「続」 「投稿作品」 「11桜祭」

「見も知らぬ涅槃の亡命者」 空さま

2011/04/25(Mon) 21:39 No.644

 新作投稿いたします。
 実は、No16の瑠璃様の「峰桜」漫画版の連鎖妄想なんです。

登場人物   陽子・祥瓊・景麒・浩瀚・桓たい・
茶屋のおかみ(オリキャラ)  
作品傾向   ほのぼの・シリアス(浩陽前提)  
文字数   9662文字  

見も知らぬ涅槃の亡命者 1

空さま

* * *  その1  * * *

2011/04/25(Mon) 21:41 No.645

――落ち着かない――

 常世に来ても、なぜかこの時期には気が急くのだ。
 景王陽子は、執務中だった。
 まだ赤楽始まって間もないころ、この季節、園林にある桜のつぼみが膨らみ、やがて一輪また一輪と咲いて、三分咲きが五分咲きになり、満開となって散らして往く。桜の好きな陽子は、その様をずっと見続けていたかった。しかしそうはいかない。いつもはめったに思い出さない蓬莱の出来事を事細かに思い出したりするのもこの時期だ。水禺刀のせいばかりではなさそうだ。

「あーーしまった。こぼした……」
陽子ははやる気持ちをこらえて、これ以上ひどいことにならないように十分気をつけながら筆を置いた。
「ちょっと待っ……陽子〜」
祥瓊は盛大なため息をつく。
「ごめん」
陽子が喉からしぼり出した声が、ひゅるひゅると音を立てて床に落ちるようだった。
 陽子は執務用の卓に着き、祥瓊はその横で陽子の手伝いをしていた。二人の視線は卓の上の案件書類の上にあり、王が署名すべき場所には、かわいい真っ黒な点ができていた。
「ああ、もう仕方ないわ。こちらの筆で署名してみてくれる?」
祥瓊が額に指を当てうつむきながら、陽子に別の筆を渡す。心なしか、筆の頭が太い。
「すまない、書いてみるよ」
受け取って陽子はもう一度集中して書面に向かう。中・嶋・陽・子の陽の字を書いているときにその黒い点は、払いの途中で少し太くはなったものの、うまく署名の中に含まれてしまった。
「ああ、良かった」
「そうね、運が良かったわね」
「また初めから書き直してもらうのは大変だからな」
「そうよ、陽子。もう少し、筆を持ったら集中してもらわないと」
「ああ」
そう言って、陽子は卓に両肘をつき頬杖にすると、
「申し訳ない」
といってこちらもため息をついた。
「これじゃ、景麒のことを言えないな」
苦笑すると、台輔がお渡りです、と下官が告げた。
陽子はあわてて姿勢を正すと、次の案件に取りかかっていた。

「お仕事中のところを失礼いたします」
「うん、景麒。よく来たね、急ぎの案件か?」
「はい、瑛州の浄水路の件で今日中に御璽をいただきたく参りました」
「わかった。すぐに、書こう。見せてもらえるかな」
「こちらでございます」
 陽子は書面に目を移す。ところどころ引っかかるようだが、なんとか最後まで意味を読み取ると、
「なるほどね、この時期は雨が比較的少ないから動きやすいんだな。うまく、掘れそうか?」
そう景麒に尋ねた。
「いえ、途中高い場所がございます。そこを通す時に何か方法を考えなくてはなりません」
「へえ、技術的な問題があっても、地官府は許可したんだな?」
「はい」
「冬官府はどんなふうに言っていた?」
「何とか方法を考えると言っていましたが」
「今私がここで御璽を押すと、予算はつくみたいだね」
「その通りです」
「途中でできないからやめたと言うことにはならないのか」
「ならないと信じております」
「ううむ……」
陽子は、考えてしまった。
「予算は大丈夫なのか?」
「瑛州はおかげさまで昨年も米が豊作でしたので、そのくらいは余裕はあるかと思います」
「そうだな、新しい技術にも予算を就けないと復興にはならないからな。雁国に頼ってばかりもいられないし」
「はい、それに……」
「ん? どうした?何か言いにくいことでもあるのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが、主上は何かと雁をお頼りになると諸官が不満を漏らしておりますので」
「なるほど。私は雁に政を学びに行っていたのだからな」
「はい」
景麒が珍しくふっと笑う。それを見た陽子はなんだか懐かしくなった。雁国にはいかなかったが、陽子はあのころ多くのことを学び多くの人に出会うことができたからだ。
「わかった、許可しよう」
「ありがとうござます」
陽子は、今度こそ丁寧に署名して御璽を押した。
 景麒はふと隣の書状に目をとめる。今陽子が書いたものと比べて署名が何となく不自然だ。よく見ると、こぼれた墨の点の上からなぞったような跡がついていた。
「主上、お疲れですか?」
「あ、景麒にもばれてしまったか。うん、その通りだ」
「少し、気晴らしに出られてはいかがですか」
「下に行ってもいいの?」
急に陽子は明るい顔になる。
「四半時程度ならば。班渠をお就けいたします」
「ありがとう、と言うわけだ、祥瓊しばらく頼む」
そう言うと、あっという間に執務室を飛び出していった。その様子を見送ると、祥瓊はくすりと心の中で笑い、景麒に丁寧に拱手した。

