くるい咲き
饒筆さま
2015/05/10(Sun) 22:40 No.480
風が唸る。
虚海の彼方、世界の最果てから吹き寄せるその暴風は、剛腕を振り回しながら荒野を渡り、小さな里を震えあがらせ、力任せに木戸を叩く。痩せた少女は毛布をぎゅっと引き寄せ、外界を圧するその音に聞き耳を立てている。そら恐ろしい唸りは来ては去り、来ては去りを繰り返し、おどろおどろしく高まってゆく。
いけない。これは……嵐が来る。
睡魔の靄を掻き分け、少女は――李斎はもがく。
――父さん、早くうちの羊を中へ入れなくちゃ!ねえ、はやく!
――馬鹿!今、外に出れば、おまえが飛ばされるぞッ!
懸命に伸ばした指が掴んだのは、父のごわごわした毛織の背子ではなく――李斎の爪ならひと掻きで裂けそうな、羽のように軽い絹布だった。
――?!
その感触に驚き、李斎は目を覚ます。咄嗟に身を起こし、辺りを睨み回せば、現実はすぐに戻ってきた。
――違う。ここは承州ではない……。
ここは蓬山。幼き黒麒麟がおわす、玉京のお膝元だ。
そして李斎は右手を引き寄せ、掴んだ衣をしげしげと眺める。この優美極まりない上着は、先日の狩りで着物を反故にした李斎に、御心優しい蓬山公が手ずから下賜くださった一枚だった。
ああ。なんだか、この現実の方が夢のようだ。
最果ての荒野に生まれ落ちた少女が今や昇山を果たし、神の御使いに親しくお言葉を頂戴しているのだ。いただいた天女の衣など、有難すぎてとても纏えやしない。ただ、日を置かず見舞いに来てくださる公のお気持ちを慮って寝台の上掛けにのみ使用している……のだが。
ほろ苦い笑みが紅唇を歪める。
――蓬山は誠に素晴らしいな。こんな薄布一枚で夜をしのげるのだから。
そんなこと、李斎の郷里では考えられなかった。真夏でも当然毛布が必要だった。彼の地では、いくら高価だと言われてもこんな薄布を欲しがる里人などいないだろう。風雅や気品など、厳しい自然の前では何の役にも立たない。
まるで雲泥の差だ。
微かな苛立ちが湧き、胸の奥に澱が溜まる。
なぜ?
なぜ天帝はそのお膝元にこのような楽園を造りながら、最果てのわが郷里は荒れるに任せて放置なさるのだろう?
神は不公平だ。
風が唸る。
あの懐かしい風の唸りは、まだわずかに聞こえている。すっかり弱弱しいが、地を這い、梢を震わせ、李斎の元へ途切れなく届くじゃないか。
李斎は懸命に耳を澄ます。
――確かに似ている……が、蓬山にあんな暴風が吹くはずが無い。これは一体、何の音だろう?
李斎は大きく息を吐き、傷を労ってゆっくりと立ち上がった。
灯は消え、天幕の中は暗い。隙間から洩れる月光を頼りに上着を羽織り、足音も気配も消して、天幕の口を潜り出る。
外は白々と明るかった。耳を頼りに、音を辿る。
藪をひとつ抜け、よく手入れされた林へ踏み込めば。その源は呆気なく見つかった。
闇に沈む木立の中に、ひときわ目立つ木がある。節くれだった幹から細い枝を四方に伸ばし、その枝じゅうに無数の花を咲かせているのだ。李斎はその木花を初めて見た。まるで花の雲、または花の傘を連想させるその一群は月の下で蒼白く光り、柔らかな風に靡いて躍り、気まぐれに花弁を散らし続けている。
その花弁の落ちる先、花天蓋の真下で、知った男が馬頭琴を奏でていた。驍宗だ。禁軍左将軍を務める彼のこと、てっきり勇壮な戦歌を弾くのかと思いきや、今宵の驍宗はその眼を閉じ、何かに向き合うように真剣に、腹の底を揺さぶる長音を重厚に重ねるだけだった。
――なるほど。これが風の唸りに聞こえたのか。
李斎は驍宗の邪魔をせぬよう慎重に、木立の陰からその音色に耳を傾ける。
が、案の定、驍宗は直ちに李斎に気づいたようだ。弓が止まって馬頭琴が黙りこみ、鋭い紅眼が闇を透かして彼女の姿を捉えた。
「李斎殿か。夜分にすまない。起こしてしまったようだな。傷の具合はどうだ?」
李斎は僅かに笑んで姿を現した。
「今晩は、驍宗殿。御蔭様で快方に向かっています。実は私も眠れず散策に出ただけなので――どうぞお構いなく。それにしても、貴方が弦楽を嗜むとは思いませんでした」
「龍笛の高い音は自分で吹くには耳触りだからな。私には耳に馴染んだこの音が好い」
驍宗は戯れに弦を爪弾く。夜陰が震え、また花片が舞い落ちた。
――そう言えば、驍宗殿も生まれは騎馬の民だと言っておられた。
李斎の口元に温かな微笑が広がる。この何もかもが美しくよそよそしい別世界に在って、ひどく懐かしいものに触れた気がした。
一方、驍宗は弓を持つ手をだらりと下げ、ゆったりと歩み寄る李斎から視線を外して頭上の花雲を仰ぐ。
「なあ李斎殿。この花を見て、どう思う?」
「珍しい花ですね。まるで雪を降らせているみたいで、とても綺麗です」
「綺麗か……」
ふうっと太い嘆息が洩れた。
「この花、私はどうも異様な気迫を感じてならない。気になって女仙に尋ねたら、これは、さくら、という花で、本来ならば今は咲く時期ではないそうだ。どうやら、ずいぶん季節を外した狂い咲きらしい」
「ほう。狂い咲き……」
「これほど見事ななりなのに、時を知らずに咲いたとは。哀れなものだ」
――哀れ……?
