灯 台
ネムさま
2015/05/06(Wed) 09:49 No.418
「あの」
遠慮がちな声に振り向くと、若い女が立っていた。
訝しげな彼女の様子に気付いたのだろう、急ぎ言葉を継ぐ。
「叢に隠れていますけど、その先は崖ですよ」
女の言葉に彼女は慌てて頷きながら、また足元に目をやり、指さした。
「この辺りに、桜の木がありませんか」
彼女が尋ねるのと同時に、目の前に広がる海から風が吹き、足元の叢が一斉に頭をもたげる。潮風になぶられ褐色を帯びた草が、そのまま何本か飛び、それと一緒に、白い小さな破片が巻き上がった。
咄嗟に破片を手に掴んだ若い女は、自分の掌の内を覗きこみ、微かに笑った。
「この崖の中程に、大きな桜の木が生えています。花時になると、こうして風に吹き上げられ、ここにも花弁が飛んでくるんです。」
「そこへ降りていく道があったはずですが」
彼女の問いに、若い女は目を見開いた。
「ええ。でも雨風に削られて、今は地元の人間でさえ、滅多に行きません。
ここへ来られたことがあるのですか」
「…昔、夫と」
彼女は小さく笑い、崖から離れた。自然、二人の女は肩を並べて歩き出す。
「明日の雁への船便に乗られるのですか」
若い女が尋ねると、彼女は頷いた。
「向こうにいる息子が呼んでくれたんです。私の職も見つけてくれて」
「身内がおられるなら、心強いでしょう。今や、当てがあろうが無かろうが、まず巧を出たいという民の方が、圧倒的に多いですから」
若い女は寂しげに海を見やった。
黒々とした海面には幾つもの白い波が跳ね、遠く水平線まで続いて行く。その境目から上は薄く刷毛を引いたような春の青空が広がる。しかし、巧のもう一方の海―赤海から青海にかけての空は、徘徊する妖魔の影で陽が射さない有様だと噂されている。先の塙王が崩御してから半年も経っていない。
巽海門を軸に、扇が広がるよう巧の民は奏へ、雁へと逃げていく。国境や各港には人があふれ、特に船は乗船順を巡って騒動が絶えず、今では府第から衛士や下官が港へ派遣され、自国の民が他国へ逃げる世話をしているようになっていた。
「息子さんは雁のどちらに?お商売か何かされているのですか」
若い女は何かを振り払うように、笑顔で彼女に問うた。
「まだ大学生なんですよ。関弓にいるんですけど」
彼女の答えに、若い女は大きく目を見開いた。
「雁の… それでは巧でも大学に?」
「いえ、上庠だけです」
「上庠しか行かずに、雁の大学へ…?」
「半獣なので、こちらではそれ以上の学校へは行けなかったんです」
僅かな間があった。そこで彼女は、自分にとっては当たり前の事が、他人には受け入れ難い事であったと、思い出した。
案の定、若い女の表情は固くなっていた。道が崖から逸れ、下りになったのを機に、彼女は頭を下げ、先に坂を下って行った。
夜。衛士の焚く篝火の他にも、船待ちの人々が囲む小さな焚火の灯りが、あちこちで揺れている。
荷物を殆ど持たない年寄りや子供に掛布を配り終え、焚火の輪の後ろに座り込んだ若い女の姿に気付き、彼女は声を掛けてみた。
「今日はありがとうございました」
彼女の声に驚き振り向いた若い女は、ぎこちないながらも頭を下げた。
「港に戻ってから聞いたのですが、あそこら辺の崖で身投げがあったそうですね。だから心配して声を掛けて下さったんですね」
彼女が言うと、若い女は小さく息を吐いた。
「災害や妖魔からここまで逃げるだけで力尽きてしまう人も多いのです。更に他国へ行き、その先どうなるか分からないとなると、身を儚んでしまうのでしょう」
そして若い女は小さく揺らぐ火を見つめながら、ぽつりと言った。
「雁は…広いのでしょうね」
彼女が訝しげに首を傾げると、若い女は寂しげに笑う。
「雁では、海客も半獣も差別を受けず、実力があれば国官にもなれると聞いています。奏も同じだと…。主上は雁と奏を大層意識しておられたけれど、両国のどこが優れているかを学び、自国にも取り入れようとはしなかった。
もし…主上がもっと大らかな気持ちをお持ちであったら、ここにいる人々は、今こんな思いを味わずに済んだかもしれない」
静かな、しかし微かに激した言葉に、彼女は思わず問うた。
「主上をご存じなのですか」
口を閉ざす女を見つめているうち、彼女の脳裡に人や息子からの文に書かれた噂話が甦る。
「翠篁宮の公子と公主は、主上が失道された責を負うため、宮から出られて夫役をされているとか」
「…」
「主上の生前も、民のために諌言されたと…」
「いいえ」
