野に匂う
縷紅さま
2011/04/23(Sat) 15:16 No.611
忘れたくないのです。
なのに辛くて、どうしようもなく痛くて悲しくて。
あの方は行ってしまわれた。
たったお一人で。
わたくしをお連れくださらなかった――
今はただ、主上を恨み泣き暮らしたあの日々すら懐かしい。
憎い、憎い、憎い。そして慕わしい。
二つの心が、くるりくるりと螺旋を描いている。
それはいつか我が身を取り巻いて、逃れえぬ暗闇へわたくしを繋ぎとめるのです。
手を伸ばし声を限りに呼んでも、応えるものは何もない。
ただどこまでも闇が続くだけ――
芽吹きを迎える直前の頃だった。
薄茶けた色合いをした落葉樹の林の縁を、二つの人影がゆっくりと歩いていた。
空には白練色した高い薄雲が広がり、空気にはまだ春になりきらない冷たさが含まれている。枯れ色に包まれていた景色が、ほんのりと生気を取り戻し始める季節だった。あたりはひっそりと静まり返り、時折、木立の奥から鳥の声が響く。
一人は白い髪を緩く結い上げた老女。小さな包みを抱え持ち、薄墨色の上品な衣を身にまとっている。もう一人の方は老女の孫ほどの年の頃だろうか、十四、五の若い娘が手を引かれ歩いていた。娘の様子はひどく頼りなげで、覚束ない足取りはどこか体の具合でも悪いかのようにも見える。二人はゆっくりとした歩調で、つま先上りの道を淡々と歩き続けていった。
娘は頭と上半身をすっぽりと包む形で披巾を纏っていた。その布端から覗いている老女に預けた手は折れそうに細く、色は蒼白を通り越しまるで蝋で作られた人形のように白かった。
やがて二人は、疎らに木々の続く林を抜けて見通しの良い丘の上に出た。痩せた娘が、うっそりとした視線を丘の下に向けると、そこには黒く焼けた、生きる物の気配が感じられない大地が広がっていた。野のあちこちに、まだ細い細い白煙がたなびいているが見えた。その中には僅かに赤い色の残っている場所もあったが、どれももう炎となって燃え上がるような勢いのあるものではなかった。
彼女の頬を撫ぜていくあるかなしかの風は、少しだけ湿った感触で、枯れ草の焦げた匂いを運んで来る。荒れた国土を具現しているようなその光景――きなくさい匂いと焦げた土の色が、あたり一帯をひどく殺伐とした風景に感じさせた。
娘の気配に老女は歩みを止め、彼女もまた眼下の景色に目をやった。そして問わず語りのように、穏やかな声で言った。
「野焼きの季節なのね」
初めて聞くその言葉に、娘は老女の方へ顔を向け不思議そうに首をかしげた。その仕草に、披巾からはみ出した髪が一房落ちてくる。色白で線の細い少女の髪は薄い金色をしていた。
老女は娘に向かって微笑みかけ、ほつれ髪をそっと指で撫で付けた。皺の多い老女の指先が髪に触れると、ほんの少しだけ娘の表情が緩む。
老女は娘のやや後ろに立ち、遠く丘の下の黒く焦げた大地をさし示した。指の示す先を見つめる娘の頬には、もうほとんど消えかかった掻き傷の跡が幾筋かあった。その傷はこの少女の苦い夢の跡だった――それは無垢という名の大罪の記憶。
「籾殻と野の草は、ああして焼かれて土に還るのです。何もしなければ、野はほんの僅かの時で、人が立ち入ることを拒むようになってしまいます。人も物も、この世はたくさんの繋がりで成り立っております。その営みの中には、台輔のまだ知らないことがたくさんございますよ」
焼けた大地は必ずしも荒廃を表すものばかりではないのだと。憐れみの性を持った生き物――金の髪をしたこの国の麟は、傍らの老女、黄姑の言葉にようやく安堵の色を浮かべた。しかしその表情には、己の犯してしまった過去の罪に苛まれるような薄い陰が残っていた。現実を顧みることのない理想と、それを見分けることのできない無知は自分の目を曇らせる。
「焦る必要はございません。ゆっくりと少しづつ、理解してゆかれませ」
黄姑は采麟に穏やかに微笑んだ。
