国 境
ネムさま
2013/05/06(Mon) 22:58 No.406
采王・黄姑を乗せた輿が高岫山の門闕を通り抜けたと同時に、その前後から声にならぬどよめきが広がった。輿の背後に付き添う青喜も思わず息を吐きかけ、慌てて口を結び、気を引き締め直す。そして迎えの官吏の導くまま、彼も国境を越え、範への一歩を踏み出した。
黄姑が範を訪問したいと言い出したのは、その治世が一年余過ぎた頃だった。朝議は一瞬沈黙し、その空気を払い除けるかのように、黄姑が傍らの青喜へ笑って問いかけた。
「貴方もあの“言い伝え”を信じているの、青喜?」
黄姑の言う“言い伝え”とは、他国では“遵帝の故事”と呼ばれ広く知られていた。六百年程前、才の遵帝は隣国・範の民が自国の王の暴虐に苦しむのを助けようとして王師を向かわせ、その結果天帝より斎麟共々非業の死を賜った、と伝えらえている。“武をもって他国を犯してはならない”という教えは、しかし当事者達には、より即物的かつ深刻な形で残ってしまった。
「確かに“才の王が範の地を踏むと命を落とす”などという話は馬鹿げていると思います。それに準ずるかのように、才の荒民まで範を避けて白海を渡ると言われれば、範の民も朝も面白いわけがありませぬ。しかし…」
「でも、今だからこそ“馬鹿げた言い伝え”を覆す機会ではないこと?」
黄姑の言葉に、青喜を始め皆はっとした。
前王が禅譲し、それから殆ど時を置かずして、采麟は黄姑を王に選んだ。黄姑の人柄は広く知られ、彼女の即位はおおむね好意を持って受け入れられたが、全ての民、官吏が納得しているわけではない。前王・砥尚は志は高くとも、その失政は明らかだった。その砥尚の育ての姑であり、三公の一人であった黄姑が王になるということは、そのまま政も変わらないのではないかという、不信と侮りが一部に根強く残っている。この停滞感を拭うには、確かに大きな“何か”を成すことが効果的だ。
「だからと言って、何故、範へ」
それでもつい心配気に呟く青喜に、黄姑は少し寂し気に微笑んだ。
「砥尚が憧れていたの。目ぼしい産物の無い国を技のみで大国に立てた氾王のように、自分も才を豊かな国にしたいと…」
朝議の席に先ほどとは違う沈黙が降りた。
整然とした、しかしどこか風情のある範の国境の街並みを抜け、采王の行列は休憩所である大きな舎館の前で止まった。輿から下りた黄姑と共に青喜は園林の路亭に通された。風雅な建物の傍らには花を付けた木が二本、寄り添うように立ち並んでいる。どちらも桜のようだが、一つは大ぶりの白い花弁が若緑の葉に映え、もう一本の木の枝には小さな薄紅色の花が赤茶の葉に隠れるように咲いている。どちらも少し盛りを過ぎたようで、たまに吹く微かな風に花弁が一枚二枚と舞い散り、なだらかに見下す範の景色に、春の彩りを添えている。
煙るような春の光を背に、一人の麗人が立ち上がった。
「氾王・呉藍滌様でございますか。才国国主・中慎思と申します」
黄姑が本字を言い礼を取ると、しかし氾王・藍滌は会釈もせず、傍らの箏を示した。
「采王は琴の名手と聞き及んでおりまする。是非一曲お相手願えませぬか」
さすがに青喜の頬が朱に染まった。仮にも一国の王が他国を訪れたのに、休ませもせず、いきなり楽を奏せよとは―
「…しばらく音曲からは離れておりましたが…それで宜しければ」
しかし黄姑は穏やかに言い、箏の前に腰を下ろした。
まずは黄姑の指が絃を滑り、それに応じて藍滌の箏が鳴る。春の景色を寿ぐその曲は青喜もよく知るもので、久しぶりと言った黄姑の指の動きも滑らかで、周囲にも安堵した空気が漂った。
突然、曲調が変わった。藍滌の独奏部分だが、明らかに即興で、素人の耳にも高度な技巧を駆使しているのが分かる。やがて黄姑の箏が重なるが、藍滌の楽想と箏の腕に付いて行くのが精一杯という風で、ついには途切れるように、または振り切られたように、いつしか藍滌の箏の音のみが園林の空間を支配していた。
一時、藍滌の箏に忘我していた青喜だが、はたと黄姑に目をやると、小柄な老婦人はただ静かに範の王の演奏に聞き入っていた。確かに藍滌の箏の腕前は見事だが、青喜にはそれが、現在の才と範の差を現わしているようで、もう酔うことが出来なかった。
古の言い伝えの王は非業の死を遂げたが、それは彼の高潔な人格と才の国力を示す逸話でもあった。しかし、かつて情けをかけられた範は、今や十二国中第三の大国となり、才は二代の王の失政から抜け出せないままである。これで“言い伝え”は覆されたが、そこには厳しい“現実”が新たに示されていた。
青喜はふと二本の桜の木に目をやった。大きな白い花と、小さな薄紅色の花が切なく映った。
最後の一音が鳴り響いた ― と皆が思った時、まるで最後の一滴を掬い上げるかのように、絃の音が聞こえた。
ぽん、ぽん、と遊ぶように一音二音と跳ねた後、それは柔らかに曲となって流れ出した。先ほどの超絶技巧の華麗な曲とは全く違う、朴訥として、けれども丁寧な穏やかな音色だった。
気付くと箏の音は二つになっていた。黄姑の奏でる音に、藍滌の箏が静かに寄り添っている。見えない音を追うように明るい方へ目を向ければ、白と薄紅の花弁が箏の音に乗るように風に舞い、その向こうには、西に傾き始めた春の陽を湛えた街々と山並みが遥かに広がっていた。
周囲の拍手が鳴り止むと、藍滌は立ち上がり、黄姑に尋ねた。
「何故、途中で止めた曲を続けられた」
黄姑も立ち上がり、長身の藍滌を見上げるように、しかし背をすっと伸ばして微笑んだ。
「これほどの景色を用意して下された方に、技量不足と言えど、恥じてばかりで何もお答えしないのは、却って失礼になりましょう」
思いがけず藍滌の端正な顔に笑みが浮かんだ。
「貴女のようなお方が隣人で、ほんに好かった」
黄姑もまた微笑み、そして改めて礼を取る。
「二人の才の王 ― 古の遵帝と、前王と、共に範の国へそれぞれ思いをかけておりました。この地を踏めましたこと、心より嬉しく存じます」
「こちらこそ。行く末永う、友誼を結びましょうぞ」
氾王・藍滌は優美に頭を下げた。
― 了 ―