虚 空 桜
ネムさま
2011/04/15(Fri) 21:12 No.490
春ただ中、しかしまだ冷える夜。満天の星降る下に、白い闇が拡がる。
昔の面影を僅かに残す朽ちた白塀。黒光りする瓦屋根。それらを今や呑み込むかの如く、微かに紅を帯びた花房達が覆いかぶさる。
崩れた塀を跨ぎ入り込む、若者が一人。散り撒かれた花弁に誘われるまま歩む先には、白闇とその下に蹲りうねる幹。
その前に佇むのは美しい女。
若者を見つめ、問う。
― 貴方なのか ―
「久し振り」
― 何故、来られた ―
「そろそろだと思って」
― 分かっておられるのか ―
「おや。もう三回、いや4回目だろう」
― …貴方は人なのか? ―
「人でなければ、だめなのだろう?」
女は俯く。若者は歩を進める。
女は小さな吐息と共に、若者の手を取る。
頭上からは冷たい星の光のように、花弁が絶え間なく、降り注ぐ。
「冴えない顔だな」
遠慮のない第一声に、利広は苦笑した。
まだ昼間だというのに、片手に酒盃を揺らし、店先から風漢が手を挙げている。
「侘住いの美女と逢引でもしていたのか」
向かいの席に着いた利広が、瞠目する。
「見ていたのか」
「塀の所までだ。気にはなったが…」
「そちらも先約有り、か」
双方、声を殺して笑う。
「しかし、あの桜は三百年も生きている化け桜と言うではないか。
誰も怖れて、近づかないらしいが… 相手は人なのか?」
「風漢なら“噂に紛れて、男女が逢うのに絶好の場所”という裏話も知っているだろう」
しばらく肩を揺すっていた風漢は、また酒を注文した。
「だが、あの桜の美しさは凄絶だ。
人を取り殺して咲き続けていると言われても、不思議はない」
「大丈夫。百年に一度で、我慢してくれている」
酒盃が机上で音を立てた。
利広は穏やかに続ける。
「三百年前誘われた時、翌朝生きていたから、これなら平気かと思って、後百年は人に手を出さないように言った。
向こうが約束を守り続けている以上、私も百年毎に行かなくてはいけないだろう」
暫しの間、沈黙が下りる。
やがて、ゆっくり風漢が尋ねた。
「何故、そんな危険な遊びをする」
「遊びじゃないさ」
利広が笑う。
「本当は私一人で足りているのか分からない。
それでも耐えているのが愛しいし、それでも求めずにはいられないのなら、仕方のないことなんだろう」
そして軽く噴出した。
「でも未だに死なないということは、私ももう、人の部類ではないのかな」
「… で、いつまでご同類に情けをかける気か」
「いつまで行けるか、それは私が決められる事じゃない。
あ、でも私が行けなくなったら、風漢がちゃっかり後釜になりそうで、嫌だな」
利広の軽口に耳を傾けることもなく、風漢は立ち上がった。
しかし、思わぬ強い力が腕を引き留めた。
「風漢が見かけによらぬお節介だとは知っている。
でも、切らせない」
口を開きかけた風漢は、その笑みの中の、一瞬の凄まじさに息を呑んだ。
周囲のざわめきが耳に戻った。
風漢は、掴まれていた腕を思い切り振り解くと、逆に利広の腕を掴み返す。
「行くぞ」
小銭を机上に叩きつけると、利広の腕を引っ張り、風漢はずんずんと歩く。そして利広の問う気配に、怒鳴るように答えた。
「もっと精のつくもんを喰わせてやる」
「奢りかい?」
「付けにしておく」
「怖いなぁ」
利広の笑い声に、ますます顔を顰めて風漢は歩く。
やがて二人の姿は人込に紛れていった。
― 了 ―