春山の一夜
ネムさま
2013/05/29(Wed) 23:36 No.615
古今東西、学生と名の付く者は集って馬鹿をやる、と決まっているようだ。
雁国首都・関弓山の山腹に穿たれた大学の学寮からは、凌雲山に連なる山々へ登ることが出来、厳しい勉学の合間に学生達は理由を作っては、散策に、または体力任せの運動に出かけていく。
そうした山の一つに、山頂が丁度平らな岩山があった。かなりの広さがあり、何より春、市街の花が終わった後に岩山のすぐ下の森が、遅咲きの桜で薄紅色に色づくのだ。当然、岩山の上は酒宴の場となり、毎年酔った学生が一人か二人落ちるという、不穏な噂まで出回っている。そして不穏な噂ほど挑戦したがる者が出るのである。
楽俊はその小さな両手に酒杯を抱え、ふっと溜息を吐く。目の前では焚火の火が勢いよく爆ぜ、天空の半分より少し痩せた月が靄って見えた。
「今夜、岩山で花見の宴を開くから、お前も来い」
鳴賢から唐突に誘われ、断る間もなく夕闇迫る山道を這い上り、焚火を燃やした頃には辺りは暗闇、崖淵から下の花を覗くことなど到底出来ない“花見”となった。
それでも同行の学生達は火を囲んで飲み騒ぎ、楽俊も楽んではいたが…
― それにしても、どうして、この人が来たんだろう ―
楽俊の視線の先には、焚火の傍らで皆に囃され、歌い踊る男の姿があった。
酒宴が始まってから間もなく、突然頭の上から
「楽しそうだな。俺にも飲ませてくれないか」
と、太い男の声が降ってきた。
すわ、人語を操る妖魔かと、皆が一瞬固まった時、楽俊の尻尾がぴんと撥ねた。
「延…いや、貴方がなんで…」
「久しぶりだな、楽俊」
鼠姿の友人が、宙に止まったスウグに乗る男と親しげに話すのを見、学生達は一斉にへたり込んだ。そして情けない姿を取り消すかのように、鳴賢がやおら胸を張り、男に言った。
「俺達は下から自分の足でここまでやって来たんだ。空から楽して来たのなら、芸の一つもしなきゃ、酒なんかやれないね」
「なるほど。それも道理だ」
男は笑いながらスウグを下ろし飛び降りると、ゆったり焚火の傍までやって来た。そして一息おいて歌い出した。
〜 舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば
馬の子や牛の子に 蹴させてん 踏み破らせてん 〜
よく通る大らかな声に、どこか異国を思わせる言葉を乗せながら、男は歌い、すこしおどけた振りで舞う。その姿を皆しばし呆気にとられ見ていたが、しかしすぐにやんやと喝采を浴びせた。
一曲終わり酒を飲むと、それから男は学生達の掛け声に乗って、次々に歌って舞い、また酒を飲んだ。知らぬ土地や品揃え歌から男女の恋歌、果ては恐ろしげな女の妬心を妙なしなを作って歌うものだから、学生達は大いに盛り上がった。ただ楽俊だけは、男が酔ってよろめく度に、崖から落ちないかと、尻尾と髭をぴんぴん撥ねていた。
― それでも、やっぱりこの人はすごい ―
何度目かの硬直から立ち直ると、楽俊は改めて男を見た。
一見、男が学生達の悪乗りに乗せられているかのようだが、今や酒宴は男を中心に回っている。学生達は男の一挙一動に魅せられているのだ。
楽俊はふと、隣国にいる友人のことを思い出した。鮮やかな緋色の髪と翠の瞳を持つ友人は、しかしその姿形でなく、気が付くと目を離せない何かを身内に持っている。ただ一人、浮かび上がるのだ。
― 王というのは、こういう存在なんだな ―
楽俊がしみじみ思ったその時、山の下から夜風がざっと吹き上がった。火が天へと伸び、見ることの出来なかった桜の花が、花弁となって皆の周囲に降りかかった。
〜 遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや 生まれけむ
遊ぶ子どもの 声聞けば わが身さへこそ 揺るがるれ 〜
闇の中、爆ぜる火の明かりに、男と花弁だけが浮かび上がる。一瞬、楽俊の目に、虚空と地上を男がただ一人で繋いでいるように見えた。
はっとして楽俊が顔を向けると、男と視線が合った。男は全てを見通しているかのように、くつりと笑った。
「おいらも踊ります!」
突然立ち上がった小さな友人に、皆は驚いた。一番驚いているのは、どうやら言上げした本人らしいが、座る隙を与えず男が中央に引っ張り出し、周囲もすぐに手拍子を始めた。
〜 春の初めの 歌枕 霞 鶯 帰る雁
子の日 青柳 梅 桜 三千歳になる桃の花 〜
楽俊は男を真似して手振り足踏みしようとするが、手足がばたつくばかり、周囲の笑い声にますます体の動きが可笑しくなる。すると男がひょいと耳打ちする。
「ただ楽しめ。顔を上げて自由に跳ねていればいい」
ふいと力が抜けた。そして気が付くと、いつの間にか尻尾が拍子を取っている。身内から楽しさが沸きあがってくる。楽俊は思いっきり跳ねた。
「よーし、俺も踊るぞ」
鳴賢の声を合図に、皆次々と立ち上がり、踊りながら焚火の周囲を巡りだす。地面には、妖魔も驚きそうな不思議な動きをした影が、炎に合わせて伸び縮みしている。その中で、楽俊はまた男に目を向けた。男は輪の中で、心底愉快そうに笑っていた。
〜 春の名残の 花の宴 謡 浮かれ女 醸す酒
舞うは 深山の 遅桜 回るは 酔い人 天の月 〜