花咲クチカラ -弐-
Baelさま
2011/05/13(Fri) 20:22 No.911
「陽子はまだ来ぬか」
「申し訳ございません。延王君、氾王君におかれましては、今暫しお待ち頂きたく」
「相も変わらず猿王は忙しないの。麗しい女人の支度は時間がかかるものと決まっていよう。のう、梨雪?」
「そうですわよね、主上。それに待ち焦がれる気持ちは、こちらの方が上ですわ。景王は本日、範の極上の白絹を戴の桜で染めたというご衣装を纏っておいでなのでしょう? 雁などより、まず範の私達が楽しみに待つべきところじゃないかしら」
「うちも本日の宴のため、極上の酒なぞを土産に持ってきているんだがな」
「あらあら。何て風情のないお土産かしら」
「全くだのう、せっかく花と華を愛でる宴というに」
「お前らな」
「……なー、浩瀚。うちのバカ王等が煩いんで、そろそろ陽子に来てもらえると嬉しいんだけど」
「黙りゃ、小猿。此度の景王の装いは、景台輔の願いによるものというではないか。我々が先にその艶姿を望むは無粋というものではないかえ?」
「そーれは分かってるっての。言い方を間違っただけだろ。……ったく、景麒ー、まだかよー」
「…………。……と、仰っておいでのようですが」
「そのようだな」
華やかというよりむしろ騒々しい雲上人達の声が漏れ聞こえる宴席の近くで、憮然としたまま立ち尽くしていた景麒を前に、陽子はくつくつと笑いながら両手を掲げて見せた。ひらり、と。長い長い袖が舞う。
白に薄紅を幾重にも重ね、薄く透ける上衣は爽やかな若葉の色。それは鮮やかな陽子の瞳に良く映える、美しい衣装だった。
だが、華やかな姿を披露するこの慶の国の女王は、いっかな中身に変化がない。実に少年ぽく肩をすくめてみせた。その動きにあわせ、複雑に結い上げられた髪に飾られた金の歩揺がしゃらりと音を立てる。
「そうは言われてもな。久々にこんな格好したもんだから、なかなか身体が前に進まない」
「皆様方がお揃いになった旨をお伝えしに、桂桂が参った筈では」
「桂桂は真面目だな。『本日の主上の装いは慶の民が為のもの。それ故まずは台輔がお目にすべきと心得よ』なーんて浩瀚が言ったのを真に受けて、ずっと目を瞑ったまま伝えに来たぞ」
「それはまた。怪我などしておりませんでしたか」
「おかげで虎嘯が、雛鳥を守る親鳥よろしく後ろから冷や冷や見守っていたらしいな。鈴が笑っていたよ。ああ、その大僕を何故連れていないとか文句を言うなよ。そもそもお前がさっさと迎えに来ないのがいけない」
どうせ、延王とか氾王とかに散々アレコレ言われ、ついでに冢宰にも口添えされて、やっとこ出てきたんだろう、と。笑ってやると、無表情な麒麟の憮然度が上がった。
その顔に、尚更笑いがこみ上げる。
「……僭越なまねを致しましたので、主上はお怒りになられるかと思いました」
「怒るようなことをされたかな。……まあ、吃驚はしたか」
今更、中学時代の国語の教科書を思い出させられるとは思わなかった、と笑いながら言うと、この麒麟と付き合って長い陽子でなくば分かりづらいほど僅かに、景麒は困った顔をした。
陽子はその困惑が一番濃く見える紫の瞳を覗きこみながら、「あのな」と言った。
「嬉しかったよ」
「…………」
「泰麒も嬉しいと言っていた。そうだよな。戴も慶も同じ……まさにこれから花開く国だ」
「……はい」
「まだまだ、色づいた蕾を付けるには早い。でも、花咲く力を全身に溜め、一心に開こうとしている国だ」
「はい」
「お前が贈ってくれたのは、この黎明の国の王に一番相応しい衣だ。……そう思ったんだよ」
だから、有り難う。と、そう言えば、景麒は何処か戸惑ったように瞬きをして、それから僅かに微笑んだ。
滅多に見られないこの仁獣の微笑みは、希少価値まで含めて考えると、ひどく縁起がいい。陽子もまた、機嫌良く微笑み返した。
久々に薄く白粉を塗り紅を刷いたその顔は見惚れるほどに美しいが、花びらのような唇から出るのはいつも変わらぬ陽子の言葉だ。
「さあ、では、連れて行ってくれるんだろう? 正直ここまでくるので精一杯だ。このままだと、絶対、宴席に辿り着く前にひっくり返るぞ」
「……普段からもう少し王に相応しい衣をつける習慣をつけて下さればよろしいのでは」
「嫌だよ、動きづらい」
言いながら陽子が腕を差し出すと、景麒は僅かに躊躇った後、そっとそれを支えた。
匂やかな春の花の装いの女王を、金の髪のしもべが支え導く。それはそれは美しい光景だと、見た者は口を揃えて言うだろう。
もっとも、支えられている陽子に、相変わらずその自覚はない。
飾り立てられて重い頭をぐりんと巡らせ、景麒に「ばたばた動かないで下さいませ」と叱られ、首を竦めた。
「けどな、景麒」
「はい」
「泰麒と話して樹皮を贈ってもらったのは分かるんだが、それでどうして範の白絹とかで染めることになったんだ?」
「はい。正直、泰台輔に樹皮を譲って頂いたものの、どうしていいか分からず」
「うん。お前ならそうかもな」
「……冢宰に相談を致しました。そうしたところ、範に事情をお話しすれば興味を持って頂けるのではないかと案を出されまして。その通りに氾王と氾台輔にお話し致しましたところ、白絹を大層たくさんお贈り頂きました」
「へー」
「ですがその後、それをお召しになった主上の姿を是非とも見せてほしいというご要請がありまして」
「うん?」
「同じように冢宰に相談を致しましたところ、藤の宴を催すことにして延王と延台輔もお招きし、そのお招きの際に氾王よりご要請頂いたことをご説明してはどうかという案を出されまして」
「……で」
「その通りにしたところ、延王より宴の費用負担をお申し出頂きました」
「……成程」
相変わらず抜け目ないなー、あいつ。と、陽子は呟きながらちらりと景麒を横目で見る。だが景麒の方はといえば、その呟きに不思議そうな表情を──分かりづらいが──浮かべ、僅かに首をかしげた。
こういうところが純朴とか言われるんじゃないかと思いつつ、陽子は「仕方ないな」と苦笑する。
「じゃあ私は、この衣装を、範にも雁にもしっかりお披露目しないといけないわけだ。責任重大だな」
「はい。宜しくお願い致します」
「うん、そうだな。慶だけではなく、戴の花咲く力もお借りしているんだから」
頑張るよ、と。支えられながら支えるだけの力強い笑みを浮かべ、陽子は真っ直ぐに前を向く。
「相手は五百年と三百年だけどな。……負けてなんていられない。だろ?」
だから、と。まさに黎明の、花咲く麗しい笑みを浮かべ。
「さあ行くぞ、景麒」
この慶東国の女王は、凛とした瞳で命を発した。
初夏の風がふわり、さらり。美しい女王の、美しい衣の裾を、僅かに揺らしていた。