緋に染まる 4
雛さま
* * * 6 * * *
2011/04/26(Tue) 15:24 No.672
「では」
尚隆は視線を上げて陽子を見る。
「一度全部吐き出してみるか。内に溜まっているものがあるのなら今ここで言ってしまえ。なに、気にすることはない。ここに居るのは俺だけゆえ、誰かに見られることもなかろう」
卓子の上の燭台の火がぶれて、光の残像を残しながら揺らめく。それに合わせ、顔を伏せたままだった陽子がやっと反応といえる反応を示した。
顔を上げて尚隆の目を射抜いた陽子の翡翠の瞳は、やはり涙に濡れてなどはいなかった。
「今、何と言いましたか……?」
「溜め込むだけ溜め込んで吐き出さぬから苦しいのではないか?ならば吐き出してしまえ。叫びたいのなら好きなだけ叫べばいいし、泣きたいのなら泣けばよい」
陽子は眉根を寄せて、あからさまな不満を見せた。
「延王の前で泣くなんて、そんなことできません」
これには尚隆も思わず苦笑を浮かべる。
流石というか何というか。陽子は玉座に就くなど自分には無理だと言いながら、無意識にとはいえど王の矜持を垣間見せる。これで駄目だ、出来ないというのだから、尚隆は唖然として笑うしかない。
「無理はするものではないな。苦しいのだろう。だから食事も喉を通らないのではないか?」
「だからといってそう簡単に泣いたりできません。そもそも、人の上に立つ者がそう簡単に涙を見せていいのですか」
「しかし、お前はまだ王になると決めたわけではない」
「……そういう言い方は、ずるいです」
陽子は憮然として言い放つ。
尚隆はただ苦々しく笑った。顔に貼り付けていた鷹揚な構えが若干歪み、肩を落とすように息を吐き出す。そのままその目は框窓の向こうを仰いだ。
雲海の上に吹く風はいつでも平穏で緩やかだ。時に生温く感じてしまうほどに安穏と吹く風は、掌客殿に広がる園林の、そこに立ち並ぶ樹木の枝葉を涼やかに揺らし、葉と葉の擦れ合う音が澄んだ調べを綴っている。天空にあるのは白みを帯びた月ばかりで、真っ黒い天蓋にぽっかりと円い穴を開けたようなその佇まいはどことなく整然としており、雲海の上の自然の営みが希薄であることを顕著に示していた。
雲海の上は面白みがない。それは尚隆がこの玄英宮にいて抱き続けた、五百年の間ずっと変わることのない感想だ。今、框窓の向こうに見える庭院に尚隆の心を捕らえるものがもしあるとするならば、それは白花咲き乱れる桜のごとき月煌華のみだろう。
木は、花弁が散りゆくその様すらもあちらの桜と瓜二つで、揺らめく風に枝先を煽られては、一枚、また一枚と儚げな様子でその花弁を散らしている。
花に色がない分、月の明かりをよく反射し、まるでそれ自体が発光しているかのように光り輝くその様は、正しく月煌華と呼ぶに相応しい。舞い散る花弁は、見れば見るほど光の結晶そのもので、落ちる花弁は庭院を染め上げる闇に光輝を投げ掛けながらゆるりと虚空を舞い、その様はいかにも優雅で華やかだった。しかし、あまり見続けているとその内魅入られてしまうような気もして、どこか畏怖の念も感じさせる。
光があれば影も落ちるか。尚隆はそう思って薄く笑んだ。そして、鮮烈なまでの色彩を見せ付ける陽子の中に抱かれている闇を思う。
闇は、たぶん誰しもが抱えるものだったが、今の陽子を見ていると尚隆は何やら危うい気がした。
「確かに、こういう言い方はずるいかもしれんな……。では、言い方を変えよう」
尚隆は低い声音で言葉を紡ぐ。先程とは違う真剣さを帯びたその声に、陽子は虚を衝かれたように居住まいを正した。
* * * 7 * * *
2011/04/26(Tue) 15:26 No.673
