緋に染まる 雛さま
2011/04/26(Tue) 15:11 No.666
皆様初めまして。祭りの賑わいに誘われて来ました、雛というものです。
まず初めに、祭りのご盛況、お祝い申し上げます。
実は、桜祭りという素敵なイベントが開催されるのを知り、
開催される前からぜひとも参加させて頂きたいと思っていました。
といっても初めての参加ですし、何か作品を持参して行かなければと思っていたのですが…。
そうこうしている内に祭りも半ばに差し掛かっているようで、
お邪魔するのが大変遅くなってしまい、
参加させて頂いてもいいのだろうかと少しどきどきしています。
皆さんとっても素敵な作品を作られるので、見ているだけでとっても楽しくなります。
桜の写真なども、日本全国の四季の移ろいを感じられて、とても楽しみにしています。
私が住んでいる近くでは、染井吉野がやっと満開になり、少しずつ散り始めております。
八重桜にいたっては今からなので、庭先の八重桜が満開になるのを
今から楽しみにしているところです。
話が少し反れましたが、書いていたものが先程出来上がりましたので、
勇気を振り絞って投稿させて頂きます。
一番上の記事が、上げて間もない管理人様の素敵な作品で、どうしようかと迷いましたが、
作業する時間があまり取れないので、どうかお許し下さい。
祭の賑わいのお役に少しでも立てれば幸いです。
ご注意
「月の影〜」を読んで妄想した幕間物となります。
桜に似た花を出していますが、それにまつわるエピソードを捏造していますので、
ご注意下さい。(非常に長くなってしまいました…。申し訳ないです…)
登場人物 |
尚隆・朱衡・陽子 |
作品傾向 |
微シリアス(尚→陽風味) |
文字数 |
17009文字 |
緋に染まる 1
雛さま
* * * 1 * * *
2011/04/26(Tue) 15:15 No.667
聞こえてくる潮騒は常と変わらず穏やかだった。
雲の上の海は虚海と違って荒れるということを知らない。どんな日もどんな時も、雲海はただ波を寄せては返すばかりだ。雲海に島のように突き出す山の断崖に当たっては砕け、白波を立ててみても、それが激しさを増すことはない。穏やかな水面は静かに細波を立てるだけで、そこに映りこむ月影の輪郭を僅かに曖昧にしている。
尚隆は露台に立ち、波が寄せては返す様を見ていた。手摺に軽く背を預けて腕を組み、少しだけ背後を振り返るような格好で雲海のどことも知れない場所を眺める。聞こえるのはただ潮騒の音ばかりで、寂然とした露台に尚隆意外の影はない。一人で雲海を眺める尚隆に寄り添うのは夜の静けさの他になく、尚隆はただ黙って揺らめく水面に視線を投げるだけだ。
「とても無理、か……」
ふと思い出したように呟いた。しかし、辺りの空気に紛れてしまうほどに小さなその呟きを聞く者はいない。視界に映る雲海も、尚隆が呟いてみたところで何ら変わることはなく、寄せては返す動きをただ繰り返している。それは当たり前のことではあったが、常と変わることのない夜の営みに、尚隆は眉を顰めて苦く笑った。
「どうしたものか。……まったく、惜しいな」
尚隆は再び呟き、開け放たれたままの両開きの窓の、その向こうにある堂室を見やる。そこにはやはり人影はなかった。少し前まではそこで、容昌で見つけ連れて来た景王陽子とその友である楽俊、自身の麒麟である六太と共に話をしていたが、それも一刻と少し前に一旦終わり、それぞれがそれぞれに引き上げてしまった今は、堂室の外に広がる露台に尚隆を残すのみだ。
露台に残っているのが他でもない雁国の主である尚隆であるため、中に誰もいないからと堂室の明かりを落としてしまうような間抜けな女御はさすがにいないらしく、堂室の中にはまだ煌々と明かりが灯っていた。天井から吊り下げられた作りが豪奢な灯火には火が明々と燃えており、凝った意匠の支柱から下に湾曲する形で延びた数本の腕木が支える瑠璃の受け皿の、そこから下がる水晶と金細工の飾りには明るい橙の光が落とされて、反射した光は遠く露台に立つ尚隆の目にも何やら眩しいようだ。しかし、灯火が明るい光を投げかければ投げかけるほど、人のいない堂室はひときわ閑散としているような気がした。
尚隆は目を伏せ、ただただ雲海の潮騒の音に耳を傾ける。