若い女は首を振った。そして強く両の手を握り合わせる。遠く、火の爆ぜる音がした。
「今、私が本当に後悔しているのは、民のことではありません」
ようやく漏れ聞こえた言葉に、彼女は何も言わず、ただ耳を澄ませた。
「私と兄は、父を支えようと懸命に学びました。特に雁と奏の素晴らしさに惹かれ、両国の優れた制度を巧にも導入しようと、何度も父に話しました。臣下が父に遠慮する素振りを見せる時は、特に家族だからこそと、強い言葉で迫ることもありました。
父が亡くなり、国が信じられない速さで災害と妖魔に侵されていくのを、ただ見ているしか出来ないと気付いた時、初めて父の絶望の深さを知りました。
私達は“良き公主と公子”であろうとするだけで、父にも民にとっても、何の役にも立てなかった」
思わず身を乗り出した彼女を制するように、女は笑った。
「雁の制度を讃えながら、貴女の息子さんのことを“何故、半獣が大学になんか”としか思えなかった、私の程度はそこまでなのです」
気付くと近くで小さな寝息が聞こえる。後ろで2人の子供が抱き合って眠っている。焚火を囲む人々も舟を漕ぎ始めている。しかし誰もが疲れた表情をしたままだ。
「一緒に泣いて上げれば良かった」
震える声がする。
「王を責めたり諌めるのなら、誰にでも出来ます。でも父が辛い時傍らにいられるのは、家族だけだったのに…
何も出来なくても、せめて一緒に泣いて上げれば…亡くなる時、父はあれ程苦しまずに済んだかもしれない。こんなに巧は傾かず、国を出る人々を見なくて良かったかも…」
そして、幼い寝息にさえ掻き消されるような小さな呟きが、彼女の耳には聞こえた。
「お父さん―」
夜は更けていく。小さくなった焚火の近くに寄り、彼女は小枝を幾つか差し入れ、それから何やら探っていたが、やがて小さな袋を両手に抱え、若い女の傍らに戻った。
差し出された袋−温石の温みに、涙に濡れた女の頬にも赤味が差した。
「貴女は他の国に逃げないのですか」
彼女の問いに、若い女は瞠目した。
「ここはまだ安全ですが、この先は分かりません。
貴女はまだお若い。そしてお父様の罪を、お兄様と二人だけで背負うにも―」
しかし彼女の言葉に、女はきっぱり首を横に振った。
「逃げたくても逃げられない人もいます。そして誰かがいなくては、次の王を迎え、巧を再生することが出来なくなります。ここにいる人々の帰る場所がなくなってしまう…」
彼女はただ頷き、ふと離れた所にある衛士の篝火を見やった。爆ぜた火花が散っている。
「婚姻したばかりの頃、一度だけ夫と旅をして、ここに来た時、崖下の桜の花が見事に咲いていたので、そこで長い時間、花と海を見ながら、いろいろ話をしていました」
彼女の頬に柔らかな笑みが浮かぶ。
「何を話したかは忘れてしまいましたけれど、それから何かの拍子にその時のことを思い出すと、心が穏やかで満ち足りた気持ちに、今でもなれます。
それから今まで生きて来て、良いことも悲しいことも、この国で私はいろいろな事に巡り合いました」
彼女はそれらを思い出すように、自分の掌を見た。
「息子は今ようやく、自分の道を進み始めています。だから、私が巧にいるのが心配ならば、今は傍に居ようと思います。でも、息子が本当に一人で歩き出した時は―」
掌が重なり握り締められる。
「帰ってきます。
私が生まれ、育ち、夫と出会い、息子を生んだー それがこの国なのだから」
若い女は頷き、抱えた膝に頭を埋めた。彼女はその頭を、母親のように撫でた。
艀が船から離れて行く。船はゆっくり黒い海―虚海へと進み始めた。
空は澄み渡り、海鳥が船と並ぶように、甲板の真横を飛んでいく。ようやく乗船客から明るい声が沸いた。
彼女も甲板の縁に立ち、鳥達を眺めていた。やがて船が近くの岬に近づいて行く。その時、白色がかった紅色の靄のような塊が、彼女の目に飛び込んだ。
岬の崖の斜面に、一本、満開の桜の木が立っていた。それはまるで、海上を行く船の目印のように、潮風に揺れながらも、凛と佇んでいる。
目を凝らして桜を見ていた彼女は、木の下に小さな二つの人影を認めた途端、大きく腕を振り出した。それに気が付いたらしく、人影も手を振り返す。
一人二人と、やがて甲板にいた者達全員が桜に向かって、手を振っていた。それに応えるように、桜の木から花弁が舞い上がる。やがて船は岬を回りこみ、桜は見えなくなった。
甲板に佇みながら、彼女は少しずつ離れて行く故国を見つめていた。
― 帰って来る。必ず ―
彼女の目の奥で、もう一度、桜の花弁が一斉に舞った。