燭台の蝋燭が、またじりりと音を立ててその火先を揺らす。
「―――陽子」
名を呼び、尚隆は陽子を見た。
「お前の言うとおり、王は辛い苦しいなどという感情を表に出してはならん。苦渋や迷いは、いたずらに民を不安にさせるだけだ。そんなものを見せてみたところで、良いことなど一つもありはせん」
「なら……」
「最後まで聞け。なにも俺は王のありようを説きたいわけではない。今のお前にそれを言ったところでしかたがないからな。―――俺はただ、一人で苦しむなと言いたいだけだ」
一瞬、陽子の瞳が揺らめいたのを尚隆は見逃さなかった。これは核心を突いたなと、尚隆は密かに息を吐く。
「王は常に大丈夫だという顔をしていなければならん。だが、王とて人間だ。いくら神になったからといって、その心までが悟りの境地に達するわけではない。人である限り、必ず迷いは生まれよう。苦しみを抱えることだって、ないとは言えぬ」
「それは……」
陽子は苦悶する様を滲ませるように微かに眉根を寄せた。尚隆はそれを見て、真面目すぎるその性格に苦く笑う。
「一人で苦しみ続けるは辛い。そんなことをしていれば、破綻は目に見えて明らかだ」
尚隆は再び框窓の向こうの夜闇を見た。そこにあるのは光と影だ。月煌華の満開の花が照り返す月の光と、その下に落ちる影。
その昔、荒れ果てていた山野が緑に覆われれば覆われるほど、影の囁きにふらつき、闇に捕らわれる己がいた。碁の勝ちを数えて雁を滅ぼしてしまおうと賭けをした自分があの時確かにいたことを、尚隆は否定しない。
寿命が長いからこそ生まれる闇。それに抗い、尚隆が五百年もの間国を支えてこられたのは、自分の性格ゆえでもあっただろう。しかし、見るからに真面目な陽子が、自分のように息を抜いてやっていけるとは思えなかった。
「お前は根が真面目なようだからな。適当に肩の力を抜くなんてこともできまい」
堂室の中に再び框窓から風が吹き込む。その、思い出したように吹き込んでくる緩い風は尚隆の前髪を揺らし、白い花弁が鼻先を掠めていった。
思い出したように堂室の中にまで吹き込んでくる月煌華の花弁は艶やかに舞い落ち、何気に視線で追えば卓子の上にひらりと着地する。
尚隆はまっさらな白い花弁を見やって深く笑えみ、次いで視線を上げて陽子を見た。
戸惑いを見せる陽子が卓子を挟んだ向こう側にいる。近くて遠いその距離は、同じ胎果といえども共に王であるという二人の立場を正しく表している。
「気兼ねなく溜め込んだものを吐き出せる場所を見つけておけ。お前が王になろうとあちらに帰ろうと、そういう場所を見つけておいて損はあるまい」
「だから今ここで吐き出せと……?」
「俺の前でそうあれと言っているわけではない。別に誰かの前である必要もないが、お前には良き友がいるのではないか?」
「楽俊……」
陽子が躊躇いなくその名を呟くのを聞いて、尚隆は苦笑する。そして誠実な人柄を垣間見せた陽子の友である青年を思った。
半獣の身でありながら、今の巧で暮らすには肩身が狭かっただろうに、曲がることなく真っ直ぐに生きる様を見せる人の好い青年。楽俊は陽子のことをよく理解し、きっとこれから先も良い友であってくれるだろう。
「お前が夕餉を食べようとせぬから、あれもどうしたものかと心配している。一日食べずとも死にはせんとは、まあ否定はせんがな。しかし、食べれる時に食べておくのも重要だ」
そう言った尚隆の視線の先を、また白い花弁が掠めていった。
雲海の上でありながら今日は何やら風が強いと、尚隆がそう思った時、陽子が重々しく目蓋を下ろして、その翡翠を隠してしまった。
「延王」
陽子が尚隆を呼び、その目蓋を持ち上げたその刹那。框窓から堂室の中に向かって些か強すぎる風が吹き込む。
