金色の森
ネムさま
2011/05/01(Sun) 16:45 No.758
笑わないで下さいね。
桜と言われると、私はまず、この薄紅ではなく、金色を思い浮かべてしまうのです。
多分“桜”という言葉を知ったのが、あの時だったからでしょう。
あの頃、私は国境の街の、荒民の群れの中で暮らしていました。
いつものように、目に付いた小さな祠に入り込み、お供えのひび割れた餅に手を伸ばそうとした時でした。
「相手は慈悲深い麒麟だから、文句は言わんだろうが、餅が固すぎやしないか」
突然、後ろから声を掛けられ、私は飛び上がりました。
その頃の私は、大人の声を聞くと体が竦んでしまい、相手の顔を見ることも出来ません。でも、とても大きい男の人だとは思いました。
「ほらぁ〜。お前が出ると、怖がるって言っただろう」
今度はもっと私に近い歳の声がしたので、そっと目を上げると、頭を布で包んだ、12、3歳くらいの少年が、大きな人の横に立っていました。
二人は私にいくつかの質問をし、私は頷いたり首を振ったりするのが精一杯でした。だから祠から連れ出された時も、黙って付いて行くだけでした。
さすがに大きな二匹のトラが現れた時は、エサにしないでと泣きましたが、大きな人は私を抱えてトラの背に乗り込み、トラは何とそのまま、宙へ飛び上がったのでした。
生まれて初めての、そしてこの先もないだろう空の上で、大きな人は私に、そのトラが“スウグ”という騎獣であること、これから“サクラ”を見に行くのに付き合ってほしいということを話しました。
“サクラ”とは何かと、思わず尋ねると、大きな人は“春に咲く花だ”と言い
「その下で酒を飲むと旨い」
と笑いました。
やがてトラ、いえスウグは、森の合間の野原に降り立ちました。
大きな人につかまりながら地面に降り、そして前を見た途端、私は呆気にとられました。
目の前の森の木が、お日様の光に当たり、きらきら、きらきら光っていたのです。
突っ立ったままの私に、大きな人は木の下に落ちていたものを拾い、見せました。それは薄い布を幾重にも巻いたような、小さな花でした。そしてその花びらの色は、淡い黄色でした。
「これは鬱金という桜だ」
大きな人は言いましたが、生まれて初めて桜を見た私は、ただ頷くだけでした。
突然「わっ!」という声がしたので振り向くと、既に森に入りかけた少年が、頭を包んだ布を枝に取られて、あたふたしていました。そして、布からはみ出た幾筋もの髪の毛は、やはり桜の森と同じ、きらきら光っていたのです。
ようやく絡んだ布を枝からはずした少年は、私に気が付き、ちょっと困った顔をしましたが、すぐに二カッと笑って指を立て
「ナイショ、な」
と言いました。
それから私は大きな人の肩に乗り、金色に光る森の中を巡りました。
春の陽が森中に差しこみ、なにもかも、やわらかく輝かせていました。
先に歩く少年の髪も金色に靡き、あの明るい世界へ導いてくれるかのようでした。
ただ、ただ、きれいな世界でした。
それまでにも、きれいなものを見たことはありました。
けれども、過ぎ行く人の美しい着物や、窓から垣間見る豪奢な部屋は、自分の惨めさや、相手への妬ましさを感じさせるものでもありました。
その時見た風景は、世界にはこんな美しいものがあるのだと、ただ“在る”ということだけで、何かが満たされていくこともあるのだと、そんなことを体中に浸みわたらせてくれるものでした。
たくさんのお弁当を食べさせてもらった後、元の街に戻り、そこで小さな子供でも働きながら学ばせてくれる老師を紹介してもらいました。
そしてその後、毎日祠へ行きましたが、もう二人には会えませんでした。
この国に王が立ち、戻ってからもいろんなことがありました。
けれども、後戻りが出来ないほど、私が道を踏み外さなかったのは、あの時の金色の森が、私の中に在り続けているからだと、そう思えてならないのです。
また行きたいとは思います。でも、この薄紅の雲霞の下にいるのもいいものです。
ほら、あの子。
大きく口と目を開けて、桜の花々を見上げているでしょう。
あの子の中で、今、美しい森が生まれているのかもしれませんね。
― 了 ―