見も知らぬ涅槃の亡命者 2
空さま
* * * その4 * * *
2011/04/25(Mon) 21:46 No.648
あくる日の朝早く、陽子と浩瀚はまだ人気(ひとけ)のあまりない皋門から、馬を引きながら街道に出た。
「浩瀚、お前今日はこんなことをして大丈夫なのか?」
「それはどういう意味でございますか?」
「いや、公休日にも仕事をしているともっぱらの噂だからさ」
「いえ、主上の御心に沿うようできるだけ休みは取っておりますが」
「私の付き添いでは、休みには無らんだろう?」
「そのようなことはございません。楽しみにしておりましたので」
「本当か?」
「それはもう」
にこりと目を細めて笑う、戦袍を纏った冢宰に、陽子はいつもの固い官吏の印象とは異なる物を感じた。
浩瀚も、いつもの官服とは違い、こちらも戦袍を身につけ長く赤い髪を一度一括りして三つ編みにしてはくるりとまきつけた、たいそう動きやすそうな格好に、若く闊達な女王を見出していた。
――桓たいがいつも口に出す男惚れする主上の姿とは、このようなものだろうか――
と思っていた。
「まあ、いい」
陽子は、笑うと、
「馬だって今はまだ貴重な家畜なんだろ?二頭も一緒にいたら却って目立たないか?」
そう尋ねた。
「そうですね。しかし主上、本日私たちは兵士の姿をしていますので、逆に注目を集めることは無いかもしれません」
「あ、なるほどね。では、行こうか」
「はい」
「冗祐、頼むね」
「かしこまりまして」
使令は静かに答えると、陽子に憑いたままするりと馬に足をかけその背に跨った。
「へえ、さすが冗祐。うまいもんだね」
「主上は、馬は初めてですか?」
冢宰は尋ねる。
「ううむ、どさくさにまぎれて乗っていたかもしれないけど、自分のために意識して乗ったのは初めてかもしれないね」
陽子は、難なく馬に跨った浩瀚と肩をならべて話をした。
「どちらの方へ行きましょう?」
「うん、実はこの先に赤楽二年ごろに掘った下水道があるだろ?その向こうに大きな川があるのを知っているか?」
「はい、存じておりますが」
「その川べりに桜の木が植わっているんだよ。そこまで行ってみたいんだ」
「左様でございますか、今は満開にはまだ少し早いかもしれませんね」
「いいのさ。そんなぜいたくは言えないよ。未裁可の書類は山積みだしね」
「そうですか?では、ご案内いたします。はっ!」
と言って馬を誘導した。
朝早くとは言っても、もうこの季節、日は昇りはじめ光がはじけている。民家の土間では朝餉のための火を炊き始めているのだろう、白い煙が上がってきた。大通りではもう商売物を乗せた荷車を引く人がいる。
坂を下れば小さな川だ。橋の下は小川が流れている。さらに日が高くなり、あたりは夜の影から抜け出て明るい朝になり変わる。
「この先の坂を一度登り、また下ると主上のおっしゃられた川でしょう」
浩瀚が先に立って軽く馬を駆けさせていた。
「ああ、わかった」
陽子が答える。馬の吐く息は白かった。まだあたりは冷たく、走る馬は熱い。この辺りまで来ると、もう民家はまばらだった。やがて坂を下っていく。すると目の前が急に開けた。そこには六丈ほどの幅を持つ川がゆったりと流れていた。川幅に比べると小さめの橋がかかっている。その先は平らかな土地が広がり、四角く区切られていた。今はまだ水もなく乾いているが、井田法に則った田んぼなのだろう。橋の前の閑地へ、浩瀚は陽子を誘い馬を下りてから、後から来た陽子の手を取った。
「ありがとう」
陽子は素直につかまり、馬を下りて手綱を持つ。
「そう、ここだ。この間、班渠が連れてきてくれたんだけど、その時は時間が限られていたから、あっという間に通り過ぎてしまったんだ」
「左様でございましたか。では、本日はごゆるりとお過ごしください」
「うん、そうするよ」
と言いながら、陽子は浩瀚が何か遠い目をしているので、
「何か見えるのか?」
と聞いてしまった。自分でもいささか的外れな問いかけだとは思った。自分よりも長く慶にすみ慶を思う浩瀚にとっては、この景色も何かの思い出を誘う物かもしれないのに。
浩瀚は少しびっくりしたような表情をする。陽子は珍しいと思った。
「いえ、失礼いたしました。では、どちらに参りましょうか?」
「そうだな、では川に沿って下流へ歩くか」
「はい」
