春夜
さらこさま
2014/04/06(Sun) 23:40 No.260
雁国は関弓の玄英宮。
その庭園にある古木に、見事な薄紅の花が滝となって流れている。
夕闇が迫り、まさに夜にならんとする頃合い。
ちらちらと風に舞い始めた桜の花弁が、するりと濃紺に染まりつつある空を舞う。
盛りの花を眺めていると、低く吟ずる声がした。
燭を背けては 共に憐れむ 深夜の月
花を踏みては 同じく惜しむ 少年の春
ぴたりと背後で止まった足音に、陽子は振り返った。
そこにはこの宮殿の主が、妙に真面目腐った顔をして立っていた。
「・・・その詩は、漢詩ですか?」
「何だ、そなたも知っておるか」
「なんとなく、憶えがあるような気がします」
言って、陽子は首をかしげた。
有名な詩の一節だったようには記憶している。
もう、遠い過去になってしまった夢のような世界で、いつどこで聞いたのか、見たのか・・・
学校の教科書に乗っていたような気もするし、もっと別の小説か何かで目にしたような気もする。
印象に残っているということは、少々インパクトの強い何かがあったのだろうけれど・・・
「白居易の詩だな」
「・・・白居易?」
「白楽天ともいう」
「あ、そうか。清少納言なんかの・・・」
楊貴妃や香炉峰の雪の話が出てくるのは枕草子だったと思う。
でもその詩は違ったような・・・
「その、何とか言うのは知らんが、和漢朗詠集だな」
「和漢朗詠集?」
「和歌と漢詩の中から吟ずるに適したものをまとめたものだな」
「陽子、あんまりまともに取り合うなよ。どうせ女にもてるからってだけで知ってるだけだぞ」
背後から駆けてきた六太が、調子づいている主の頭をはたいたのに笑って、陽子は目の前で揺れる花枝を眺める。
すっきりしたようで納得できない微妙な違和感。
それは今の状況に起因しているような気もして、ふと一度閉じた目を開いてみた。
舞い散る桜。
宵に浮かぶ月。
妙に格好つけた男。
そして、親しげにまとわりつく少年・・・
「あっ、そうか。そういうことか」
はっと気付いた陽子は立ち上がり、花簾をくぐって座り込んでいた樹下から出た。
仲良くじゃれている主従を見やり、うんうんと何度も頷くと、少しばかり頬を赤らめて、そそっと距離を取る。
「うん?どういうことだ?」
「・・・陽子?」
「いや、なんでもない。何でも・・・ないです」
明らかに動揺した風の陽子に、主従はそろって首を傾げるが、彼女は曖昧な微笑みを浮かべたまま、ごゆっくりといい置いて宴席が設けられているほうに足を向ける。
「何だ?」
「さあ? おまえが変なこと言ったんじゃねぇの?」
「古い漢詩の話はしたが、妙なことは言ってない」
「それが変なんじゃねぇの?」
六太はあからさまに不信の眼を向けたが、尚隆は尚隆でいらんことを言ったのはお前ではないかと睨みつける。
一方、パタパタとその場を逃げ出した陽子は、庭園の中ほどに設けられた宴席にご相伴していた楽俊の隣に滑り込んだ。
なんだか、さっき突然に思いだした記憶が、目の前に出現した風景と相まって、ドキドキが収まらない。
「陽子?どうしたんだ、そんなに慌てて」
「いや、別になんでもないよ」
「・・・なんでもないって顔じゃねぇよなぁ」
「ちょっと、延王たちが仲良さそうだったから遠慮しただけ」
なんか、こりゃ絶対にとんでもない勘違いをしてるんだろうな、と楽俊は思った。
思ったが、こういう顔をしている時の陽子に構うとロクなことがないのを学習している彼は、黙って関わらないことにした。
普段は女らしさのかけらも見せないくらいにぶっきらぼうだったりするくせに、時々こうして妙に乙女な顔をすることがある。
そわそわ、きょろきょろして、思いを共有する同類を探そうとしているそれは、王の顔よりよほど危険だ。
近くにいると、なんだか怖い。
殺気だっているときよりも、別種の怖さがそこにあった。
楽俊は、ごにょごにょと呟いている陽子の言葉を、全部聞かなかったことにした。
友情のためにも、雁国主従のためにも、世のすべての男たちのためにも、聞かない方がいいと判断した。
「しょ、少年の春って・・・・」
深夜に月を眺めたり、花を踏んで惜しむって・・・
やっぱ、どう考えても、そういう意味だよね・・・
そういう関係って意味だよね?
「・・・・」
それ、絶対違うと思う。
口の端に上りそうになる言葉をぐっと飲み込むために、楽俊は目の前にある盃を思い切り傾けたのだった。