 陽子は禁門から班渠に乗って飛びだした。
「四半時の約束だ。そのくらいで帰ってこられる程度に堯天の街を回ってくれないか?」
「かしこまりまして」
すうっと降下して行った。
 まだ、雲海の下は黒く細い枝ばかりの木が目立つ。平地に出るといくらか日当たりが良くなる。この辺りはさすがに下草がところどころ出てきているようで、日光の跡に沿うように緑が広がる。少し行くと人工の川がある。これは下水道として開発した用水路だった。そのあまり広くない川べりには、ある程度の間隔をおいて二丈ほどの若木が行儀よく植えられていた。
「あれは桜だな。私が好きだと言うことを誰か話してくれたんだ。でも、まだつぼみが固そうだね」
その先には、この用水路を引くための水源となった少し大きな川が流れていた。すいーっと走り抜ける班渠は、四半時後には金波宮へ帰ると言う命があったので、班渠に跨った陽子は、移り変わる景色を楽しむことはできたが、良く見て確認することはできなかった。
「あっ!?」
と言う間に通り過ぎた所には、二分咲きと言ったところだろうか、五丈か六丈もある大きな桜の木が、その川に沿って何十本と植えられていたのだ。
「へえ、常世にも桜が好きな人がいたんだ」
そんな感想を持ちながら、陽子は再び執務室に戻り、政務の続きを執った。

