残華寂寂
Baelさま
* * * 壱 * * *
2011/05/02(Mon) 21:15 No.781
「六太。何だ、ここにおったか」
背後からかけられた声に、金髪の少年は振り向いた。
本当は振り向かずとも己の主を過たない。彼はそういう生き物だ。
この常世。十二の国に最大十二しかいない神獣、麒麟。天意によって王を定め、王を神の座に据える。雁の国の天意を背負う彼が選んだ雁州国王に声をかけられるまで気づかないことなどあり得ない。
にもかかわらず、呼ぶまで自身を振り向かなかった少年を、男は咎めない。
それは男が麒麟というものを理解していないためなのか、単に無頓着なためなのか、或いは度量が広いためなのか。相変わらず、六太には分からない。
振り向いても何も答えない彼を気に留めた風もなく、主は六太に並んだ。
「美事に咲いたな」
何処か満足そうに言われ、六太は男に向けていた視線をまた元に戻す。
王の座所は凌雲山の頂上、雲海の上の宮殿。常に天候穏やかに晴れ渡った空を背景にして、爛漫と咲き誇るその櫻華。枝振りはまだ華奢ながら、淡黄の花びらが八重に開き、玄にすら見える深い紅の条線も鮮やかに。華やいだ姿は、ただひたすらに艶やかだ。
それは確かに、美事と呼ばれるだけのことはあった。
そしてまた、言われる理由もこの木は持っていた。
「お前が蓬莱よりこの枝を持ってきて、十年……二十年、もっとか。根付きはしたものの華など一つも咲かず、最早諦めた方がいいのではないかと思っていたが、な」
「……庭師を褒めてやれよ」
「まあ、そうだが。……まずは木を褒めてやるが先だろう?」
よくぞ咲いた、天晴れ、と。太く笑う男を前に、六太は一瞬、言葉を見失う。
「…………。……暢気な王様にそんなこと言われちゃ、この華もさぞ気抜けするだろうな」
「ふん。気楽に毎年咲いてくれれば、なおのこと結構ではないか」
「そーゆーところが暢気だってんだよ、尚隆は」
やれやれと嘆息する少年の上で、風にふるりと揺れる華。それはまるで微笑っているかのようで。
六太は、僅かに目を細めた。
* * * 弐 * * *
2011/05/02(Mon) 21:15 No.782
それはいつ頃のことであったか。
春の緑が濃くなる頃。細く白い月の下、夜の山中を殆ど音もなく駆け抜ける一頭の獣がいた。野を駆けるもの、地を這うもの、空を飛ぶもの。いずれも己の眷属にあらずと息を潜めるそこを、小物には構わぬとばかりに進むそれは、ここ蓬莱と呼ばれる地にいる筈のない妖魔。
その妖魔は、己の背にいる少年に、台輔、と声ならぬ声をかけた。
「台輔。本当に主上がこちらに……蓬莱にいらっしゃるのでしょうか」
「さぁて、な」
と、何処にでもいそうな黒い髪黒い瞳のどちらかといえば痩せぎすな少年は、困惑した顔で答えた。
だが、妖魔を使役する者が只人のわけはない。それは、月影を越えた異世界──常世にあって王に次ぐ尊崇を受ける神獣のみのなせる技。故に彼は麒麟だった。
雁の麒麟、延麒六太。卵果の内に蓬莱へ流され、二形に加えて蓬莱の姿も持つ稀有な彼は、時折、ぶらりと蓬莱へ渡っていたのだが、不意に王気を感じると使令を駆けさせ始めたのだ。
「……尚隆の気配がこっちからすんのは確かなんだよな」
「しかし」
「分かってる。尚隆が一人でこっちへ渡れる筈がないし、そもそも麒麟や妖魔以外のモノが虚海を越えれば蝕になる。……そんな感じはなかった」
使令である悧角の言葉に頷いて、でも、と。六太は言った。
「王気そのものじゃないかもしれない。でも……何かは、あるんだ」
だから行く、と言い放つ。
