていて、いつか戻ってくると信じていた。杉本優香と時折会う事は、頼りなげだが信じて掴んでさえいれば切れる事の無い蜘蛛の糸のように思っていた。そしてそれは、陽子に繋がっていると信じていた。
律子はふと、壁にかかったアナログ時計を見た。
―― もうこんな時間。シャワーを浴びて支度をしなくては
妙にけだるい身体を起こすと、キッチンに向った。コーヒー豆の入った缶から、計量した豆をコーヒーメイカーに入れ、スイッチを入れた。豆を挽くモーターの騒がしい音を背中に、バスルームに入った。
招かれたのは、優香のマンションの一室で、カウンターキッチンに繋がるリビングだった。ワンルームにそのすべてがあるためだろう、壁紙と似た色調のロールカーテンが引き下げらて、生活臭の漂う部分は覆い隠されてはいた。だが、客があると言うこととは全く無関係だとでも言うように、優香の子供達はそこらじゅうを走り回っていた。優香と話していたつい先ほどまで、そのことは律子にとって、それほど不快ではなかったのだが、ふと陽子も今頃、こんな風に幸せな家庭がと思った瞬間、焦点の合わない視線はテーブルのコーヒーカップにあった。優香に対し何か攻めるものがあるわけも無いと認識しながら、心の底に小さな黒い塊が出来上がってきつつあるような気がしていた。
「陽子は、無事なのかしら」
目の前のテーブルに置かれたコーヒーカップを見つめながら、律子はふと呟いた。
「ごめんなさい。良く聞こえなくて」
ソファーから立ち上がった優香は、両手を腰に当てると睨みを効かせた。
「こら、あなたたち。静かにしていなさいって言ったでしょう」
優香は、ソファーに向こうを走っていく子供達に向けて言った。四人の子供たちは急に立ち止まり、殊更のようにゆっくりと、すまし顔で歩いて通り過ぎていった。
「夕べ、また悪夢を見たの」
律子は夕べ見た夢の事を、優香に話した。
「律子さんには、陽子の貌が見えなかったのでしょう?」
「ええ」
「こんな安請け合いな事を言っても信じてもらえないかもしれませんが、陽子はきっと大丈夫ですよ」
「どうしてそんなことが判るんです? とても辛いことがあって、助けを求めているのかもしれない。大怪我をしてたり病気で苦しんでたり」
「それでも陽子なら大丈夫です」
確信している優香の顔をいぶかしげに律子は見た。
「陽子は……」
優香は、言葉を繋ぐ事を一瞬躊躇った。
「私の事を気のふれた妄想癖のある変な女だと思われてもかまいません。でもこれから話すことは全部本当の事で、誰が何と言おうとも事実なんです。律子さんにも今まで黙まっていたことですけれど」
そう前置きすると、陽子と優香と浅野が失踪したその日の事から話しはじめた。
気がつけば、西日はすでに赤みが差し、夕方の色合いに変わっていた。あれほど騒いでいた子供達の姿も見えない。
「陽子は、あちらでは王様なのね」
「そうです」
「死ぬことすら出来ないだなんて」
「……」
「そんな重荷を背負わされて」
「違います。陽子は望んでそれを受け入れたんです。自分の愚かしさを、あさましさをいたらなさをあちらで暮らすことで知って、知ってなおそれを望んだんです。そして望まれたんです。だから陽子は大丈夫なんだと、私は信じています。本当の自分を知って、なおその先へと彼女は進んだんです。掛け値なしでそんなことの出来る人は、そうは居ないと思うんです。だから」
「……今すぐ信じろと言われても」
「荒唐無稽でしょう?」
優香は微笑えんだ。
「今聞いたことを受け入れてと言われても、すぐには無理だわ。でも、貴女の目には嘘は見えない……と、思う」
「わたしがこちらに帰る前、陽子がこんなことを言ってました。―― むこうに居る時は、王様ってなんでも好きに出来るんだと思ってた。でも、案外王様って不自由みたい。自分で好きに出来ることは何も無いんだ。ほんとうに一欠けらも無いって判った。だって、自分の命でさえ好きに出来ないんだ。だけど、わたしは好きなことをして生きていけるんだという、そんな感じはあるかな。辛くて悲しくて悔しくて投げだしそうになるけど、でもたぶん、なんとかやってけると思う ……そう言ってました」
「好きなことをして生きる?」
「そう。好きに生きるのではなくて、好きなことをして生きるんだって」
律子は、優香のマンションを出ると、駅へと真直ぐに向かわず、気の向くままに角を曲がり、わざと迷子になるつもりで街を歩いてみた。ベッドタウンにしては、意外に人通りが少ないような気がした。
