桜の樹の下に
ミツガラスさま
2014/03/25(Tue) 08:20 No.80
正に花盛り、といった大木の桜の樹を前にしても陽子は「ああ、咲いてるな」という感想しか湧かなかった。
今の陽子は空虚で無気力だった。
「桜が咲き始めましたね」という浩瀚の報告にも「そうか」と一言応えるだけだった。何時もならソワソワした気分になって気の置けない仲間との花見の計画を依頼するのだが。
浩瀚は陽子の気持ちを汲み取ったのかそれ以上追求しない。このそつの無い男は今はそっと見守るべきなのだと瞬時に判断したのだろう。
それでも陽子は政務を何時もの通りにこなす。王様稼業に慣れた身には造作も無いことだ。
だが桜が満開に近づくにつれ、皆心配気な目を向けているのに嫌でも気が付く。祥瓊は直接的に触れて「たまにはサボって何処かに行くのも悪く無いんじゃない?」とまで勧めてくるほどだった。
だが乗り切れない。
(ああ、ここらでお仕舞いなのかな)
陽子は桜の樹の下にストンと腰を下ろして頬杖をついた。ぼんやりと景色を眺める。一面桜だけのこの園林は見事なものだ。時折風が吹いてさわさわと音を鳴らして花弁が舞い散る。幻想的で優美な景色は涙が出る程心をくすぐるものであったのに――
何があったわけでも無い。不満も無い。このまま何処と無く無気力がこの金波宮に蔓延し、ゆったり、ゆったりと終焉を迎えるのだろうか。
勿論それを積極的に望んではい無い。
暴虐も混沌も不幸も見たいわけでは無い。
そんな事の為に動く気力も持ち合わせてはい無いのだから。
(いっそ、サッパリ終わらせた方が良いのだろう。便利なシステム、禅譲が残されているではないか)
陽子はそうと決めると、その前にしておくべき事を頭の中で整理し始めた。最低でも立つ鳥跡を濁さず、といった精神は持ち合わせていたかった。
有難い事に有能で志の高い官吏は浩瀚を筆頭に大勢揃っている。今なら仮朝を支える人材は問題無く財政にもある程度ゆとりはある。裁可の必要な案件は多少残されてはいるがそれも仮朝に任せて問題無いはずだ。後必要な物――自分の墓だろうか?大業な陵など建設してもらう必要を感じていないが、決めておかないと手間をかけるに違い無い。
(よし、墓を作ろう)
陽子はそう思い立ち、目の前の土を掘り始めた。
最初は手で掘り、次いでそこらに落ちていた太めの枝やら石で掘るがそう簡単に人一人入る大きさの穴など掘れるわけが無い。
(――やっぱり道具がいるな)
滲み出した汗を泥だらけの腕で拭い、陽子は庭師を探すと声を掛け円匙(シャベル)を借受けた。勿論庭師は驚き狼狽していたが、王の命に逆らうわけにもいかない。陽子は頓着せずにまた桜の樹の下を掘り続ける。桜の樹の下には屍体が埋まっているのだと蓬莱で耳にしたことを思い出し、丁度良い場所だと思う。一番好きな花の下で眠るのも悪くは無い。
ある程度掘った処で手を休め穴の中に入り座ってみる。大きく掘れたと思った穴は存外小さく陽子の頭はまだ収まり切らない。
陽子は土の壁にピッタリと背を付け首を竦めて手足を丸めてみた。ひんやりとした土の感触と泥臭い匂いが鼻腔をくすぐる。汗ばむ身体に一息入れて目を瞑る。陽射しは暖かいが風はまだ少し冷たい。陽子は暫くそのままに身を落ち着けた。
「――何をなさっているのですか」
突然頭上からかけられた声に陽子はパチリと目を開けた。目前には陽子に合わせて身体を屈み込んだ浩瀚がいる。少し困惑を交えた声だが、常の怜悧な顔であり、何時もの通りに気配を感じさせずに近づいていた。
まさか自分の墓を掘っているのだと告げるわけにもいかず、陽子は無表情のまま立ち上がる。
「落とし穴を作っていた。お前を落としてやろうと思っていたのに残念だ」
「落とし穴――」
鸚鵡返しに言葉を返す浩瀚に、自分は乱心したかと思われただろうかと一瞬思うが、当たらずとも遠からずだと陽子は気にせず更に深く掘るべく工具を手にする。が、浩瀚は陽子の手を取った。やはり止められるのかとうんざりと振り向いた瞬間に「変わりましょう」と至って真面目な顔で浩瀚は告げた。意外なその言葉に陽子は暫し動けず口だけを少し開閉させたが、両腕の疲れをそこで思い出した。
「頼む」
短く応えて円匙を手渡す。浩瀚は頷くとリズム良く穴を掘り出した。
(――なかなか上手いな)
何事にも有能な男は穴掘りまで上手いと妙な感心もうんだ。
「――で、拙の代わりに誰を落とすのですか?」
「あ?ああ――」
落とし穴だと告げた事など失念していた陽子は言葉を詰まらせた。
「えーと、まあ、やっぱり景麒だろうな。彼奴に気が付かれない様な落とし穴は作れるか?」
馬鹿な質問を口から滑らしていると思うが、主の墓穴を掘らしているなどと気付かれるわけにもいくまい。浩瀚は淡々と掘り進めながら「使令も気が付かない穴となると難しい作業ですね」とやはり生真面目に返して来る。陽子はそれにも適当な生返事で流すと、土を掘る小気味好い音だけがその場に響いていた。
