花咲クチカラ -壱-
Baelさま
2011/05/13(Fri) 20:21 No.910
きゃーっという嬌声が小さく耳に届き、珍しく正寝で書き取りをしていた慶東国王中嶋陽子は小首を傾げた。
国主である陽子がいるのは、当然のことながら王の宮殿である金波宮。そこに仕える女官達は、先王の女性追放礼の影響で数こそ減じたものの、それなりの立ち居振る舞いを習得している者が殆どだ。
無論、新たに宮に迎えた者の中には、まだ慣れぬ者もいる。だが、振る舞いの優雅さこそ古参に劣るものの、思慮分別に秀でた新参が、そうそうはしゃぎ立てるとは思えない。
一体何事かと、常の気安さでもって女官達のいる辺りに顔を出す。
と、そこは、一見して戦場だった。
「桜の襲は、白と紅花にございましょう。こちらの衣では色が薄くそぐいませんわ」
「では、白と淡紅の薄花桜では如何でございましょう?」
「可憐ではございますものの……主上がお召しになられるのですよ? 衣が負けてしまいませんかしら」
「それでは、萌黄と淡紅の桜萌黄ならば? 主上の瞳のお美しさを、より引き立てませんでしょうか」
「ですが、それは男君の襲では?」
「官服でしたらさぞお似合いでございましょうが。……困りましたわね。淡桜萌黄では淡青と二藍で色目が違ってしまいますでしょう?」
「いっそ主上が為、薄桜萌黄という襲にして、下の衣のみこちらにしてしまうというのは……」
「まあ、それは些かならず無理がございませんこと?」
「ですが、時節は既に外れておりますのよ。この上、拘る必要がございましょうか」
「それもそうですわね。では……」
「…………。……えーと、ちょっといいかな」
果たしてここで口を挟むのは吉か凶か。迷いながら、何となく嫌な予感に陽子は声を出して皆の注目を引いてみた。
「まあ、主上!」
慌てたように畏まる女官達に、いや、邪魔をする気はなかったんだけどと軽く言いながら、陽子は手を振って跪くのをやめさせた。
「何をしているのか、な?」
「それは勿論」
代表したように、女官達の中心にいた紺青色の髪の友人に、にっこりと微笑まれる。
「主上のお召し物を整えていたのですとも」
「……は」
「ちょうど良かったわ。そろそろ着替えて頂かなくては間に合わないと思っていたところだったので」
──さあ、さあ、主上。どうぞこちらを。と、途端、女官達に取り囲まれる。その手が実に手際よく自分の衣を剥ごうとしてきたため、思わず陽子は後退った。
「ちょ……ちょっと待て! 何だっていきなり」
「まあ、主上。いきなりなどではございません。本日のご予定としてはこの後、藤の宴が予定されているではございませんか。延王君、延台輔のみならず、氾王君に氾台輔までいらっしゃるのでございましょう」
「いやしかし、皆様、私が着飾るタチではないのはよくよくご存知の方々だぞ。大体、未だ幼い朝である慶で、国主ばかりが華やかなのは相応しくないと思わないか」
「そう仰るとは思っていましたが」
言葉ばかりは丁寧に、堂々王の前で腕組みして嘆息した祥瓊に、陽子は「そうだろう?」と我が意を得たりとばかりに言葉を足そうとする。だが、その説得を重ねるより先に、「でもね」ともう一人の親友に微笑みながら言われた。
「今回の衣ばかりはちゃんと着て頂かなくちゃ。何せ、戴からの贈り物でもあるんですからね」
「は……? 戴?」
何だそれはと、陽子は首をかしげる。
正直なところ興味は欠片もないが、しょっちゅう女官達と攻防を繰り広げていれば、それなりに目は肥える。この部屋に用意されている数々の衣の綾の見事さを見れば、それらの殆どが範国製の極上の絹織物であることは明らかだった。
にもかかわらず、何故に戴国と問えば、「はい、どうぞ」と薄様の書簡を一通渡された。
「泰台輔からのお手紙でございます、主上」
「ますます待て。何でそんな物がこんな時にこんな所で出てくる?」
「我が国の台輔からのご指示がございましたのに加え、書簡をお送り下さいました泰台輔のご希望にございましたので」
「何でだ?」
「それは書簡をお読み頂きたく。……どうせ主上しかお読みになれませんからね」
くすくす笑いながら、さあ読んで、と促される。
納得はいかないものの、その書簡に記された【中嶋陽子様】という宛名書きを見れば確かに。自分にしか読めないというのも、送り主が同じく胎果である戴国の麒麟であることも分かる。
