煙 雨
作 ・ ネムさま
2010/05/26(Wed) 23:15 No.1006
谷間を抜けると、小さな盆地に入った。
途中から影を射していた雲は、更に低く降り、小高い山々の頭をかなりの速さでかすめ走っている。しかし、その上では明るい陽光が残っているのか、黒雲が時々、白光りした。
「妙な天気だ」
陽子が一人ごちすると、手綱を持つ手が軽く動く。冗祐が先を促しているらしい。班渠もいるとは言え、一人お忍びの王を、雨が降る前に王宮へ帰したいのだろう。陽子は軽く笑み、馬を走らせようとして、ふと視線を巡らせた。
盆地のやや片側に寄る小高い土手道から、開けた中心部分を見下ろすと、ぽつりと小さな丘に行き当たる。木に覆われ黒々とした円錐形を一巡り、淡い薄紅の筋が螺旋を描き取巻いていた。
『あぁ、桜だねぇ。きっと丘の上に祠があって、桜並木の参道が丘に沿って、ふもとから続いているんだよ』
不意に身内から甦った声に、陽子は当てもなく振り返る。そうした陽子の動作に不審を覚えたのか、ざわりと班渠の気配がした。
「いや ― 何でもない。行こう」
そう言うと陽子は何とはなしに丘の上へ頭を下げ、馬を促した。
盆地を抜け出すと、雨は既に降り始めていた。広がる淡い緑の田畑は、煙る雨で空との境に溶け込んでいる。ぬかるみに足を取られぬよう馬の速度を落とした陽子は、自分の立つ土手の左手に、田畑を曲がりながら縫うように続く畦道に気が付いた。
畦道の片側には桜の木がぽつりぽつりと続いていた。植えてから間もないのだろう、幹は細く丈は低いが、花の色は瑞々しい。淡い緑と灰色掛かった空に、更に淡い薄紅の花 −
あぁ、と陽子は思い出す。これは祖母の家に行く途中、列車の窓から見た風景と同じだと。
あの時、幼い陽子に話しかけたのは祖母だったのか、それとも母だったか。片並木の桜の花が雪洞のよう、先の霞む道へと誘っている。
『この道の向こうは…』
「主上!」
陽子の体ががくりと揺れた。瞬きを幾度か繰り返すと、雨は先ほどよりも強く降っている。土手の下で、慌てたような激しい荷車の音が駆けていった。
もう一度目を凝らしたが、畦道の桜の花も雨に紛れている。傘を被った陽子の顔にも、雨水が幾筋か走っていた。左手がそっと動き、陽子の頬を撫でた。
「… ありがとう」
陽子が微笑むと右手が手綱を振り、馬はまた歩き始めた。
― 異界が見えました ―
後に班渠と冗祐から報告を受け、景麒は思い出した。
ごく偶に、蝕でも呉剛門でもない、異界と通じる道が現れることがあると、碧霞玄君がお伽噺のように語ったことがあった。けれどもそれはあまりに稀なことだとも。だから景麒は、主には何も伝えなかった。
金波宮の外は、もう新緑の季節へと移ろうとしている。
― 了 ―