惜花晴嵐 ─昼─
Baelさま
2011/05/20(Fri) 19:56 No.1017
はらはらと。はらはらと舞う花びら。
見上げればまさに晴天のその下、堂々たる枝振りに薄紅の雲を纏った大樹がある。
それをつくづくと眺めて、陽子は溜息を吐いた。
「桂桂。駄目みたいだ」
「やっぱり見つからない?」
「下からだと分からないな」
「そうかー」
しょんぼりと項垂れる幼い子供の姿が胸に痛い。さて、どうしたものか。と樹を睨む。
「いっそ体当たりしたら落ちてくるかな」
「何やら、怖いことを口走っておいでですね。主上」
「うわ」
どのくらいの勢いでぶつかればいいかと、目算で距離を測っていた陽子は、いきなりかけられた声にびくりと肩を跳ねさせた。
「浩瀚! 何でいるんだ」
「主上へ追加の書類をお持ちしましたところ、御不在でしたので。積み重ねて、また冢宰府へ戻るところですが」
「……えーと。そうか、また増えたのか」
と、執務を抜け出している自覚がある陽子は首を竦めたが、浩瀚は怒るではなく僅かに微笑った。
「あまり根を詰められても効率が悪いですから、息抜きは構いませんでしょう」
「あ。うん」
「しかし、お怪我をなさるようなことは、おやめ下さい」
桜の樹を相手に、格闘のお稽古ですか。と言われ、幾ら何でもそんなことはしないと、むくれてみせる。
「あの、御免なさい、浩瀚様。僕が悪いんです」
「桂桂」
「鞠で遊んでいたんですけど、僕が陽子──主上にふざけて投げたら、手元が狂って、樹の上に飛んじゃって」
「落ちてこないという訳か」
「はい」
「成程」
しゅんとなって答える桂桂に、「まあ、そう落ち込むな」と、浩瀚は柔らかな声をかけた。
「それよりもむしろ、今後は主上が樹へ突進なさるようなお振る舞いをお見せになったら止めるように心掛けてくれぬか」
「はい! お約束します」
ぴんと背筋を伸ばして答える桂桂に、頼む、と声を掛ける浩瀚。その様に、陽子は今度は唇を尖らせた。
常に落ち着いて穏やかな冢宰は、桂桂の尊敬する人物一覧で上位に記され変わることがない。
お前に言われたら、桂桂はそれこそ身体を張ってでも止めかねないな、などとぼやけば、「それはつまり、樹に突進なさるのを試みられるおつもりですか」と浩瀚に軽く睨まれる。
「いや、そういうつもりはないんだが。……ええと、とにかく何とかしなくては鞠は落ちてこないし、見つからないだろう」
「長い竿か何かで突くにしても、見えなくば難しゅうございますね」
「うん。桃色の鞠だからかな。失敗した。青とか緑とかの色鮮やかなものにしておくべきだったか」
「そして、緑に生い茂った樹の下で、同じようなことをお悩みになるわけですね」
「……浩瀚は意地が悪い」
「それは失礼を」
拗ねた陽子にくつりと笑んで詫びてみせると、浩瀚は、さて、と検分する目で桜を眺めやった。
「鞠はどの辺りで消えたのです?」
「うーん」
「僕、覚えてます。正面右側、上から見て半分くらいのところ。手前よりの枝の間で……。あ、でも、そこからガサガサ音がしたから、もう少し下に落ちてるかも」
だから、見ていてもあまり役に立たない。と残念そうに言う桂桂に、陽子は慌てて「そんなことはないぞ」と返した。
「なあ、浩瀚」
「はい。よく見ていたな、桂桂。その辺りの枝の様子ならば、おそらく梯子でもかければ簡単に見つかろう」
「持ってこようか」
言えば、浩瀚は、主上にそのようなことをさせるわけには、と苦笑した。
「庭師を呼べば済むことですが。……まあ、面倒ですね」
「面倒……って、おいっ。浩瀚!?」
「浩瀚様!」