「浩瀚様…主上…何をなさっておいでですか?」
「やだ、二人とも泥だらけよ?」
桜の樹々を縫って現れた桓たいと祥瓊は驚愕と不信もありありの声で泥臭い二人を見咎めた。
陽子はチラリと首を捻るが面倒で説明する気にもなれない。浩瀚は曲げて居た腰を伸ばすと円匙を桓たいへと差し出した。
「丁度良い時に来た。案外地面が硬く掘り進めるのに難儀して居た。変わってくれ」
穴は浩瀚の腰丈程に掘り進められて居たので陽子は自分の墓穴にはそろそろ充分でないかと思うのだが、言い出すわけにもいかず交代する男達を黙って見守る。困惑を隠せない桓たいも掘る作業を続けるうちに興が乗って来たのか無駄話を交えながらも力強く土を掘って居た。
陽子がぼんやり見守る間に祥瓊はテキパキと身を清める小道具を用意して居るし、後方からは藁やら水の入った桶片手に近付く虎嘯に夕暉と蘭桂も居る。
どうやら皆本気に本格的な落とし穴の作成の為に集められた様だ。
(…金波宮重鎮達が集まって何やってんだか――)
陽子は自分がきっかけのくせに呆れた心地で集まった皆を見る。彼等は台輔にも使令にも気が付かれない落とし穴という命題を真剣に取り組む様だ。
「主上、これ位でどうでしょう?」
何人目かの穴掘り交代要員の蘭桂が陽子を呼んだ。パチリと目が合った泥塗れの蘭桂は得意そうに微笑んで居る。
大昔、まだ桂桂と呼ばれて陽子の養い子だった時分に二人で落とし穴を作ったことがある、と陽子は思い出した。その時は結局誰も引っかからなかった気もするが。
(――あれはどの辺りに作ったのだったか――)
今覗き込んだ落とし穴はその時に比べて随分大きく立派なものが出来て居た。へえ、と思わず感心するがはっと思い直す。
(――いや、これは私の墓穴だったはずなのに、全く皆余計な事を――)
「…ちょっと入ってみてもいいか――」
穴から這い出た蘭桂と交代に陽子はそろりと穴に入る。立ったままだと陽子の肩位まで掘られて居た。広さも案外大きく、ゆったりとしゃがみこめる。やはり穴は暗くジメジメと湿り土の匂いがツンと鼻を刺す。
だが先程自分だけで作った時の穴よりずっと落ち着く心地がした。
(そうだ、私の空っぽのこころは、こんな感じだった――)
空っぽのこころの穴が具体的な形となって自身を包み込んで居る――何がどう、と説明出来るわけではない感覚が心を満たす。目を瞑りほう、と息を吐き出した。
その時、わあ、と言う皆の声が頭上から聞こえて頭を上げた。突風が地上に吹いて来たらしく、桜がざわりと空を舞う。
青い、青い空一面に桜の花弁が吹き荒れて世界を薄桃色に変えて居た。次いで沢山の花弁がくるくると回りながら穴の中の陽子の処まで落ちて来る。
見上げた景色は美しく眩しくて陽子は思わず手を伸ばす――
「主上、何をしておいでですか」
掴まれた手と共にかけられた声は景麒のものだった。
「――景麒…」
引っ張り上げられた陽子が見た物は和やかに微笑む皆の顔と相変わらずの仏頂面の景麒だった。
男達は皆泥だらけで先程の風のおかげか花弁が可愛らしく所々を飾っていて滑稽だった。それは、恐らく陽子も同じ様な姿なのだろうと自然と笑いがこみ上がる。
「…計画は頓挫だな」
「は?何の計画なのですか?」
意味のわからぬ景麒は訝しんではいるが、実際、本当の陽子の計画など誰にも分からぬままとなったのだ。陽子は尚も軽やかに笑っていた。
「皆さーん!お疲れ様。お飲物をご用意致しました」
穏やかで明るい鈴の声がかかり、皆が振り返る。鈴の手には男達が欲して居たであろう酒類と酒の肴があり、わっと群がり場が賑わい始めた。
一転穴掘りは、なし崩し的に花見へと姿を変える。
「で、陽子、この穴どうするんだ?」
猪口を片手に虎嘯が聞いた。
美しい桜園にこの大穴はどう見ても不釣り合いだ。埋めてしまえ、と陽子が言い出す前に蘭桂が提案する。
「たいむかぷせるは如何でしょう?」
その懐かしくも意外な蓬来の言葉に陽子は目を丸くした。
「主上、覚えておりませんか?幼い頃二人で落とし穴を作って、やはり誰も引っかからなかったことを。その時、埋め直すのに折角だからと、たいむかぷせるを一緒に埋めたでしょう?未来への手紙を入れて百年後に見るのだと――それが今年丁度百年目なのですよ」
(ああ――そうか――)
あの時、どんな気持ちで居たのか箱を開けずとも陽子ははっきりと思い出すことが出来る。
未来へ、未来へと思いを馳せて居たあの頃を――
蘭桂の提案を陽子は受け容れた。
「主上、本当に円匙だけで良ろしいのですか?」
思い思いの品を用意した皆の中、陽子が入れると決めたのは先程まで使用していた円匙だけだった。何の思い入れもなさそうなその品に景麒は首を傾げる。
「ああ、悪いが庭師には新しい物を用意してやってくれ。多分――百年後の私にはきっとこの意味が分かると思うんだ」
晴れやかに笑う陽子の姿に迷いは無い。
桜の花弁は埋められた穴の上にもさらさらと舞い降りて居た。