二人は馬を連れて、土手のすぐ下をあるく。頭上には大きな桜の木が黒い枝を伸ばしていた。よく見ると、日の当る所に少しずつだが花が開いている。
「浩瀚、見て。ほらあそこ、あそこにも!」
「はい、開き始めの桜もまた美しゅうございますね」
「うん、きれいだなあ」
まだ花だけで、葉は同時には出ない種類のようだ。
「蓬莱の、私が好きだった桜にちょっと似ている」
そう言いながら、陽子は上を向いて歩いている。不思議と歩きやすい場所だった。どうやら、川の土手の下には、もともと歩くことを前提にした、道とまでは言えないが、そのような空間が細長く向こう側に繋がっている。その両側に大きな桜の木。
「すごい」
陽子は歩きながら、自然と笑顔になる。そんな陽子に浩瀚は穏やかに寄り添いながら馬と共に歩いた。
四半時ほど歩くと、その川を横切る道が桜並木と交差していた。どうやら先ほどよりは少し大きな橋がかかっている。西に向かって歩いていたので、正面に開けた道の向こうにさらに続く桜並木が、東からの朝日に光って輝いていた。
橋のたもとには小さな茶屋があった。まだ朝早いのに店は開いている。長椅子が正面の桜に向かっていくつか並べられていた。
「ひょっとして、ここで花見ができるのか?」
陽子は、思わず浩瀚の方を向いて、そう尋ねた。
「どうやら、そのようです」
「そうか」
陽子の顔をは満面の笑みに変わった。その顔を見て、主上は今東から顔を出した太陽のようだと浩瀚は思ったが、口には出さない。それに、陽子は目の前の道を横切り、先へ行ってしまった。
――てっきり休んでいくとおっしゃるかと思ったが――
浩瀚は黙って後を追った。
陽子の目は一点に集中していたのだ。
彼女の視線の先には、薄紅色の毬の様な木があった。その高さは二丈ほど。中心の幹の太さはちょうど陽子が両手を合わせて輪を作ると、その中にぴったり収まるくらい。正直言って小さな木なのだが、これだけはその小さな花が満開になっていたのだ。
これも桜だ。そばにより、低いところの枝にそっと触れ、陽子は花を一つ一つ丁寧に見ていた。園林に咲く桜よりも、小ぶりの花で花びらが細い。しかし、花弁の先は自分が桜だと主張しているように小さな切れ込みが入っている。しかも、色が周りにある大きな桜の咲き始めた花よりも赤みがかかり、薄桃色をしているのだ。それで、離れてみると、花の集合体が球形に浮き上がって見えていたのだろう。
「かわいい桜だね」
陽子は浩瀚に同意を求めるように視線を合わせる。浩瀚は微笑み、
「左様でございますね」
と、相槌を打った。
「あれ?」
陽子は、その木に札がかかっているのを見つけた。「唐懐(とうかい)桜」と書かれている。
「これは桜の名前だね?」
「はい、そのようでございます」
「浩瀚は、この名前聞いたことあるか?」
「いえ、今初めて聞きました」
浩瀚でも知らない事もあるんだ、とぶつぶつ独り言を言う陽子を見て、浩瀚は笑みを深くした。
「主上は私を買い被っていらっしゃる」
「いや、そんなことは無いぞ。でも、何か言われがあるのだろうか?」
「ふむ、あちらの茶屋で尋ねて参りましょうか?」
「いや、私も行くよ」
そう言って二人は、後戻りをした。馬を置けるかなあ、と陽子がきょろきょろしていると、浩瀚が、
「おかみ、すまないが馬を二頭留めておきたいのだが」
と茶屋の中に向かって大声で頼んでいた。
中から出てきたのは、七十歳にはなっていると思われるおばあさんだった。このおかみに、馬を店先の桜の大木に繋ぐ許可を取り、二人は長椅子に並んで腰かける。
「ああ、唐懐桜ですか。あれは五年ほど前に他界したうちの主人が植えたものですよ」
と、言われたので二人は驚いた。おかみの話はまだ続いた。
「はい、うちの主人は桜が好きだったんですよ。ですからこうして、川のほとりに一本また一本と自分で植えて行ったんです。実は主人は『山客』でした。それで、こちらにはあまり桜が無いと言っては、寂しがっておりましたもんですから。はい、最初こちらに来た時は、言葉が解らずにそれはそれは苦労したそうでございます。それでも、稲や田んぼ作りがうまかったもんで、常世でも晩年成功してこの川のほとりにも、何十本と桜を植えられるようになりました。崑崙では亡命者だったそうですよ。何でも時の為政者に逆らったとかで、逃げ回っていたそうです。嫌なことも沢山あったようですが、それでも、崑崙が忘れられなかったようで、この桜が自分の故郷の桜にそっくりだと言って植えたんですよ。植えた時はまだ小さかったんですがねえ。今ではそこそこ見られる大きさになりましたでしょ?」