別に、梯子を取ってくるくらい自分でやるのに。と思いながら、庭師の姿を探して視線を動かしていた陽子は、面倒との言葉と共に自分の横から浩瀚の姿が消え失せて、焦った声をあげた。
常は端然と構え怜悧な雰囲気を漂わせる自分の冢宰が、その気になれば音も立てず気配も揺らさず動けることも、ひどく身が軽いことも知っているが。しかし。
消えた姿を探して動かした瞳の先。薄紅の花影に、最高位の官のみ纏える衣の色が紛れて消える。
ざわり、と。風で桜が揺れた。
昼下がりの光の中、まるで彼の姿が消えるようで。陽子は慌てて樹に駆け寄った。
桂桂もまた、驚いた顔で樹を見上げている。
「浩瀚様って、木登りもお出来になるんだね」
「器用だから出来ても不思議はないんだが……って、やっぱり不思議だ。何で、あんな動きにくそうな格好で、あんな素早く樹に登れるんだ」
「……そういう問題?」
陽子はといえば、女の子は女らしくを強制された育ちもあり、自力で木登りはしたことがない。使令がついていてくれるならともかく、自分一人では手が出せない。
仕方なく、はらはらと花びらを散らす桜に向かい、「浩瀚?」と呼び掛けた。
知らぬげに、揺れては散る花びら。
その帳へ掛ける声は、我知らず小さくなった。
きゅ、と。勝手に眉根に皺が寄る。
何でもない。……あの男に限って、何事もある筈ない。
言い聞かせるつもりで再度あげた声は、先のものより大きく、そして何故か切迫して響いた。
「浩瀚……っ」
呼ぶ声に応がない。
それだけのことなのに。と思いながら、再度、呼ばわろうと腹に力を込める。
だが、不可思議な胸の閊えを飲み下すより前。
ざざぁ、と。一際大きく風が吹き、花が、枝が、幹が、揺れ。
さぁっと儚い音を立てて、花びらが流れる。
その中に。
まるで花びらに紛れるように、陽子の隣に舞い降りた背の高い影。その姿を確かめようと上げた視界を遮って、尚更に降る花びらの雨。
嫌だと刹那に感じた理由も知らないまま、陽子は溺れる人のように手を伸べた。
「浩か……っ」
「桜を、散らしてしまいましたね」
「……浩瀚?」
舞い散り失われる、今年の花。
留めるように袖を翳した、見知って見知らぬ男の顔。その視線は遠い何処か、陽子には届かぬ場所を眺めていた。
「まだ、時節に早い花も。……あったやもしれませんが」
哀れむように悔やむ口調が嫌だ。
彼の穏やかに柔らかく低い声には似合わぬと、陽子は「そんなもの」と、強く装った声で言い放つ。
「桜の花は、その時期が来なければどんな大風にも耐える。と、私は聞いたぞ」
「……左様にございますか」
ならば宜しいのですが。と返す浩瀚が、桜花に擬えたものが何かを知らない。それが口惜しくて、唇を密かに噛みしめた。
そんな風に揺れる表情を、僅かに困ったような視線が撫でて、けれど何も言われなかった。
「……桂桂」
「はいっ」
「この鞠だろう」
言って幼い子に差し出された右手には、探していた桃色の鞠。途端に桂桂の顔が、ぱあっと明るくなった。
「下から二番目の枝にかかっていた。後もう一息だったのだがな」
「有難うございます! 浩瀚様って木登りもお出来になるんですね」
「外聞が良くないと叱られることが多いので、最近はしないのだがな。まあ出来ぬで何が困るわけでなし。ただ、もし桂桂が木登りを学びたければ大僕に頼るが良い」
「はいっ」
「とはいえ、王宮の庭木に登るは、出来るだけ避けるが良いな。傷めてしまっては、庭師に叱られよう。やはり梯子を借りるが正しい。樹によっては桂桂が一人で梯子をかけるは危ないものもあろうから、止められた時は大人しく庭師に任せることにしなさい」
面倒がって登った私が言っても説得力はないが。と、苦笑して浩瀚が言えば、そんなことないですと、桂桂は勢い良く頭を振った。
