反魂花
ネムさま
2013/03/26(Tue) 00:00 No.135
その絵は、使われていない堂室の奥に飾られていた。
偶々前を通りかけた太師・遠甫は、見慣れた緋色に気が付き、開いた扉の外から声をかけた。
「こんな所で、何を為されておられる」
振り向いた景王・陽子は、遠甫とその後ろに附いていた冢宰の浩瀚に頷き、再び絵に顔を戻す。中に入った二人は共に「ほぉ」と声を漏らした。
さほど大きくない絵には、満開の枝垂れ桜の木が、画布一面に描かれている。薄紅より僅かに濃い色の細かな花々の向こうには、瀟洒な館が垣間見え、屋根の淡い緑と空の色が、更に手前の花の色を引き立てる。前に立ち改めて見ると、何故今まで気が付かなかったのかが不思議に思えるほど、柔らかに春めいた絵だ。
「美しい絵ですが…何故そのような難しい顔をされていたのですかな」
遠甫が白い髭をしごきながら問うと、陽子は困ったように唇を尖らせる。
「さっき景麒とこの部屋の前を通りかかって、初めてこの絵に気が付いたんだけど…
私もきれいな絵だから、もっと人目に付く所に掛け直そうと言ったら、景麒が急に捨ててしまった方がいいって、言い出したんです。理由を聞いても教えてくれないし、それで…」
「また、喧嘩別れなさったのですね」
遠甫の苦笑混じりの言葉に、陽子は口をもごもごさせるばかりだった。ふと隣を見ると、浩瀚が絵をじっと見ている。遠甫と陽子の視線に気が付き、浩瀚はやや躊躇いがちに口を開いた。
「この奥に描かれている館は、多分呀峰が予王に贈った村にあったものです」
その話は二人とも耳にしたことがある。前和州候であった呀峰は、美しい村を丸ごと一つ予王に献上し、その地位を得たと言う。そして政務に倦んだ予王は、作り物の村から出るのを厭い、その治世をいよいよ縮めたのだ。
「景麒には辛い思い出の絵だったんだ。私はまた」
そこで言葉を止めた陽子に、遠甫の問うような眼差しが向けられる。陽子は「大したことではないんだけど」と言いながら、絵の上の隅を指差した。
絵に描かれた枝垂れ桜は籠を伏せたような形で画面を覆い、その籠の外側の曲線と、額の隅の僅かな間には、金泥が塗り込められている。左右上方の金の空間を指して、陽子は言った。
「景麒が出て行った後、もう一度よく絵を見ていたら、あの隅の金色を塗り込んだ部分に気が付いたんだ。本当はこの桜の木の上も青い空が広がっているはずなのに、これだと、まるで桜の木の下だけが外から切り離され、閉じ込められているように見えて、何だか怖くなってきた。
景麒もそんな感じがして嫌がったのかも、なんて考えたりしたんだ」
苦笑しながら言う陽子に、遠甫は軽く首を振った。
「どちらにしろ、台輔の心情を思うと、この絵は外した方が良いでしょう。
ところで浩瀚、これを描いたのは誰だね」
急な遠甫の問いに、浩瀚は暫し己の記憶を探っていたようだが、思い当ったらしく顔を上げた。
「前の宮廷絵師です。元々は予王の実家に出入りしていた絵師で、予王の登極と共に宮廷に召し抱えられました。
かなりの数の作品を描いたはずなのですが、予王崩御の後、絵師は全ての絵を燃やし姿を消したそうです」
「これだけが残っていたのか」
遠甫は改めて絵を見上げていたが、また陽子に笑いかけて言った。
「主上はもう仕事に戻られるお時間でしょう。台輔は私が探します」
浩瀚も苦笑しながら若い王を促し、三人は堂室を後にした。
闇の中、景麒は滑るように歩を進める。時に外の篝火が金の髪を一瞬煌めかすが、すぐに夜の帳の中へと溶け込んでいく。
堂室の扉を開ける前、床から白い影が浮かび止めようとしたが、景麒は声も出さずに裾を強く翻すだけ、そのまま室の中へ体を滑り込ませた。
闇に閉ざされた堂室の中を、景麒はまるで見えるかのように、迷わず奥へと歩む。しかし室の中程で急に足を止めた。視線の先は闇。だが景麒の耳には、昼間聞こえた、そしてもう聞くことのないはずのあの音が、確かに聞こえる。
― とん からり … とん とん から… ―
景麒の顔が歪む。かつて、宮の奥から、あの村から聞こえた音。
― とん とん からり ―
「… 何故です 」
― とん からり ―
「貴女はご自分から禅譲なされた。慶には既に新しい王がおられる。なのに何故」
― とんとん からり とん からり ―
「もう、そのようにして機織りに逃げることはない。政からも民からも、どうしようもなく遠くへ逃げておしまいになられたではないか」
― とん からり ―
