緋に染まる 2
雛さま
* * * 3 * * *
2011/04/26(Tue) 15:19 No.669
「こちらでございます」
そう言って朱衡が尚隆を案内したのは、掌客殿の園林の中ほどにある建物で、他の棟からは離れて、茂る樹木に半ば隠れるようにして建っている。客堂は広いが一室だけで、全体的に見れば割とこぢんまりとした建物だ。回廊に面した框窓は大きく、開け放てば回廊を挟んだ向こう側に広がる庭院を優々と眺めることが出来る。堂室の中の装飾は掌客殿の他の建物と比べると幾分落ち着いているが、一つ一つの趣味は好く、豪奢でない分その趣は深かった。
掌客殿の数多い建物の中でも、尚隆は殊更にここを気に入っている。建物の周りに流れる静けさすらもどこか風情のようなものを孕み、口煩い官から逃げて昼寝をするには打って付けだった。しかし、朱衡がここを選んだのは、何もそんなことが理由ではないだろう。主が政務を怠けるのに使っている場所を好き好んで選ぶような可愛げが朱衡にあるとは思えなかった。
尚隆は框窓の前の回廊に佇んだまま、息を落として背後の庭院を振り返った。仰ぐように身体ごと振り向けば、緩やかな微風を切って結った髪が舞い、空に遊んで漆黒に融ける。頬を掠めたのは視線を投げた先から落ちてくる白い光のような物体で、指先程度の大きさのそれらは、後から後から舞い降りては振り仰いだ尚隆の脇を緩やかに擦り抜けていった。
「これはまた、趣味のいいことだな」
尚隆は言って思わず苦笑する。その言葉の裏に、「なぜここにした?」という意を込めた。
尚隆の言葉に応え、朱衡もまた庭院の方を振り仰ぐ。その目には言わずもがな尚隆が見ているのと同じ物が映っただろう。舞い降りてくる数え切れないほどの白い物体が、庭院に佇むそれを嫌でも目立たせている。
「風情があって大変よろしいかと存じますが」
朱衡が淡々と述べ、尚隆はその横顔をちらりと振り返った。その飄々たる風貌に、尚隆もまた笑みを深めて庭院に視線を戻す。
「風情か。物の哀れを感じて終わるだけならよいが、下手をしたらあちらに帰るなどと言い出しかねんぞ」
言って見やった庭院。今のこの時期、広々としたそこを支配しているのは、ただ一本の木だ。木は枝先に付けた沢山の花芽から伸びた幾本もの蕾を一斉に咲かせ、方々に伸びる枝のそのすべてを花で覆っている。一つ一つの花の大きさはそんなに大きくはなく、風が吹けば柔らかく揺れて、夜の闇に花弁をひらひらと舞わせた。
花で覆われた枝を揺らすその様。舞い落ちる花弁。倭から来た者がこの木を見れば、間違いなくこう呼ぶだろう。―――桜、と。
しかしながら、この木は本当にあちらの桜なのかと問われれば、尚隆は否と答える。それもそのはず、この木はこちらで生まれた、正真正銘こちらのものなのだ。
その昔、尚隆が登極してまだ間もない頃、荒廃深い雁には何もなかった。荒土と化したそこに緑というものは存在せず、廬も里も廃墟と化して、あるのは辛うじて生き残った民のみだった。尚隆が王となることで少しずつ緑は戻ったが、荒れ果てた地がすぐに潤うわけもなく、王が立っても尚、民の絶望はすぐには払拭されなかった。
欲しかったのは、民の心を少しでも癒すことの出来るなにかだった。例えば、春の訪れをその目で直に感じられれば、自分達の暮らす地がまだ死んではいないことを、民は知ることが出来るかもしれない。それは民にとって正しく希望であり、尚隆が欲したのは正にそれだったのだ。
尚隆は路木に願う時、ただ漠然と華やいだ春を思った。その頭の片隅に桜がなかったといえばそれは嘘になるかもしれないが、尚隆は何も桜を願ったわけではない。まだまだ色の少ない雁の大地に彩りをもたらしてくれるものなら、尚隆は何だって良かったのだ。だから天から得たそれが桜と瓜二つであるのを見た時、尚隆は思わず笑ってしまった。元々はこちらの人間だなんだと言われても、自分の生まれはやはりあちらの、今はもうないあの小さな国なのだと、それを思い知らされた気がして、今更帰ることも出来ない彼の地を、尚隆は一人密かに思ったものだ。
