崑崙のほとりにて
ネムさま
2014/05/24(Sat) 23:10 No.770
「桜?」
泥濘に散りばめられた小さな薄片を見つけ、広瀬は思わず呟いた。
白い霧が小雨に変わり、苔と樹木に覆われた岩壁が、徐々に姿を現し始める。顔を振り仰ぎ目を凝らすと、広瀬の頭一つ分高い、右脇の岩棚の上に、薄紅を含んだ白い花を葉陰に宿す木が一本。しかし木肌はささくれ、木自体の姿は何かに耐えるようにひしゃげている。日本で見慣れた桜の、堂々たる大樹とは全く違う。花もよく見れば、かなり小振りで、桜とは似て非なるもののようだ。
― それでも、この色形だけで“桜”と言ってしまうのは、やはり日本人だからなのか ―
進んで日本を離れた自分なのにと、広瀬は溜息のような苦笑を漏らした。
中国のこの山深い里へ来てから、既に三月。昨年入社と同時に大陸の僻地への資源調査団に同行させられてから、一度も日本には戻っていない。
大学最後の半年間が行方不明状態で、卒業、就職したなど悪運が強すぎると、恩師の後藤に言われたものだが、さすがに最近の便りでは体の心配など、殊勝なことを書いてくる。でも広瀬自身に悔いは無い。
全く言葉の通じない世界に来て、広瀬はようやく今までの帰郷願望が“逃げ”だったと納得した。ここで何かを得るためには、全身で訴え、相手の言うことを理解しないと、先に進めなかった。それが仕事だけでなく、日常生活に関わる事までなので、諦めるわけにはいかない。生まれて初めて、日本と家族が恋しいと思った。
やがて―自分が懸命に話を聞こうとすれば、言葉が多少通じなくても、相手も語ろうとしてくれることに気が付いた。そして中国の山々を転々とし、雪解け前に赴任した、岩山が連なるこの里にも大分慣れてきた。
里には日本語を話せる老人がいた。話すと言っても教わったのは大分昔という事で、かなり怪しげなものだが、それでも広瀬達日本人にとっては有難かった。
里人達は日本の調査団に協力的だったが、ある山に入る時だけは、同行を断った。お宝でもあるのかと笑って調査に入ったが、特に使えそうなものは無く、調査の対象は別の山へと移った。ただ広瀬だけが、休みにその山へ行こうとして、老人に呼び止められた。
「…人が作ったような道があるんです」
その山は岩と、岩に根を這わせた樹木と苔で出来ている。他の山々と同様、獣道や風化して出来た窪み等の自然の道もある。
「でも所々に、不自然に薄い石が重なった壁や、急流の上に倒れた岩がある。そして決して山頂へ行けず、里へ戻ってしまう―まるで迷路みたいに」
岩山の迷路と呟く時、広瀬の目は一瞬、遠くを見た。老人は溜息を吐いた。
「あの山の上には、大昔に作られた寺院か道観があるらしい。とっくに廃れたはずなのに、たまに人影を見かけたり、逆に人が消えることもある」
それで里人は懼れ山に入りたがらなかったのかと、広瀬は納得した。
「それにしても、あんな岩山の上に寺院だなんて…やっぱり修行のためかな」
問うともなく、広瀬が呟くと、老人は首を振った。
「新しい世界を作ろうとしたらしい」
老人のはっきりした口調に、広瀬は驚いた。
「え、それは梁山泊みたいに世直しの根城にしようとか…」
語学学習用に読んだ講談本の内容を必死で思い出そうとする広瀬をよそに、老人は淡々と話を続ける。
「乱れた世を憂いた者達が集まって、この世とは別の世界を作ろうとした。
領土は同じ広さで、治める王も家柄に関係なく、誰でも平等になることが出来る。他国との争いも無く、社会は定められた仕組みによって動いて行く。そして万一治世者が道を外すようなことがあれば、警告し正せるよう…」
そこで老人は口を閉じた。まるで自分が当事者であるような老人の語りに、広瀬は呆然としていた。しかし老人が黙ったままなので、広瀬は聞いてみた。
「そんな世界が、本当に出来たんですか」
老人はまた首を振った。
「人が集まれば、争いは起きる。枠を作っても、何時の間にやら穴が開いている。神様だって、計りきれないだろう」
「人がいる限り…」
広瀬の横顔に陰りが宿る。それに気付いたかどうか、老人は話を変える。
「噂を聞いて、倭からも人が来たらしい。帰った者も、この地に居着いた者もいただろう」
「貴方も?」
老人はひょいと肩を竦め“山頂へは近づかないように”と言いながら、戻りかけた。その時、広瀬の耳に声とも言えぬ声が聞こえた。
「そして人がいれば、神様も思いがけない奇跡が起きることもある」
広瀬は桜もどきの木の下で、ぼんやり雨を眺めていた。秩序ある世界を作ろうとした人々はどこへ行ったのだろう―そんなとりとめのない事を思っていると、ふと視線が目の前の岩壁に止まった。手を伸ばそうとした時、人の気配を感じた。
振り返ると、5,6歳の子供が立っていた。どこで手に入れたのか大人用のビニール合羽を被り、怯えるようにこちらを見ている。思わず歩み寄りそうになった広瀬は、子供の緊張した表情に気が付き、なるべく優しそうな声で尋ねた。
「君はここによく来るの?」
子供は微かに頷く。
「それなら、このマークが何か、知ってる?」
子供は広瀬の指さす先を見て、ハッとした。だが、すぐに首を横に振る。
「よく見るけど、なにか、わからない」
そして、おずおずしながら、広瀬の横にやって来た。
岩壁には子供の掌ほどの大きさの、記号の様なものが彫り込まれていた。丸印を中心に、八枚の花弁のような形のものが等分に配置されている。そして左右の上下に、三角形が四つ、花を囲むように刻まれていた。
「これは遠い国の地図なんだって。でも行ったら帰って来れないから、この絵を見つけたら、先に行っちゃいけないんだって。おじいちゃん達が言ってた」
そう言いながらも、子供は手を伸ばし、大事そうに絵を撫ぜる。絵を見ていた広瀬は、ふと気付いた。
「十二の国、十二の王」
日本語で呟いたはずなのに、子供がびくんと跳ねるように、広瀬を見た。
「知ってるの?」
見開かれた黒い瞳に、広瀬は“まさか”と思った。どこと言って特徴の無い外見。それでも纏っている空気が違う。懐かしく、それでいて辛い想いが甦る。
何も答えない広瀬に、子供は気落ちしたように目を逸らし、また絵を撫ぜ始める。左上の小さな三角を、何度も何度も。
雨は変わらず降っている。動かない子供を見て、広瀬は溜息を吐いた。
「どこにあるのか、どんな所かは知らない。でも必ずある」
この子供が高里の同胞かは分からない。知ったところで返す術はない。それでも自分は、その世界が存在することを知っている。だから伝えてやるべきなのだろう― 広瀬は思った。
呆然としている子供の頭に、大きな雫が落ちた。飛び上がる子供に、広瀬は苦笑し、背負っていたザックを片腕に吊るし、中をまさぐった。そして赤い棒のような物を取り出し、子供に手渡した。
「傘だ。あげるよ」
戸惑いながらも子供は傘を受け取り、開いてみた。いきなり現れた赤い空間に、子供は歓声を上げ、くるりと回す。すると、丁度落ちてきた花が傘の上に跳ねて、ポンと飛んだ。子供も弾けるような笑顔を、広瀬に向けた。
広瀬も笑い、そして自分の黄色い傘を開いた。