別に気が荒れているわけではなかったが、それでも今夜は何やら胸がざわめくようで、尚隆は無意識に気の安らぐものを求めていたのかもしれない。平坦で規則的な波の音は、心を落ち着かせるには打って付けだった。
「よい王になると思ったが。……帰ることを望むか」
口に出せば、少しだけ心が細波を立てる。それはどこか雲海の潮騒と重なるようで、ともすれば自分が今聞いている音が雲海の細波の音なのか、それとも心が揺らめく音なのか、尚隆には分からなくなるようだった。
「五百年待った胎果の王なのだがな……」
しかしそれは言ってみてもしかたのないことだ。すべては陽子が決めることで、尚隆がこれ以上何かを言うことは出来ない。ただ情に訴え、苦しむ慶の民を救ってくれということは出来るが、決めかねている陽子が王になると決意する決定的な理由に、それでは成り得ない気がした。ただの同情で王になれれば、これほどに簡単なことはない。
尚隆は再び明々とした光を洩らす堂室を見やった。何度見たところでそこには既に人影はないが、ちょうど陽子がかけていた椅子に視線を投げると、最後には顔を俯けてしまった陽子の姿が思い出される。
時間をくれと陽子は言ったが、正直それほどの時間の余裕はない。血気はやった塙王がもし景麒に手でもかければ、それこそそこですべてが終わってしまうだろう。その前に、せめて景麒だけでも取り戻したい。
―――やはり陽子が答えを出すのを待ってはやれぬか。尚隆は思って目を伏せた。
* * * 2 * * *
2011/04/26(Tue) 15:17 No.668
吹き付ける緩やかな風が尚隆の結い上げた長い髪を掬い上げ、背後斜めに尾を引くように舞わせる。前髪も好き勝手に風に捕らわれて尚隆の視界を遮り、少々鬱陶しく思って目を閉じれば、聞こえていた雲海の潮騒に、誰かが尚隆に向かって呼びかける声が交じった。
その声は、露台にいる尚隆には少し遠かったが、しかしそれが誰の声なのかはすぐに分かった。普段から煩いほどに聞きなれた声だ。その声の主は堂室の框窓の前で断りの言葉を述べると、尚隆の返事を待たずに堂室の中に入ってくる。そしてそのまま迷うことなく尚隆のいる露台まで歩み出ると、主から少しの距離を保って立ち止まり、礼を取った。
「朱衡か」
尚隆は声を掛けたが、その視線は再び背後の雲海に向かって注がれる。変わることのない月影が、白みを帯びた光を湛えて細波に揺られていた。
「おそれながら主上、夕餉がまだかと存じますが」
主が視線を向けぬことなど歯牙にも掛けず、朱衡と呼ばれた男は淡々とした声音でそう述べた。気の短いこの男がまた小言でもつきに来たかと内心身構えていた尚隆は、考えもしなかったその台詞に、軽く虚を衝かれたように雲海に投げていた視線を向ける。
「確かにまだだが。お前、そのようなことを言いに来たのか。俺はまた何を言われるかと思ったのだが」
「そう思うのは主上の日頃の行いのせいでしょう。しかしながら、拙も今更改めていただきたいとは申しません。何度言っても変わらぬなら、それは言うだけ無駄というもの。それならばさっさと諦めてしまった方がこちらも楽というものでございましょう」
からりと笑って言ってやった尚隆の台詞には、その顔に笑みを乗せながらの嫌味が返ってきた。
尚隆はいつだかの宰輔六太の言葉を思い出す。朱衡は根に持つ。深く根にもってにこにこ笑いながら百年でも二百年でも嫌味を言うだろう、と。自分が王になってかれこれ五百年だが、未だに嫌味を言い続ける朱衡にはある意味感心すると尚隆は思う。
尚隆は笑いを深めて朱衡の顔を見た。変わらぬ笑みは能面のよう、とも言うのかもしれない。
「それは結構なことだな。で、なぜお前が夕餉を伝えにくる。それはお前が自らする仕事でもなかろう」
確かに、と朱衡は笑みの表情を改める。
「わたくしとて勝手気ままな主上にわざわざ夕餉を伝えに行くなど、時間がもったいないと言いたいところですが、景王君にお付けした女御が拙めに泣きついてきまして。曰く、景王君が夕餉を召し上がってくださらぬ、と」
―――なるほど。そう思って尚隆は微かに眉を顰めた。
それは長年共にいる者でも判別がつかないぐらいの小さな歪みだ。しかし、尚隆が思案に暮れるのを朱衡が察するのには十分だった。
朱衡が息を呑むようにして一旦口を噤み、僅かばかり面を伏せたので、尚隆は目を細めて薄く笑った。背後を振り返るようにしてその視線を三度雲海に投げ、少しだけ仰ぐようにして暗闇が立ち込める天空に月影を探す。白光りした円形は水面に映る曖昧なものとは違い、はっきりとした存在感でもってそこに浮かんでいたが、その光は些か明るすぎ、空を仰いだ尚隆の面を複雑に照らした。