「でも、また使うかもしれないし。僕、これから梯子の場所を聞いてきます。鞠が樹を傷めたかもしれないから、庭師の人に謝らなきゃいけないし」
「では、私も謝らねばなるまい」
「でも浩瀚様が直接謝られたら、皆さん、びっくりしちゃいます」
「そうか。それでは申し訳ないが、私の分も謝っておいてくれぬか、桂桂。謝罪を人任せにするは良くないが、桂桂が名代となってくれれば、安心して託せるというもの」
「はいっ」
六官の長の名代という大役を任された桂桂は、頬を赤々とさせて元気よく頷いた。その顔には、鞠を失ってしまった時の悄然とした様子は、もう残っていない。
それに一つ頷いて、「では、頼む」と浩瀚は目線を合わせて言う。ぽんと、右手が温かく桂桂の頭に触れた。
「はい、行ってきます!」
元気いっぱいに返事をして駆け出す桂桂の後ろ姿を、陽子は目を細めて見送った。良かった元気になってというのは実に正直な感想だが、目を向けている方向に何だか逃げているようだとも思える。それが不思議だった。
そこへ、浩瀚の声が降る。
「主上」
「何だ」
「鞠の件は解決致しましたので、そろそろ執務にお戻り頂いた方がよろしいかと存じますが」
「うん」
そうだな、と頷く陽子に、「主上?」と訝しげにも響く浩瀚の声がかかる。その顔が何故か見上げられない。
「……お放し頂けませんと、私も御前を下がれませんが」
「え……?」
言われてそこで初めて、自分の右手がしっかりと浩瀚の左袖を握りしめていたことに気づいた。
成程、それで先刻からこの男は右手しか動かしていなかったのか。と、ぼんやり考えるのは、何だか自分とは切り離されたようにも思える思考だ。
けれど、どうにも指が動かない。
「そんなに驚かせてしまったでしょうか」
「そうじゃない。……そうじゃないと思うけど、何だか」
「はい」
「浩瀚が……。何処かへ消えるように見えた」
ぽつりと。頑是ない子供のような口調で呟けば、「左様ですか?」と苦笑するような声で返された。
「主上の朝も整わぬ間に易々と消えるつもりはございませんが」
「…………」
さらりと言われ、陽子はそこでやっと浩瀚の顔を真っ直ぐに見た。
睨むような翠の瞳に映る男の顔は、先程とは違う。怜悧で冷静で穏やかな、いつもの自分の冢宰の顔だ。
そして彼は、王に偽りを告げない。言わないことはあるけれど。
──だから、言わないことが真実なのか。
「浩瀚は、何処にも行っちゃ駄目だ」
「冢宰府に書類を取りに参りたいのですが?」
「そうじゃなく」
「後程、主上のお助けに参ります。ひとまず今は執務にお戻り下さい。……台輔がまた盛大に溜息を吐かれますよ?」
くすくすと、それこそ子供をあやすように笑む気配。
それでも動かない陽子に、一瞬戸惑うように気配は揺れて、そっと。長い指が柔らかく衣にしがみつく指を解し、外していく。
それはただ振り解くよりも優しいけれど。触れる指は温かいけれど。
なのに何故。と、振り仰いだままの陽子の目に映るのは、やはりいつもの浩瀚だった。
「では、失礼致します」
端然と拱手して背を向ける。その真っ直ぐな姿は、やはり、いつものものでしかないのに。
「……──っ」
陽子は自分の右手を左手で包み込み、ぎゅ、と胸元に抱き寄せた。
留めようとしても、自分の知らなかった体温はただ失せていく。
その分、じり、と。何故だか、胸が焦げた。
そんな陽子の頭上。はらはらと。ただ、はらはらと。
相変わらず、桜だけが舞っていた。
──久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