そもそも麒麟とは王を慕い、仕えるもの、らしい。蓬莱生まれの六太にはいまひとつ得心がいかないが、かつて蓬山で麒麟としての自身を知った際に、そう教わった。教わりはしたが、完全に納得はしていない。
だが、まるで向日葵の蕾が太陽を追いかけるように、六太が己の主の王気を気にしてしまうことは事実だった。
「止まれ、悧角」
ややあって、ここだと見定めた場所の僅か手前で六太は使令を止めた。弁えた使令は、そのままいったん影に溶ける。
「さぁて。……鬼が出るか蛇が出るか、だっけか」
何が出るかと、六太は僅かに息を殺しながら足を進める。大きな杉の木をぐるりと周り、そこで足を止めた。
木々が切れ、月光が降る。そこに黒々と影を落とすのは、人気のない御堂。その脇で、まさに月の寵を受けるかの如く光を受けほんのりと輝いても見える華が、時節を悟ってはらはらと散り落ちていた。
その根元に立ち、華に手を伸ばす細い影が一つ。それを見やって、六太は首を傾げた。
更に一歩踏み出した足が、こそりと音を立てる。静寂の中、妙に響いた気がするそれを咎めたのか、影は振り返った。
そして、「おや」と細く高い女の声がした。
「どの様な獣かと思うたが、見たことのある子天狗じゃの」
「なに……あんた一体……」
「無礼者め。……まったく、この様な子天狗を寵愛なさった三郎君様の気が知れぬが。して、あの方はご健勝か」
権高に言い放つ色の白い女。誰のことを聞いているのかと問いかけて、六太はそれが己の主のことだと気づいた。
だがその呼び名。改めて女の顔を確認した六太は「まさか」と呟いた。
確かに覚えがある。
かつて、血に酔いながら辿り着いた地で。王気の光を頼りに流れ着いた場所で。その光の源である男の姿を探して迷い込んだ庭の中。同じような口調で「無礼者」と言い放った若い女がいた。
自分が侵入者扱いされて不思議はないことは弁えていた六太は、その時、這々の体で逃げ出したのだが。しかし。
「何であんた……」
「わたくしが、お前に問うておるのじゃ。何故答えぬ」
六太の動揺など欠片も気にせず、女は不満げに言った。六太は溜息を吐く。
「元気だ。だけど」
「それは重畳。なに、三郎君様のこと。今頃は不遜にも天狗の国で楽しんでおいでであろ。……わが吾子は殺されたというに」
ぽつりと女は呟く。「吾子や」と繰り返す女の顔を言葉もなく眺めていた六太は、次の瞬間、はっと足を退いた。
表情のなかった女の顔が、刹那に夜叉に変じたのだ。
「ええい、口惜しや。我が吾子さえおれば、三郎君様には小松は継げぬ。それがお屋形様の、一郎君様、二郎君様の願いであったに、あな恨めしや三郎君様、あな憎しや村上の海賊ども!」
「おい、落ち着け!」
呵々と哄笑を始めた女から、どろりと瘴気に似た怒気が立ち上った。怨嗟に病む麒麟の本性が、勝手に身を退けさせる。
そんな六太の脳裏を、昼間話をした近隣の村人の言葉が覚えず流れた。
──この付近の御堂に棄てられた白首。かつては高貴だったと噂される狂女は、しかし……。
思い出すな。と、六太は己自身に命じた。
脳裏の言葉をそのまま黙殺して、「だから、落ち着けって」と、再度、女に声をかける。
「尚隆は、帰ってこない。来れない!」
「……天狗の国で夫役でもしておいでかの」
不意に鎮まった女が、にんまり笑んで言う。六太は素っ気なく、似たようなものだ、と返した。
「ほほ。民草に交わるあの御方には、さぞお似合いであろうよ」
「あいつは! ……あいつは、あんたの思う彼方の国で、王になった。おれが王にした。信じなくても構わない。でも、王になったあいつは帰れないんだ」
「構うまいよ」
吐き出すように言った六太の言葉に、さらりと肯定が返る。
きっと睨んだ少年の潔癖な視線の先。女はもう六太を見てはおらず、まるで童女の無邪気さで、降りかかる花びらに手を伸べていた。