「一日食べぬとて死にはせん」
尚隆の声は静寂にはよく通った。しかしその声音はどこか言い聞かせるような調子で、自分でもそれが分かって尚隆は苦笑する。一体誰に言い聞かせようというのか。目の前にいる臣下にだろうか。しかしそれはあまりにも意味のないことだ。
「しかしながら、明日は食べるという保障もないのではございませんか?ならば今ここで見過ごしても、それは問題を先送りにするだけかと存じますが」
「食べぬものを無理やり食べさせるわけにもいくまい。陽子も悩んでおるようだからな。まあ、少し放っておいてやれ」
尚隆は言って朱衡を見やった。見た目が痩身の優男である朱衡の、その顔が一瞬だけ驚きの色を帯びたのを捕らえて、尚隆は片眉を上げる。
「どうした?お前が驚くとは、これは珍しいものを見たな」
揶揄するように言ったが、しかし朱衡はいたって真面目そうに居住まいを正した。
「それは……、景王君の御名でございますか?」
朱衡は少しだけ躊躇うようにしてそう訊いた。
束の間、辺りは雲海の潮騒にのみ支配され、ややして尚隆は「ああ」と納得したように息を吐く。
「景王と呼ぶなというのでな。他人事のように聞こえると言っておったが。まあ、わからんでもない。だが確かに、名前で呼べとは言わなかったか。しかし他に呼びようもないからしかたあるまい」
朱衡は応えなかった。頭の切れるこの男が何を勘繰るのか、それを考えると少し可笑しい気もしたが、尚隆は軽く笑うに止め、視線を逸らすと下がるように手を振る。
「他に用がないなら下がれ。夕餉は―――」
尚隆は少ししたら房室に戻る旨を伝えようとしたが、それは朱衡の声によって阻まれた。見れば、先程まで薄っすらと困惑を浮かべていた男はいつの間にやら常の表情を取り戻している。
「そうはまいりません。主上の夕餉は景王君のものと共に既に掌客殿にて用意してございます」
それは見事なまでの笑みを乗せて、朱衡は尚隆に向かって言い放った。
六太辺りに言わせれば、それは薄ら寒い笑みとでも言うのだろう。それが効く尚隆でもなかったが、しかし口を挟む隙は見出すことが出来なかった。尚隆が口を開こうとする間もなく、朱衡が単調な声音で畳み掛ける。
「景王君にとって今夜の話はいきなりのこととお察しします。ならば食事が喉を通らずとも致し方なし、とも申しましょう。しかしながら、食事はなさっていただかねばなりません。景王君は我が雁がお預かりしている大事な御方。もし雁滞在中に何事かあれば、拙にはお詫びのしようもございませんゆえ」
「では、お前は俺に説教をしてこいとでも言うのか。雁滞在中に何かあっては困るゆえ無理にでも食べろと?」
「なにも年寄りが口煩く手前勝手な説教をしろとは申しておりません。ただ一緒に召し上がってくださればよいのです。いくら主上が雁きっての虚け者といえども、景王君にしてみれば大国雁を支える名君。主上が一緒とあれば、景王君も召し上がってくださるやもしれません」
端々に付け加えられた嫌味には流石の尚隆も半ば呆れた。しかもそれを顔に笑みを貼り付けたままさらりと言うので、これはもう感嘆に値すると言ってもいいのかもしれない。
「楽俊はどうした?俺が口煩く言うよりも、楽俊が言ったほうが効くのではないか?」
「先の夕餉の席にて楽俊殿には色々言っていただいたと、女御がそう申しておりますゆえ、あとは主上から言っていただくしかございません」
朱衡がきっぱりと言い放ち、後に降り立った静寂は、しかし何やら重みを増して露台全体を支配する。心を落ち着けていたはずの潮騒は、尚隆を突き放すように哀愁を帯びた旋律を奏で、その香りすらも風情というものからはどこか遠い。
「……お前の言いたいことは分かった」
尚隆は息を吐くように言って、寄りかかっていた手摺から背を浮かした。もう雲海を振り返ることはなく、耳がただその音だけを拾っていたが、常と変わらないその営みが今はどこか憎らしかった。脳裏に描く陽子の姿も、俯いて時間をくれといったあの時のものと何ら変わらず、自分が何か言って変わる事態なら全く容易いことだと、尚隆は密かに笑った。
「どこだ?―――案内しろ」
言って尚隆は露台を後にする。歩進めるごとに遠ざかる背を、ただ潮騒の音のみが見送っていた。