再び野辺を歩み始めた二人は、やがて緩やかな坂道を上りきり一本の古い桜が佇む丘の上の閑地に着いた。その頃には広く天を覆っていた雲がいくらか切れて、青空が所々に顔を覗かせていた。二人の背丈の倍以上はある桜の樹は、丘の高みから野に点在する邑々を見下ろしている。
老女は閑地に並ぶいくつかの墓標の中にある小さな墓石の前に立ち止まった。
「ありがたいわ。邑の人達がすっかりきれいにしてくれている」
黄姑は独りごちながら、並ぶ四つの墓のそれぞれに供物を供えた。それは彼女が自らの手で作った草餅と、僅かばかりの酒だった。三つの墓は古く苔生しており、その横にある墓石はまだ白く新しい。そこに目を向けたまま黄姑は、彼女の仕草をぼんやりと見つめていた采麟に語りはじめた。
「ここには私の夫と栄祝、そして妹夫婦――砥尚の父母が眠っております」
砥尚という名前に少女は少しだけ身を固くした。
彼女にとってそれは、この世でただ独り、彼女の世界そのものとも言えた大切な人の名であり、また彼女を悲しみの檻に閉じ込めた、どこまでも呪わしい人の名でもあった。
その人のことを思うたび、采麟の心は二つに引き裂かれる。どちらか片方、いっそ憎しみだけならばどれほど楽だったろう。しかし天は彼女にその矛盾を与えた。彼女にとって苦しみでしかない矛盾を。
先王が身罷ったとき、失道の穢瘁に苦しむ采麟には事実を伏せておこうという意見が朝の中で大半を占めた。病み衰えていく歳若い采麟の痛ましい姿を、彼らもまた忘れられずにいたのだ。そんな憐れな麟を重ねて苦しめるような、あまりにも深い人の業を伝えることは忍びないと。
しかし黄姑だけは、全てをありのままに伝えるという意見を譲らなかった。
采麟もまた、彼女の苦しみの中から彼女なりの真実を見つけ出さなければならない。その義務があるのだと。
「私のことを憎くお思いでしょう?」
問いかける黄姑に、采麟は言葉を返すことができなかった。
砥尚に道を失わせその朝を死に至らしめた者は彼女の息子であり、彼女自身もまた朝の一画を担う立場でありながら、砥尚を諌め救うことができなかったのだ。それは紛れもない事実であり、そこから生まれるこだわりを消し去ることはいまだ叶わない。そしてその事を考えれば、かつて王を責めるばかりで、ともに悩みを分かち合うことの出来なかった自分の不甲斐なさもまた、苦々しいものとして甦る。目を瞑り耳を塞いで悲しみを遠ざけても、その痛みは決して消すことができない。
感情を失ったような采麟の鈍い表情の奥にあるものを、ただ黙って受け止めるように、黄姑は少女をそっと抱きしめた。涙を流すことすら忘れてしまったような少女が、ただ愛しく(かなしく)て。
「なぜ、と、どれほど問いかけてみても、その答えには永遠に辿りつかない」
彼女は半ば己に言い聞かせるように言った。
生き急ぐように優秀だった子供達。なぜ彼らが逝き老いさらばえた自分が遺されたのか、その意味を模索すること、それが子らを育ててきた彼女に課された畢生の業なのだろう。
気づけば、采麟の細い腕が慰めるように黄姑の背に回されていた。そのかすかな温もりは、この国に残された希望だった。
黄姑の肩越し向けられていた采麟の虚ろな瞳がふと、枝垂れかかる枝の一点を見つめた。
「花が……」
幽かな声に導かれて黄姑が振り返ると、少女は低く伸びた枝を指差す。華胥華朶にどこか似たその枝には、まだ少し捩れた咲き初めの一輪が綻んでいた。
雲間から洩れる陽の光に照らし出されたその花は、登遐した采王砥尚が彼の半身に侘びるように、そしてこの国の未来へと彼の心を託すように揺れていた。
華胥の国は午睡の見せる夢――。
現し世の民の暮らしは日々の積み重ね。春になれば野を焼いて土を耕し、天候や収穫に一喜一憂する。幸福はそれらの日々のどこにでもあり、またどこにもない。
一本の桜の枝は静かにそれを見下ろしている。
揺籃の時がもうすぐ終わろうとしていた。
(11.04.23)