その、なにやら沈痛な口調に、李斎は大きく目を瞬かせた。
それきり口を閉ざし、ただ花雲を見上げる驍宗をしげしげと眺める。彼にしては珍しく覇気に欠ける、どこかやさぐれた表情をしている。だから、はたと気づいた。
――時を知らずに咲いた、とは……もしや、驍宗殿は自身をこの狂い咲きの『さくら』とやらに重ねているのだろうか。
その心情は容易に想像できた。
今ここにいるどの戴国人よりも、驍宗殿は遥かに十全の備えを積み重ねてきた。我を鍛え、身を慎んで前王によく仕え、また麾下を育て、民を活かしてこれからの戴国を統べる策を練ってきた。そのうえで自らが泰王たらんと意気揚々昇山したというのに……公からはいっかな佳き返事をいただけない。これだけの器と実績を備えながら、それでも泰王には足りぬというのか。それとも、今はその時ではないのか。天帝は一体どこに目が付いているのか。
神の目は節穴だ。人並はずれた努力さえ、報われるとは限らない。
李斎は驍宗の大器に感服して早々に降参したクチだが、それでも一抹の希望を抱いて昇山した同志として驍宗の落胆や無念は察して余りあった。
――だから、聞いていたのだろうか。あの風の音を。
夜中にわざわざ馬頭琴を持ち出して弾くにしては、あの旋律は鬱々として抑揚がなさすぎる。
思わずたたらを踏むほど、ぐっと惹きつけられた。
驍宗殿も御存じなのだろうか、あの無慈悲な風を。今もまだ聞こえるのだろうか、あの唸りが。
驍宗の端然とした面立ちが李斎に向き直る。気迫漲る時は畏怖に身が竦む紅眼も、今は懐かしきあの荒野のように乾いていて空虚だ。
二人の間に風が唸る。
耳の奥に根深く宿る、あの風の唸りは決して止まない。
しかし。
李斎は歯を食いしばる。
時を知らずに花を咲かせた驍宗は「哀れ」だろうか?神に見放された地で、日々辛うじて命を繋ぐ者たちは皆「哀れ」なのだろうか?
――そんなことはない。
衝動に駆られ、李斎は紅き荒野をはったと睨みかえす。
「そうでしょうか」
今度は驍宗が瞬きをする番だった。
「いつ咲こうが、花は花。これだけ立派に咲かせたのなら、今がこの木の『時』なのでしょう。胸を張って堂々と咲かせばいい。憐れみを受ける謂れなど無い。そうは思いませんか?」
いつだって我々は、与えられた籠の中で足掻くことしかできない。死神に引導を渡されるまで、毅然と胸を張って闘い続けるだけ。そうやって懸命に闘う者を憐れむ資格など、誰にも無い――神にだってあるものか!
李斎が切った大見得に、驍宗は一拍表情を消す。だが、すぐに強気な笑みを浮かべた。
「……憐れみを受ける謂れなど無い、か。ああ。その通りだ」
驍宗はクッと喉を鳴らし、膝を打ってさらに破顔する。
「ありがとう。李斎の言で胸が空いた」
「こちらこそ、貴方のお役に立てたなら幸いです」
強く逞しく輝く目と目が合った。花片ならぬ火花が散って見えた。
風が唸る。
驍宗は馬頭琴を脇へ置き、その頼もしい手を李斎へ差し出す。
李斎も素直にその手を取った。こちらが病み上がりのせいか、引き寄せる力が思った以上に強い。呆気なくすっぽりと包まれて、頭上に熱い声を聞く。
「情けないところを見せてしまったな」
「たまには良いじゃないですか――お相手が私では役不足でしょうが」
「何を言う。李斎が来てくれて助かった」
耳元の髪を掻き上げられ、李斎はくすぐったそうに身を離す。ふふふふ、と互いに鼻を鳴らしてじゃれながら、挑みかかるように心の襞を探り合う。
驍宗が語りだす。
「確かに、ここで腐っていても仕方がないな。やはり、自分の手で蹴りをつける」
「と言うと?」
「荷を纏めて早々に発つ。それを公が黙ってお見送りになるのなら、俺はそこまでの男だという訳だ――もしそうなれば、もう二度と戴には戻らぬ」
「それは惜しい。待つ者も大勢おられるでしょうに」
「李斎殿に惜しんでもらえるだけで有難い」
乾いた笑みを交わしても、ざらついた感情は癒されない。なのに、どうしてこうも離れがたいのか。相手の腕に、腰に回した腕はますます絡んで決断を急かす。
淡い花びらが一枚、闇の中をひらひら踊りながら、今にも付きそうな二人の鼻先を掠めて落ちた。
狂い咲いているのは――誰だ?
「そうですか。それもまたひとつの戦法でしょう。貴殿のご武運を祈ります」
ついと顔を背け、突き放そうとする李斎を、驍宗はがっしり抱き留めた。
「李斎殿。最後にひとつ、頼みをきいてくれないか」
身中の焔を吐くような科白には、懇願にしては否応の言えぬ磁力があった。李斎は柳眉を跳ね上げる。
「……貸しにしますよ」
「それは高くつきそうだな」
驍宗は苦笑しながら頭を振り、不意に眼を据えて望みを果たす。
李斎はその嵐を迎えながら――あの風がこの花雲を吹き飛ばさぬよう真摯に祈った。
<了>