「投稿作品集」 「15桜祭」

古の桜に寄せて 縷紅さま

2015/04/11(Sat) 15:31 No.206
 ご無沙汰しております。
 毎年投稿したいなあと思いつつ、 なかなか書けずにおりましたが久しぶりにお邪魔しました。

 No.178山桜さん桜の木の写真からの連鎖を投稿させていただきます。

 カップリングは延陽前提ですが、恋愛表現はありません。 (災害被害に遭われた方ご注意ください)

古の桜に寄せて

縷紅さま
2015/04/11(Sat) 15:32 No.207
 目を開いたら、そこにはひどく心配そうな表情の黒髪の若い男が立っていた。

「おい、大丈夫か? 怪我でもしているのか」

 さっきから何か声が聞こえていたのはこの男だったのかと、寝起きの頭でぼんやりと考えていると、男は俺の体のあちこちを触り始めた。しばらくは面倒で好きにさせていたが、そのうちいい加減鬱陶しくなって俺はその手を払いのけた。
「別に怪我なんてしてねぇ。ここで寝てただけだ」
 そうか、と言って男は体を起こした俺を見てほっとしたように小さく笑った。妙に人好きのする笑顔が余計に胡散臭い。こんなどこもかしこも貧しくて、良いことなんて一つもありやしない雁の国で、見ず知らずの餓鬼のことを気にかける奴の腹の内なんて俺にはわからねえ。

 俺が寝ていた場所のすぐ横に男はどっかと腰を下ろす。そして背負っていた荷の中から包みを取り出したあと、腰に下げていた握りこぶしよりひと回り大きな丸いものがふたつ繋がったような、おかしな形のものを外してこちらに見せた。
「飲むか?」
 いぶかしむ俺の顔をしげしげと見て、やがて男はもう一度破願した。
「そうか、この辺りでは瓢箪を見たことがないか。これには水が入ってるんだ」
 男はそう言うと、きゅきゅと小気味良い音を立てて栓を抜いてまず自分が口をつけた。この男の喉がごくりと動くのさえ、力強くおおらかで陽気さを感じさせるのが何となく癪に触った。

 もう一度こちらに瓢箪を向けて勧めるのを、俺は顔を背けてあからさまに無視してやった。
「食い物の方がいいか」
 と、今度は包みから大きな握り飯を取り出した。
「水も飯もいらねぇ」
「お前、こんなに痩せこけて何日も食ってないんじゃないのか?」
 男の大きな暖かい手が頭の上に置かれると、俺の苛つきはとうとう極限に達した。
「うるせえ、俺はもうこの世に厭き厭きしてるんだ。むしろ行き倒れてそのまま死にたいんだよ。だから放っとけよ」

 実際、俺の父ちゃんも母ちゃんも何一つ悪いことなんてしちゃいないのに、俺に食わす為に働いて働いて体を壊した。その上、大雨で崩れた崖の土砂に埋まって死んじまった。
 「新王が登極された」とか「もうこれで大丈夫だ。心配ない」とか。偉そうに言ってた里の長老も同じ雨で死んだ。土砂が潰した畑も家ももう元には戻らない。蓄えも尽きたその冬には弱いものから順に飢えて死んでいった。王なんて何の役にも立ちやしないじゃないか。

どうして俺なんかが生き残っちまったんだ。俺なんかが生きていたって――

 気が付くと俺は、胸の内に溜まっていたどす黒い澱を男に向かって吐き出していた。
 里の仲間には言えないような汚い言葉が堰を切ったように溢れ出てくるのが止められない。
 顔は見ていなかったが、話の途中から男の表情が翳っっていく様子が俺にも分かった。
 こんな胡散臭い奴が少しばかり嫌な心持ちになろうが、俺の知ったことじゃない。他人に食い物を分け与えられるような裕福な余所者じゃないか。ここを離れればすぐに俺の話なんか忘れちまって暢気に笑ってるんだろう。 ――そう思っていたはずなのに、どうしてか俺はそいつを傷つけてしまったことが気にかかった。
 俺は悪くない、と何度も自分に言い聞かせても。

 男は手の中の握り飯を無言で口に押し込んでは飲み下した。残りを包み直し、そしてもう一度瓢箪を傾けると大きく息を吐いた。
「ああ……そうだな、この国はろくでもない国だ」
 言葉を荒げるでもない声の中に、男は静かな憤りを滲ませてそう呟いた。

 そのとき不意に、こいつは確かに恵まれている、だがこいつにも何か許しがたい経験があったのかもしれないという考えが浮かんでしまった。途端にムカムカと口の中に苦いものが込み上げてくるのを感じた。苦くて苦くて我慢できずに口を開くと、それは嗚咽となって、いつの間にか俺はぼろぼろと涙を流していた。

「お前が幸せになれると俺は約束できない」
 当たり前だ、人の幸せを簡単に約束できる奴なんかいるわけねえ――言葉にはならない思いで、俺の体が震えているのを奴は見ていた。
「だけどなあ、生きるのを諦めるのだけはやめておけ。長く生きててくれれば、今よりちっとはましな国にできるかもしれん」
 そう言って男は俯いた俺の頭を抱き寄せた。その暖かさが悔しくて堪らなかった。


 二人の座る岩陰から少し離れた山の斜面に、昨秋の大雨で崩れてきた土砂の名残と崩れる前はもう少し崖の上の方にあったのではないかと見える一本の桜の若木が立っていた。その無残に折れた枝の跡から、青い芽がいくつか伸び始めていた。