しかし、偽王によって荒らされた国で何とか無事に王を取り戻し、やっと安定を取り戻したかに見える戴の国から、一体何が送られたのだろうか。と、首を傾げながら、陽子は書簡を開いた。
【拝啓 慶では藤の花房が初夏に趣深く揺れる麗しい季節となったことと思いますが、お変わりございませんか。】
「……どうして筆で、あちらの文字をこんなにさらさらりと書けるかなぁ」
いいなぁと内心こっそり溜息を吐きながら、陽子はその時候の挨拶をさっくりと読み飛ばす。
正直、蓬莱の文字も常世の文字も筆記用具が筆となると大変さでは大差ないが、読む分には当然のことながら蓬莱の方に大幅に軍配が上がる。日々苦労している身からすると、さくさくと目が進むのは、正直なところ快感でもあった。
「えーと、つまり何を贈ってくれたって?」
【先日、景台輔とお話ししていた際、あちらの教科書で学んだ知識の話となりました。それを聞かれた景台輔に是非と請われ、お贈りするものです。戴国は未だ乱の傷が癒えぬ小国。多大なご厚情を頂いた慶国へ某かのお礼をしたくもままならないところ、他ならぬ景台輔に我が戴国からの贈り物をお望み頂けたことを大変嬉しく思います。】
「景麒が? 自分から望んだって?」
「ええ。そうらしいですわ、主上」
「それは珍しい」
【また、この贈り物は我が戴国にとっての励みともなります。かつて国語の教科書で、ただ文章として学んだ事象が形になること。そして、それがこの国の大地の力の一端を示すこと。おそらく、同じく学んだ中嶋さんにでしたら理解して頂けるのでは、と思います。そして、そこに寄せられた景台輔の思いもまた同じではないか、と。そう信じ、この樹をお贈りさせて頂きます】
「……樹?」
「樹というか枝というか……正確には、樹皮、でしたわね」
「ええ。本当に珍しく台輔が冬官にお願い事をなさったものだから、冬官府が何だかもう大わらわだったみたいで。……でも間に合って、ほぉら、こんなに綺麗な衣になったのだから。彼らもきっと喜んでいるわね」
──だからやっぱりちゃんと着ていただかなくっちゃ、主上。と、言われても困るのだがと思いながら、陽子は「どの衣?」と問うた。
「こちらの衣ですわ。……桜の樹皮で染め上げた、美しい桜色の」
ずずい、と。祥瓊の手で目の前に広げられる。
それを見やって、ほぉ、と。覚えず陽子は目を細めた。
まるで仄かに上気した乙女の頬に似た、柔らかに仄かなピンク。その温かな色合いは、万事くっきりはっきりした色の艶やかな織物とは異なり、懐かしさをも感じさせられる。
そして、また。
「桜染め、か……。そうだ、確かに学んだな」
かつて、蓬莱の地で。国語の時間の教科書の中に、その知識はあった。
桜で染める、桜色。けれどそれはいつの時期の桜でもいいわけではなく、春先、間もなく花となって咲き出でようとしている山桜のその皮でなければ染まらない。木全体で懸命になってピンクに染まろうとしている、まさにその瞬間の色なのだ、と。
桜の桜色は、花の先端にしか見えないけれど。その色は、染め上げている源は、本当は木全体の力なのだ、と。
ああ……と。音にならない嘆息が漏れる。
脳裏を一瞬、書簡を送ってくれた北の国の黒い麒麟の姿が過ぎる。鋼の瞳に白い面。何か毅いものの撓められた、それでも真っ直ぐな姿。
──“この国の大地の力”
偽王によって理を狂わされた戴国の、遅い春。けれど確かに春は訪れているのだと、こうして華やかな色が教えてくれる。
そして、また。
「成程、仕方ない。……景麒が本当に珍しくも気を遣ってくれたというのに無にしては、拗ねてしまうだろうからな」
大仰に溜息を吐いて言ってみる。わざとらしく顰めた顔を覗きこんで、くすくすと、親友達が笑う。
「ではお召し頂けますね、主上?」
「でも、重くて動きにくいのは勘弁だぞ!」
「勿論、それは考慮させて頂いておりますとも。……いいから、さっさと着てくれればいいのよ。もう時間ないんだから!」
呆れたように眉を跳ね上げて言い放つと、祥瓊は「さあ、主上もお許し下さったのだから」と女官達に号令を掛けた。
途端、これまで側近に場を譲って黙って控えていた女官達が、嬉しげに笑いながら「さあ、主上」と衣を手に手にわらわらと寄ってくる。
その怒濤の勢いに僅かに怯みながら、陽子は「まったく、もう」と呟いた。
けれどその唇には、和えかな笑みが浮かんだまま。呆れたようでもあるが、それはとても温かなものだった。