春から初夏にかけてのこの季節に相応しい、軽い素材で出来たマキシ丈のスカートが、脚を蹴りだすたびに軽やかに舞い上がった。視界のすみにその動きが入ると、なんだかとても楽しい気分になっていた。陽子は大丈夫だと優香に言って貰えた事で、気持ちが少し楽になったせいかもしれないと、律子は考えていた。
楽しい気分のまま、気侭に歩いていると、気付けば本当に迷子になっていた。
自分がどの方向に向かって歩いていて、どちらに向かえば駅に出るのか、全く見当もつかなくなっていた。苦笑いを浮かべながら更に歩いていくと、河に突き当たった。土手へと登る道路をそのまま上がっていくと、橋もなく道はそこで終わっていた。終わった道の脇に高床式のように持ち上げられたログハウスがあった。ログハウスの下は、駐車場になっていて、英語ではないだろう言葉の書かれた看板が支柱に立て掛けてあり、辛うじて喫茶店の類ではないかと想像できた。駐車場には自動車は停まっていない。一台だけ、紅い大きなオートバイが停まっていた。
階段を上り、入口のドアを開くと、ドアチャイムが古風で乾いた音をさせた。
「いらっしゃいませ」
マスターらしき男性が、見た目から想像されるよりも少し甲高い声で言った。
「何名様ですか?」
律子が店の中を見渡すと、カウンターに一組の客が居るだけだった。抑えたボリュームで、ピアノの音が聞こえていた。律子は、右手の人差し指を立てて示した。
「今日はこの時間でも結構暖かいですから、デッキの席をご案内しましょうか。川面からいい風が吹いていて、気持ち良いですよ」
そう言うと、マスターは奥の扉を開けて、律子を案内した。
日が沈みかけ、晴れ渡った空は東に向かって濃い紫色へとグラディエーションになっていた。河の向こう岸に見える街には、街灯が灯り始めていた。デッキには透明のポリカーボネイトの屋根がかかっていて、廻りも同じく透明なポリカーボネイト製の引き戸で囲まれていた。今はすべて一纏めにされているため、川面を渡る風が吹き抜けていた。
デッキに上がったところで、マスターは右手をゆっくりと回して、どちらの席にしましょうかとでも言うように、無言で微笑みながら頸を傾げた。
このデッキには、テーブルが無かった。大振りなラタンの椅子にクッションが敷かれていて、椅子の肘置きに小さなトレイが取り付けられていた。ラタンの椅子達はほぼ適当にと言っても良いような間隔で、河に向かって置かれていた。
一番端に置かれた椅子に決めた律子は、腰掛けた。思った以上に椅子は深く律子を呼び込んで、穏やかに抱きしめるように包み込んでくれた。ラタンの椅子だから、もう少し硬い座り心地なのだろうと想像していたのだが、クッションのせいだろうか、身体のどこにもきつく当たるものはなかった。膝裏を椅子の端に持ち上げられ、サンダルはフロアから離れている。身体を起こした律子は、サンダルを脱いで床に揃えて置いた。
椅子の左側の肘置きに凭れる様にして、暮れてゆく空を眺めていると、川面を渡る風に乗って、街の喧騒がまるで遠い世界の音のように聞こえてくる。左膝を抱え込む。寒くも無く暑くも無く、クッションに包まれるように、柔らかな風の音だけが聞こえていた。
デッキから降りてきたマスターは、律子の注文した紅茶をトレイに載せたままだった。
「あれ? さっきのお客さん、お茶飲まずに帰らはったん?」
「いえ」
頸を左右に振り、マスターはカウンターの中へと入った。
「ならなんで」
「お休みになっていたんですよ」
「あの椅子。うたた寝してくれと言わんばかりやもんなぁ」
「結構多いですね」
「さっきの方結構美人やったから、美しい寝顔みれて、役得やったんとちゃう?」
マスターは、笑みを大きくした。
「たしかに、危うくトレイを落としそうになりましたから。絹のようなまどろみを纏った、スリーピングビューティーでした」
「なんかどっかで聞いたようなフレーズやない?」
二人は、声に出して少し笑った。
雨が降っていた。その雨に混じってピンクの花弁が舞っていた。花弁の多さに、あたりは淡いピンクに染まっていた。その中に陽子は立っていた。
少し寂しそうな目をしてるようにも見えた。でも、口角は上がっているように見えた。見たことも無いグレーの服は、雨を吸って黒くなり、しばらくするとその上から花弁が張り付き、明るいピンクの上着に変わっていた。
陽子の後ろから、誰かが現れ、何か声をかけたのだろう。陽子は振り返り、その人のほうへと歩きはじめた。
一瞬、陽子は振り返った。明らかにこちらを向いた。律子と視線を結ぶ。
――これは……夢よね?
遠くて表情ははっきりとはしないが、確かに陽子はこちらを見た。そして、にっこりと微笑んだ。
―了―