いつの間にか、景麒の前に、枝垂れ桜の絵が浮かんでいる。それは予王が逃げ込んだ村に聳えていた木。春にはその花の籠の中から、予王の機織りの音を聞き、深く溜息を吐いていた。
「今になって、何故このような所におられる。そして何故、私をお呼びになられる」
― とんとん からり とん からり ―
聞こえるのは機の音だけ。景麒の手は強く握られ、震えている。
「貴女はいつもそうだった。私の言葉に答えてくれない。民の声に、私の願いに耳を傾けてくれない」
― とん… から… とん… ―
「一緒に逝かせてほしいと言った、あの最後の願いさえ、聞きいれて下されなかった!!」
― とん … ―
突如、闇に浮かんだ花々が、一斉に舞い上がった。凄まじい風が堂室に吹き荒れ、しかし景麒は誰かに引き倒され、突然の花嵐に巻き込まれずに済んだ。
やがて堂室内は静かになり、景麒は自分を呼ぶ声に、顔を上げた。
「台輔、申し訳ありませんでした」
遠甫の心配そうな顔が見下ろしていた。
「絵に呪が掛かっていることには気付いたのですが、どのような類のものかを調べるのに手間が掛かりました。分かった時には、既に、台輔は仁重殿からお出になられた後で」
床に伏していた体を起こそうとした景麒を、後ろから支える手があった。振り向くと、やはり済まなそうな顔をした浩瀚だった。
「私が甘く見ていたのです。太師に言われても、反魂の術など有り得ないと、絵を片付けるのを後回しにしていました。まさか、これ程強い念を戻す呪があるとは…」
「反魂の呪…」
はっとして、景麒は周囲を見回そうとした。しかし遠甫の静かな声が止めた。
「確かに、亡くなった人と縁のある品へ、その人の残した想いを宿らせる術はあります。
しかし、それは“念”であり、その人自身である“魂”ではありません。それでも台輔の真のお言葉が、予王の“念”を、この世への執着を断ち切ったのです」
暫し呆然としていた景麒は、やがてぽつりと言った。
「執着と言うなら、私のこの気持ちは何でしょう」
白い顔を隠す金の髪が揺れる。
「私は、私を置いて行ったあの方が許せない。今でも思い出すと、辛くて叫びそうになる。他の者なら許せるのに」
そして消え入りそうな声で呟いた。
「こんな想いを抱えている私は、本当に麒麟なのでしょうか。
私がこんな麒麟だから、あの方は…」
不意に、景麒の両の肩に、暖かな手が置かれた。何も言わず遠甫が、景麒を見つめている。そしてゆっくり顔を横に振る。紫水晶の瞳からするりと涙が零れ落ちた。
「主上も、台輔の姿が見えず、心配されていましたよ」
浩瀚が景麒の体を抱え起こす。
「戻りましょう。我らの主上の元へ」
景麒は小さく頷き、浩瀚に支えられながら、堂室を後にした。その後ろから遠甫は扉を閉めかけ、もう一度中を見た。
奥の壁にはぼろぼろになった絵が掛けられ、その下の床には、花弁のように顔料の欠片が散らばっていた。
桜が咲いている。周囲は若い緑に包まれ、目の前の池にも、明るい色彩が映し出されている。孫達を探しに来た老人は、一瞬用事を忘れ、春の空気を思い切り吸い込んだ。
ふと振り向くと、孫達が大きな枝垂れ桜の木の、すぐ傍らにいるのが見えた。近寄ってみると、そこには見知らぬ男が一人、草の上に座り込み、孫達はその男の脇から何かを覗きこんでいる。
「おじいちゃん、お城だよ」
老人に気が付いた孫娘が、手を引っ張る。見ると、男は草の上に紙を広げ、絵を描いている。そして画面には、傍らの大きな枝垂れ桜と、その花に見え隠れする瀟洒な館が描かれていた。
「お前さんは、前の王様に関係する御方かね」
老人の押し殺した声に、男はゆっくり顔を上げた。身なりは窶れ、顔は髭に覆われ年齢も分からない。しかし見上げた瞳は穏やかだった。
「ここは前の王様のお宮があったが、今の王様の世になって壊された。
今はただの廃墟で皆忘れているが、前の王様をよく思わん奴も多い。昔の風景なぞ、描くのは止めた方がいい」
「じいちゃんは、お宮を見たことがあるの?」
上の孫の問いかけに、老人は我に返り、慌てて孫の手を掴んで男から離れた。
孫達は驚きながら小走りに付いて来たが、急に老人の手を掴み返した。
「おじいちゃん、あっちの方から、何か聞こえる」
孫娘が枝垂れ桜の方を指さした。
「機の音みたい」
上の孫が呟く。しかし老人の耳には何も聞こえない。辺りを覆うような桜の籠の向こうには、ただ新緑の森が広がるばかり。
老人は孫達を促し、枝垂れ桜の木から離れて行った。そして残された男は目を瞑り、耳を澄ます。吹く風が密やかな音を乗せてくる。
… とん からり とん とん からり とん …
― 了 ―