二人は頷く。
「死ぬ間際には、涅槃からお前のことを見ているからやりたいことをやっていろ、と言われましたねぇ。死んだら涅槃に行くからと、笑っておりましたよ。それも崑崙によくある教えだったとかで。あら、話が長くなってしまいました。では、ゆっくり見て行ってくださいねぇ」
そう言って老婆は奥に入っていった。
「そうか、唐が懐かしいから唐懐桜か」
陽子が感心したように独り言をつぶやく。浩瀚は、聞きなれない言葉に不思議そうな顔をした。
「ああ、唐と言うのは崑崙に昔あった大きな国の名前だ。向こうの世界はこちらと違って国の大きさが決まっているわけじゃないから、為政者の器量一つで大きくなったり小さくなったりしたんだよ。その崑崙の歴史の中でもとりわけ安定していて大きかった時代の国の名前さ」
「なるほど」
「慶でも『懐達』という言葉があるじゃないか」
半ば自嘲気味に言う陽子に、浩瀚は、
「いいえ、それならこの桜は懐唐桜と呼ぶべきでしょう」
「ああ、そうか。と言うことは、あの桜を植えた山客のおじいさんにとっては、むしろ唐、つまり自分の国が自分を懐かしがってほしかったのかな」
浩瀚ははっとした。主上も蓬莱で主上のことを懐かしむ方々へ思いを馳せているのではないかと感じたからだ。
心配そうに自分を見つめる有能な冢宰を、まぶしそうに見ると、陽子は、
「大丈夫だよ」
と声をかけた。浩瀚は自分の思いが読まれたかと、少し驚く。
「うん、そう。桜が咲くこの季節は、なんだか心が落ち着かないんだ。確かに蓬莱のことも思い出したりするよ。だけど、今私は色々な偶然が重なって、慶で国主をやっているわけだし、浩瀚の様な有能な臣も仕えてくれる。それに、今日はこんな素敵な桜も発見できた。外に出てきてよかったな」
そう言うと陽子はうーーんと両手を伸ばして伸びをした。
「浩瀚、付き合ってくれてありがとう。戻るか?」
「御意」
久しぶりにゆっくりと時を過ごすことのできた、景王陽子であった。
* * * その5 * * *
2011/04/25(Mon) 21:50 No.649
その夜、こちらは兵舎の厩である。
公休日担当の兵士はもう帰宅している。そんな中で、ろうそくを灯し、男二人が粗末な茶碗で酒を交わしていた。
「今日は熱くしてきたのだね」
「はい、ここは外みたいなものですからね。さすがに夜の厩はまだ寒いでしょ」
浩瀚と桓たいである。
「うまく言ったのか、演習の方は」
「主上の護衛は、良かったんですがね」
「ふむ」
「伝令の方が、口伝えではなかなか正確に伝わらないようでした」
「そうか?」
「台輔への連絡は半分くらい不確かでしたよ」
「そうだな、話の内容までは探れなかっただろう?」
「そうなんですよ。今度は走るだけでなく、目と耳も良い者を探さなくちゃなりません」
「だろうな、早朝で人気のないところでは、防諜活動には無理があるだろう?」
「はい、行く場所が解っていたらあらかじめ民草に紛れ込ませるんですけどね」
「うむ、一度私が警護の確認をしようとしたら、主上に気付かれてね」
「え、本当ですか?」
「ああ、もっとも主上はそうは思っていなかったらしい。私が何か周りの景色に囚われているかのようなご心配をしていただいた」
「へえ、主上も鋭いな。しかし、浩瀚様?」
「ん、なんだ?」
「何と言って台輔に許可をお願いしたんですか?」
「いや、私はなにも画策しておらんぞ。今回の演習を正直にお伝えして、私もついていきたい旨、お伝えしただけだ」
「ほう? 本当にそれだけですか」
「何を疑っているんだね、桓たいは。台輔には主上の御様子を逐一ご報告申し上げると、約束したんじゃないか」
「仁重殿にいながらにして、主上の様子が解ると?」
「ああ」
「では、また機会を作ってくださいよ。もう少し改善してから、また試してみたいので」
「そうだな、これが正確にできるようになると何をやるにもずいぶん楽になるよ」
「はい、もちろんです」
注がれた酒からは、良い香りがこぼれる。慶国の夜は、桜の開花を誘いながら静かに更けて行った。
おわり