風は渦を巻くように堂室の中をうねり、そのまま開け放たれていた窓から外に向かって吹き抜けていった。しかし、事は風が吹きぬけてそれで終わりというわけではなかった。
その風に乗って堂室の中に入り込んだ、幾枚もの数え切れない白い花弁があった。
それは見事なまでの花吹雪だ。それらは堂室の中を緩やかに舞って、そこかしこに降り注ぎ、堂室の中を白い花弁で染め上げた。
「延王もそういう場所を持っているんですか?」
花吹雪が吹き荒れた後の静寂の中で、陽子が真面目な声音でもって訊く。尚隆はただ薄く笑い、目を伏せた。
「俺は適当に息を抜いてやっているのでな。あまり吐き出したいと思うこともない」
言いながら、尚隆の視線はゆるりと卓子の上を舐める。ふと目に止まったのは真ん中に置かれた燭台で、透かし彫りの施された皿の上に花弁が一枚乗っていた。先程の風で運ばれてきたのだろう。蝋燭の淡い光を受けて、その白が僅かに橙に染められている。
「……それで私には吐き出せというのは、やっぱりずるいです」
抑えた声音で陽子が言った。尚隆は苦笑して陽子の顔を見たが、その顔に乗る表情が思いのほか穏やかなものになっていて、尚隆は苦い笑いを改める。
「まあ、俺は俺、お前はお前ということだな」
「そうでしょうか……?人である限り苦しみは生まれると言ったのは延王です」
尚隆は思わず黙った。陽子があまりにも真摯に言うので、不覚にも二の句が告げなかった。
「確かに言ったが、今は俺の話をしているのではない」
沈黙は僅かで、次の瞬間には尚隆はかわすように言葉を紡ぐ。陽子はただ黙って目を伏せただけだった。
「私は不器用な人間なんだと思います。自分の苦しみをそう簡単に人に話すことはきっとできない。延王が自分をそういう人間だというのなら、私もたぶんそういう人間なんです。でも……、それでも」
陽子はそこまで言うと、やおら思い出したように框窓の向こうの庭院を見やった。
追うようにして尚隆も庭園を見る。そこでは月煌華が代わることなく花弁を散らしていた。
「延王の話を聞きながら、こうやって花が舞い散る様を見て、少しだけ心が安らいだ気がします」
陽子はそう言うと尚隆を見て微かに笑む。尚隆はその笑みに僅かばかり目を見張る。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことをした覚えはないな」
思わず小さな溜息を零しながらそう言ったが、陽子は小さく首を振った。
「ありがとう……、ございます」
重ねて言われた礼の言葉は少しだけ擦れ、辺りの空気に紛れて消えた。後に残ったのは心地の良い静寂のみで、尚隆はこれ以上自分が話すことはないなと口を噤んだが、それよりも何よりも、しこりのような違和感が無視できないものとして自分の中に残ったような気がして、尚隆はただ黙るしかなかった。
「面倒をかけてすみませんでした。……いただきます」
陽子は静かに言って箸を取る。尚隆はそれを見届けると、再び小さく息を吐いて彼方を仰ぐ。
庭院に佇む月煌華。月の白い光ばかり受けていれば、その花の輝きは明るすぎて目に痛く、それが落とす影も一層濃い。しかし。
尚隆は流れるように視線を移し、卓子の上の燭台の、その皿の上に乗った花弁を見た。
―――もしその身に暖かな緋色を僅かでも受けることが出来たのなら、落とす影も少しは薄まるか。そんな風に思って、尚隆は最後に正面の陽子をその視界に捉える。
尚隆の目には、風で僅かばかり揺れるその髪の緋色が、やはり燭台の火の揺らめきと重なるようで、その時、尚隆は心の中に残った違和感の正体を知ってしまった気がしたのだ。
終