「見や。綺麗であろう、この櫻」
「…………。……櫻?」
言っても無駄かと溜息を吐いて、六太は花びらを降らす木に目をやった。月明かりの下、はきとは見えないそれをしげしげと眺める。
月明かりに白いかと思われたその花びらは、薄紅ではなく白でなく、ぼんやりと淡く黄色い。月光に溶けそうな姿を玄い条線が縛るように留める。そう見えた。
「これ、櫻か? おれの知るのとは違うな」
「櫻ではないとお前が思うならば、櫻ではないやもしれぬな。……三郎君様がどの様に思われようと、あの方が天狗の子でしかなかったように?」
「なに」
「小松の主の器に非ず、と。一郎君様は笑って、二郎君様は憎々しげに、そしてお屋形様は無表情に言われた。故にわたくしはあの方の吾子を生まぬ。わたくしの吾子は小松を継ぐのじゃ。それがわたくしの役目」
「……小松はもうない」
「あったやもしれぬ。なかったやもしれぬ。それはお前には関わりのないこと。そしてご帰還なされぬ三郎君様にもまた関わりないことであろう」
「あいつは……帰れないんだ」
「構うまいと言った。お前に耳はないのかえ? ……わたくしが小松の母じゃ。三郎君様は要らぬ」
ひらひらと。
ひらひらと舞う花びらの中。
女は冷ややかに言った。けれど花びらに向ける視線だけは柔らかい。
「要らぬのじゃ、最初から。……ならば構うまい」
「あんたは……」
「あの方は水の性の方じゃ。辰星の元に生まれたと聞く。水は流れゆくもの。それが理じゃ。……水の性なる者が、智に傾き智に溺れ智に滅ぶもまた。理やもしれぬであろ」
それを見られぬは残念と、優しげな声で女は言った。軽侮している筈の言葉が、そうは聞こえず、六太は頭を振る。
ひどく頭が重かった。
ただ一つ。一つだけ、これだけは聞きたいと、そう思って口を開く。
「なあ。……あんたは、本当に、尚隆が嫌いだったのか」
「…………」
くつり、と。女が笑う気配がした。
けれど。
「……わたくしは、小松の母となる女じゃ」
細い声がそれだけを告げる。そして。
「それは……答えじゃない」
六太の呟きを置き去りに、僅かな風がそよぎ、花びらをはらはらと散らす。
はらはらと。
はらはらと、ただ。
その木の根本に転がる髑髏に。
そして女は、もう何処にもいない。
六太は溜息を吐くと、こりこりと頭を掻いた。
そして、女がそうしていたように櫻を見上げ……そっと、掌を伸ばした。
* * * 参 * * *
2011/05/02(Mon) 21:16 No.783
そして見上げる六太の上。今にも落ちそうに、零れんばかりに櫻華は花開く。
淡黄の花びらが八重に開き、玄にすら見える深い紅の条線も鮮やかに。かつて月明かりの下でも美しかった華は、青空の下、更に美しい。
あの後、六太は使令に命じて櫻の下へと髑髏を葬った。そして代わりのように櫻を一枝折り取ると、ここ玄英宮の庭へと連れてきたのだ。そして花を咲かすに何年待ったか。
今更、そんなことは覚えていない。そして、花の由来を主に話したこともなかった。
だが、六太の王は何やら楽しげに櫻華を見て頷いている。
「綺麗だな」
「尚隆。櫻、好きだったっけか」
「ふむ。……昔、俺が生まれた時にちょうど花を咲かせるようになった櫻が、まさにこんな色でな。水の性の生まれであった俺の色たる玄に似た深紅の条線が美事と、奥の女達が持て囃したらしい。誰呼ぶことなく、三郎櫻と名付けたとか。幼い頃からそんなことを聞かされると、何だか親近感がわくというものだろう」
その言葉に、六太は瞬く。それに気づいたか、気づかなかったか。しかし、と小さく息をついて、尚隆は目を細めた。