* * *  その2  * * *

2011/04/25(Mon) 21:42 No.646

 その夜、冢宰府では左将軍が酒を片手に時の冢宰を訪ねてきていた。もう下官は皆帰宅していて残っているのは冢宰のみ。小さな明かりを頼りに、書面の確認をする冢宰を横目でにらみながら、酒の支度をする。
「浩瀚様、まだ終わらないんですか?」
「ふむ、夏官府の書面だよ。桓たいも関係あるのだろう?」
「え?中身は何ですか?」
「情報戦略だ」
「ああ」
そう言いながら、桓たいはにやりと笑い執務卓とは別の小さな台にある盆に杯を二つ並べた。
「禁軍にはまだ麦州の様な緻密な情報網は作られていませんからね」
「そうだな、それだけ平和だったと言うことだろう」
「まあ、そうかもしれません。前の主上もその前の主上も、他州に攻め込んだりはしていないようですから。敵は誰だと問えば、王が倒れる直前の妖魔出現と天変地異ぐらいだったんじゃないですか?」
「だろうな、偽王の件を別にすればな」
「ああ、そうでした」
桓たいの顔を見ながら、浩瀚は、夏官府から来ていた案件に署名し、裁可済みの印を押す。
「主上が台輔をお助けにならなければ今頃まだこの慶は混とんとしていたかもしれんよ」
「そうかもしれません。しかしね、浩瀚様。麦州ぐらいですよ、隣の州ともめ事を起こしていたのは」
「それはないだろう。どこも同じさ」
「本当ですか?」
「ふふ、隣同志と言うのは利害が絡むのでね。存外仲良くできんものさ」
「まあ、そういうことにしときましょ。ところで浩瀚様、情報網の件ですが」
「ああ、何だね?」
そう言いながら、浩瀚は筆や硯を片付けていく。
「訓練中に足の速い者を各両で調べさせておきました。その者たちの中でこれはと言う兵を抽出して今回は特別な両を作りました。その両長とは細かい詰めをしている所です」
「実践に仕えるかどうか試したいところだな」
「そうなんですよ」
「主上の護衛をしてみるか」
「隠密にですか?」
「そうなるな」
「ぜひやらせてください。主上のために動きたいと言うやつは沢山いますよ」
「だろうな」
広い執務卓の上は何もなくなった。桓たいはそこに改めて酒の用意をする。
「あ、浩瀚様。なんだか元気ないですよ? ご自分が行けないからって僻んではいけませんよ」
「なんだ、私が護衛に着いたらいけないのか」
「良いわけないじゃないですか。浩瀚様はわかっていてそういうことを言うから!」
「ふん、つまらんな」
「何を言っているのだか。まあそう言わず、見ていてくださいって」
桓たいは仕事を終えて、杯を手に持った浩瀚にとくんとくんと酒を注いだ。
「主上の護衛を禁軍の目線で行うとどうなるのか、自分で確かめたいのだがね。左将軍の御威光で、一人ぐらいなんとかならんか?」
「またそういうことを言う、浩瀚様は。今をときめく冢宰閣下をそんな危ない目に会わせるわけにいかないじゃないですか」
「おや、堯天の街はそんなに危ないのか? それでは主上を雲海の下になどお勧めできないではないか」
「違いますってば、まったくああ言えばこういうんだから」
ぶつぶつと、文句を言いながらぐいっと酒を飲み干す。そんな桓たいを見て嬉しそうに笑いながら浩瀚も酒を含む。
「仕事を終えた後の酒はうまいな」
「そうでしょ? 冷酒でも行ける季節になりましたよ」
「まだ少し寒いがな」
「そうですか? 温めますか?」
「いや、これでいいよ」
二人、顔を見合わせてまた、笑みが漏れた。
「台輔にお願いしてくださいよ。主上を雲海の下に出すのに一番反対しそうなのは台輔だから」
「そうだろうな。普通王は内殿から外へは出ないものだからな」
「だからそこを何とかお願しますってば」
「考えておこう」
二人はいつものように、桓たいの持ってきた酒が無くなるまで飲んだ。

* * *  その3  * * *

2011/04/25(Mon) 21:44 No.647

 それから三日ばかり経った午後の執務室では、景王が目を丸くして自分の麒麟を見ていた。
「本当にいいのか?」
「はい」
「明日の公休日、堯天は雨じゃないだろうな」
「主上、それはどういう意味ですか?」
「いや、何でもない」
景麒の方から、公休日に堯天へ視察に出ても良いとは、一体どういう風の吹きまわしだろう。陽子はいぶかしく思ったが、自国の融通の利かない麒麟の心が変わらないうちに、決定事項にしてしまいたい。
「で、本当にお忍びでいいんだな?」
「はい、ただし条件がございます」
――やっぱり――
陽子は、逆に納得していた。
「うん、なんだそれは。言ってみろ」
「冗祐をお就けしますので、冢宰とお二人で馬でお出かけください」
「え?!」
さっきよりもさらに目が丸くなり、口もまんまるに開く。
「浩瀚と二人で行くのか」
「はい」
――今度は何を学ばせられるのだろう。ある意味誰と一緒に行くよりも怖いな――
「主上は、視察なさる時にはいつも民草と同じ装いをされます」
「そうだよ。でないと視察にならないだろ? いくら慶が女王を厭うと言っても、王さまでございますと言って出て行けば、みんなそれなりの対応をするじゃないか。それじゃ、視察にはならないよ」
「私もそう思いました。それで今回は冢宰からも視察の要望が出ておりましたので、お二人で目立たない服装で、早朝にお出かけなさいませ」
「うん、それでいい。ありがとう景麒、実は先日川のほとりで桜並木を見かけたんだ。少しゆっくり見物してみたい。馬はそういう意味では有難いよ」
「それはようございました」
この日の陽子の執務は、大いに捗ったようだ。

背景画像 瑠璃さま
「続」 「投稿作品」 「11桜祭」

 

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