あの当時、「お前らしいよ」と言って微かに笑って見せたのは六太だったが、あの時の自分はともかく、今の陽子に桜と瓜二つのこの木はある意味毒だと尚隆は思う。
「あちらのものとそんなに似ているのですか?」
「似ているも何も、違うのは花の色とその咲き頃だけだな」
尚隆が路木に願って出来たものは、なぜか花弁の色が真っ白だった。この木が桜というのなら、その花弁は薄っすらと桃色がかっているはずだ。しかし、尚隆が路木から得たものの花は、なぜか脱色されたかのように色という色がなく、遠目に見れば枝先で揺れる泡雪そのものだった。
大地に色をと願って出来たものなのに、花に色がないではお笑いだったが、しかしこれが功を奏してか、花は日の落ちた夜の闇でその魅力を存分に見せ付けてくれた。特に綺麗なのは満月の夜で、降り注ぐ月明かりは純白の花弁に光を与え、木はまるでそれ自体が輝いているかのごとく光を放つ。舞い散る花弁も光の結晶そのもので、夜の黒い空を光の花弁が舞い渡っていく様は正に圧巻だった。
咲き頃は五月から六月頃と遅いが、これは元々あちらのものよりも咲くのが遅いのと、雁が北方に位置していることから考えれば納得出来ないこともないだろう。
民は春の陽気が深まると、仕事を終えてくつろぐ夜に家を出てきて花見を楽しむ。月明かりの下、朧に光る花を見ながら酒を飲み、歌を諳んじ、楽器を奏でる。静かな賑わいはいかにも情緒に溢れ、妖魔とは無縁となった平和な緑の大地で人々は楽しそうに笑い合うのだ。
月に映えるその姿を見て「月煌華」と呼び始めたのは誰だったのか。それがこの木の名前だが、春の深まった夜に催される月煌祭は、雁に住む海客からはこうも呼ばれている。―――桜祭、と。
「今年は咲き頃が常より遅いようで、まだ咲いておりますね」
「何をぬけぬけと。咲いておるからここにしたのだろうが」
「景王君も花を愛でられれば、少しはその心も安らぎましょう」
朱衡は明らかにあちらの桜と似ていることを分かった上で言っている。
尚隆はただ目を伏せて笑んだ。その合間にも花弁は光を反射しながら舞い落ちてくる。今夜は満月だ。
「お前、試しておるのか?」
「まさか、試すなどとは恐れ多いことです。わたくしはただ景王君の御心が少しでも安らげばよいと、そう願うだけにございます」
「望郷の念にかられるだけかもしれんだろうが」
尚隆は言って朱衡を振り返る。朱衡もまた尚隆の方を見ていた。その顔に迷いはない。端正な顔に、ただ確固たるものを乗せている。
「景王君は我が主上が見込んだ御方。その御方が、よもや苦しむ慶の民を見捨ててあちらに帰るなど、そんな無慈悲なことはなさいますまい」
澄んだ顔に笑みを見せて朱衡は言った。その胸中にあるのはただ己の主に寄せる信頼のみのようで、尚隆は思わず声を上げて笑った。
「俺の見込み違いかもしれんぞ」
「冢宰が申しておりましたよ。景王君をお連れして戻った主上はいつになく満足そうであったと。それほどに主上がお気に召した御方ならば、まず間違いなどはございませんでしょう」
朱衡は言って庭院を仰ぐ。
「ならばこの木が景王君にもたらすのは、ただ安らぎのみであると、拙はそのように思っているのでございます」
言ってくれる、と尚隆は内心笑いながら、佇む月煌華を大きく仰いだ。
舞い散る花弁は白く光りながら、黒く塗られた空と、そこに浮かぶ月影を背景に悠々と渡っていく。その様は明るい見通しを正に伝えるようだったが、尚隆が願ったような希望を、果たして陽子はそこに見るのだろうか。その答えは、正直言って尚隆にも分からない。
「だからお前は無謀と言うのだ」
「……またそのようなでたらめな名を」
憮然とした朱衡を、尚隆は悠然と笑い飛ばす。笑って、しかしそれもいいと、そう思った。これはある意味賭けだが、落ち着いてあちらを考えるきっかけにはなるかもしれない。考えた末にあちらに帰ることを望むのなら、それはそれで仕方なしと諦めるしかないだろう。
「まあ、どうとでもなろうよ」
尚隆は言って深く笑う。彼方で、応えるように花弁が白く瞬いた。