「親父はむしろ、この色を愛でていたな。土行の黄色。土剋水というわけだ。俺の性が櫻によって留められるだろうというわけか」
「……お前の場合、ちっとくらい堰き止められてる方が平和だってことだろ」
ふいとそっぽを向いて六太が言うと、尚隆は一拍おいてから「成程」と笑い出した。大きな手を、ぽんと六太の頭に置く。
「確かに、そうかもしれん。麒麟は土徳の神獣と言うからな。お前が俺の重石か、よく出来ている」
「逆よりはマシかもなー。お前みたいな重いのを上にのっけたら、おれみたいなか弱い子供は潰れちまう」
「ほほう。俺はそんなに重いか」
「ああ、重い重い」
「それは困ったな。やはり宮に籠もって書類ばかり見ていると不摂生でいかん。太って更に重くなる前に、ここはやはり……」
「……お前、それが言いたかったのかよ」
不真面目な奴、と六太は嘆息する。だがそんなことは今更だ。
実際、六太の苦言をさして気に留めた風もなく、男は「では、そろそろ行くか」と伸びをした。
「必要な書類は、一応、全部捌いたしな。これ以上真面目にしていると、ここぞとばかりに仕事を増やされかねん」
「あー。……何か先刻、帷湍が凄い勢いで指示飛ばしながら走っていくの見かけたな」
「それは急がねばならんな。……お前も来るか? 来ないなら俺の分も」
「先に行って、たまに鞍置いといてくれよ。嫌だぜ、おれ。いなくなったお前の分まで嫌味聞かされながら仕事すんのなんか!」
「まあ、よいか。お前が捕まっていると、いつ迎えに来られてしまうか分からんからな」
そのくらいなら最初から連れ歩いている方が気楽だ、と言う男は、やはり麒麟の意味を分かっているのかいないのか。だが六太にしてみれば、どちらでも良かった。
早く来いよと言い置いて去る男の背を僅かに見送って、ひょいと肩をすくめてみる。
そして、再び櫻華を仰いだ。その華は、今や盛りと咲き誇り、未だ散らない。
かつての月夜に六太が見た情景とは違う、けれど同じ色の花だ。
「三郎櫻……か」
ならば、あの女はその華に何を思っていたのかと、思おうとしてふとやめる。
──この付近の御堂に棄てられた白首。かつては高貴だったと噂される狂女は、しかし、村の男達に殺され骸は捨て置かれた。その後、御堂にて女の声がする故、近郊の者は誰もこの山に近づかぬ。
それは何処にでもありそうな怪談で、今更思い出すことでもない。と、六太は改めて思い返す。
六太は使令に確認しなかった。
あの夜、確かに女がいたのか。女と自分は言葉を交わしたのか。幻ではないのか夢ではないのか。そんな何一つ意味のないことは、尋ねなかった。
そしてまた、小松の最後の領主であった男にも、聞かなかった。彼の家族の話など、何一つ。
だから、本当にあの髑髏が、かつて見たことのある女のものかすら、今となっては定かではない。
たとえば、自分は主を攫い、この常世へ連れてきた。
その際、滅びかけていた主の“国”の民達は、本当にもう誰一人いなかったのか。それすら、今となっては定かではないように。
もうあちらの世界には、この国の王となった男を求めて慟哭する者が一人としていないのかどうかすら、定かではないように。
そういうものだ、と。六太は思った。
だが。
──構うまい。
はらはらと舞う花びらの幻と共に、蘇る声がある。
それが嘘だと分かっているからこそ鮮やかに響いた、柔らかな声。
それに縋る、自分の──或いは王を求める麒麟の──弱さを知っている。だからこそ、六太は目を細めた。
「あいつは……帰らない」
帰らない。帰れない。
……帰せない。
それすらも、何処かで嘘だと思いながら、六太は小さく呟いた。
そんな六太の視線の先。
零れることがない華はただ、風にふるふると。微笑うように揺れていた。