 生きる目的が必要ならお前がこの木を守れ――男はそう言って少年の前から立ち去った。いつか必ずこの花を見に戻ってくると。







「陽子」
 名を呼ばれ、先を歩いていた若い女は振り返った。昨夜の雨に濡れた小道は少しぬかるみ、長い衣の裾を汚さぬように指の先で端折る仕草が連れの男の目には妙に愛らしく見えたようで、彼はそっと目を細めた。

「その杭の先は去年の秋の長雨で崩れたところだろう、あまり近寄らない方がいい」
 小道から少し下がった場所はがけ崩れで表土が削られた様子で、斜面の中ほどまで土の色が見える。その一帯は芽吹いたばかりの緑に覆われ始めていた。空は今にも降りだしそうな鉛色の雲に覆われて、遠くの景色は靄がかかっている。
 斜面には桜が一本すっくと立ち、太い枝を横に伸ばして悠然した樹姿を見せていた。ふた抱えはありそうなごつごつとした瘤だらけの幹には緑の苔が生え、花が咲いていなければ桜とは分からなかったかもしれない。
 見事とか美しいとかのありきたりな賛辞よりも、むしろ異形という言葉が相応しいように感じる桜の樹――その樹はどれくらいの時をその場所で過ごして来たのだろうか。
「ここから見ているだけでも圧倒的な力を感じますね。目を閉じると桜の鼓動が聞こえてくるようだ」
 樹の方に視線を戻した陽子は、桜がこれまで過ごした時間に心を馳せるように呟いた。

「そこの旅のお方」
 ふいに二人の背後から声が聞こえた。
 それは決して大きな声ではなかったが、琵琶のひと鳴りを思わせる玄妙な声だった。
 振り返るとそこには老人が立っていた。杖と腰に付けた瓢箪以外は特に荷を持っている様子でもない軽装を見ると、近くに住むものなのだろう。
「桜の守に来てみれば、珍しくお客人が居られるとは。向こうの木に繋がれた騎獣は貴方様のものですかな」
 その老人は、この地で長く桜守を務める者だという。見た目の年齢よりもしっかりとした軽い足取りで陽子の脇を通り過ぎると、桜の方に向かってひょいひょいと斜面を降り始めた。
「あ、おじいさん、危ないですよ」
 思わず駆け寄ろうとして、ぬかった土に足を取られて転びそうになった陽子は、横から伸びた男の手に支えられ尻餅をつくのだけは何とか免れた。

 老人はいとも簡単に桜のそばまで斜面を下っていくと、樹皮に手を当てたり手にした杖でコンコンと叩いてみたりと、いかにも慣れた仕草で桜の様子を診ていた。
 ひとしきり診終わった老人は危なげない足取りで見守る二人のところへ戻ってきた。
「あなたがこうして長年この桜を守ってきたのですね」
 陽子が感服したように声をかけると、老人は呵呵と笑った。
「いいや娘さん、いや、若奥さんかの。この桜は己の力でここに在るのじゃよ。わしは少しばかりその手助けをしているだけじゃ」
 老人は振り返り桜の樹を見下ろした。
「――じゃがもう、この樹もそろそろ寿命が近いようでのう」
 少し寂しげに老人の見つめる先は彼らが見ている同じ桜であり、またその桜のはるか過去の姿でもあるようだった。
「この樹はどれくらいここに在るのですか」
 陽子がそう訊ねると、老人は杖を持たない方の枯れ木のような腕を陽子の背に当て答えた。
「五百年ほどになるかのう」
 古木であることは分かっていたが、そこまで古いと聞かされて陽子は思わず目を見張った。
「昔、この樹はこの丘のもう少し上に生えていたのじゃが、昨年のような、いやそれよりもずっとひどい大雨が降った年に、まだ若かった樹が根こそぎここまで崩れ落ちて来たんじゃ。この下の里の半分と畑が土砂に埋まった、それは難儀な雨じゃった」
 五百年も昔の話を見てきたかのように老人は語る。それは桜守に伝え継がれた歴史なのだろうと陽子は思った。
「その翌年の春に――そう、ちょうどこの辺りに延王君が立ち寄られた折りに、この桜を守れとお命じになられたのじゃ。必ず再び見に来るからと」
 陽子は連れの男を振り返った。彼はいつのまにか陽子たちから少し離れ、屋根のように僅かに突き出した岩の上に登っていた。手近の草からちぎった葉を唇に当ててピィと笛のような音を立てている。
 男に声をかけようかどうかと陽子が決めかねていたとき、琵琶の音のような老人の声が頭の中に響いた。

――間に合って本当に良かった。

 残響を遺さずに消えた声が本当に音として聞こえたのか定かではない。
 そして陽子がふたたび老人の方に目を戻すと、そこにはもう誰もいなかった。




 桜と共に生きた人の魂はただ一つの約束を果たす為だけに、桜と共にその地を守り続けた。
 彼は幸福だったのだろうか? それは誰にも分からない。
 人の幸せはその人の心の中にだけその尺度がある。
 だがひとつの約束が確かに果たされたのだ。

 延は岩の上から静かに桜を見つめていた。
 彼が老人のことについて気付いていたのかどうか、それはどうでも良いことだった。
 ただ、少しだけ昔話を聞かせて貰おう――。

 陽子がゆっくりとした足取りで彼のところまで歩み寄ると、延は笑ってその手を伸ばした。
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背景画像「花うさぎ」さま
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