桜 酒 1
空さま
* * * 序節 * * *
2011/03/30(Wed) 22:10 No.207
真っ黒に光る回廊が続く。
黒い官服を着た官吏が遠くに何人も歩いているのが見える。その回廊を、官吏と比べるとかなり場違いな服を着て歩く男が二人いた。男と言っても一人は少年と言ってもよいくらいの年かっこうだ。髪は金色、明るいうぐいす色の袍衫を着ているのだが、袖がかなり短かった。良い身なりをしているのにもかかわらず、庶民の服と似通っている。隣を行く男は美丈夫を絵にかいたような若者だったが、こちらも官吏の着る黒い服ではなく、山吹色の上下を中にまとい薄い水色に紫の文様が入った上着を羽織っていた。こちらも身分は高そうだがずいぶんと動きやすそうな服装だった。
ここは十二国、雁という国の中心にある凌雲山、その雲海の上だった。時は四月を少し過ぎたか、園林にはちらほらと桃の花が見え隠れしていた。
しかしながら、雲海の下はまだどんよりとしてよく見えない日が多い。雪雲に覆われていることが多いからだ。晴れればまばゆい光が、雲海の下からこの凌雲山の上に反射して届くのだ。まだ残っている雪が、薄明るい日の光を反射して、皆はその光に目を細める。そんな場所だった。
「できたんだってな」
小さい方の、金髪の少年が若者に向かって声をかけた。かけられた若者の方は、にやりと笑って少年を見る。
「ああ」
答えは短いが、若者の気持ちを十分に語っていた。
「そうか」
金色の髪を日の光に輝かせ、少年の方はひょいと回廊の手すりに手をかけ、身体の重心を整えるようにしてそこに腰かける。若者は仕方ないと言った表情で、そこから引きずり降ろそうとすると、その手すりにするりと立って、危なげに足をよろめかせながらも、釣り合いをとりながら、その上を伝わって歩いて逃れた。
「やめろ」
若者は少し顔をしかめる。
「ふん」
と言って少年はふてくされたふりをする。そしてまた、ひらりと飛び降り回廊に降り立った。
「今年は良い春になるんじゃねえの」
少年は若者にそう訊ねた。
「だといいがな」
若者は答える。そのいい加減な言葉とは裏腹に、ひどく嬉しそうな顔をして見せた。
「ったく、とろけて縮んだナメクジになるなよ」
「なんだと! ふん、あれは塩をかけて溶けるんだろうが」
「ばあか、砂糖でも溶けるんだよ。砂糖を使うと金がかかるから塩かけてんだろ!」
「それはほんとうか?」
「おい、そんなことに真剣なるなよな。俺だって陽子は大好きなんだから。一人占めすんなよ」
「ああ、もちろんだとも。昼間の花見はすべてお前に任せるさ」
「夜だってお前の者になんかなるもんか、陽子は忙しいんだ」
「そうか?」
そう言いながら心配事など微塵もなさそうだ。どうやら、なにがしかの約束は取り付けているらしいと判断した少年は、短いため息をついた。
「じゃあ、俺はここで別れるわ」
「ああ、靖州侯の仕事でもしてこい。一晩留守にするんだからな」
若者は、そう言い放った。
この二人は雁国の国主、延王とその王を選んだ麒麟、延麒であった。延王は、その名を小松尚隆、胎果である。一方の麒麟は呼び名を六太、こちらも胎果で蓬莱時代の呼び名をそのまま受け継いでいる。
その、六太と別れて、尚隆は凌雲山の山側へまっすぐに向かう回廊を歩いた。崖にごく近くなるとそこで黒光りする玄英宮特有の渋い回廊が終わり、あとはできるだけ平らにしようとしたのだと認めることはできるものの、どう表現しても平らとは言えない簡素な渡り廊下が山麓の縁にまとわりつくように伸びていた。尚隆はその道をさらにまっすぐに進んで行く。ずいぶんと歩くと、その板作りの廊下は凌雲山の崖にぶつかるように伸びていた。よく見ると、崖には裂け目があり、その中に道が続いている。その裂け目をくぐり、彼は凌雲山の中へと入って行った。
そこは、ほの暗い洞穴だ。鼻孔をくすぐる香りに目が回りそうになる。それでも男は一人で奥に進んで行った。ずいぶん歩いた。いつ最奥に到達するのかと思われたが、しばらく行くと少し灯りの数が増してきた。
やがてこんなに広い場所があったのかと思うほど開けた場所にでた。しかし、天井が見えないだけで、やはり洞穴の中であることには間違いがないようだ。蓬莱のたたみにして四十畳近くあるだろう平らな所に、大きな檜造りの樽が三つほど置いてある。そこには十人ほどの男が平伏していた。
「できたそうだな」
尚隆は平伏した男たちの誰ともなく声をかけた。その中央で平伏していた男が、さらに頭を下げ、
「大変お待たせいたしました」
そう答えた。
「出来栄えを見せてもらおうか」
そう言った尚隆に、今度は一番端にいた男が、白磁の優美に膨らむ腹を持つ酒器のふたを取り、同じような白磁の器にほんの少し注ぐ。
「ほう」
男はまず液体の色を少しのぞき見るが、ほの暗い光しかないので、良くは確認できない。次に香りを確かめる。鼻をくすぐる酒精の冷たい気に、春の暖かさが隠れていることに気がついた。次にほんの一口含み、舌先で転がす。
「うむ、よくやった。要求どおりだな」
「お褒めに預かり、光栄にございます」
「ああ、あとで内殿に届けてくれ」
「かしこまりまして」
尚隆は、その液体の味見はしたものの、それ以上飲むことはしなかった。