さくら咲いたよ
饒筆さま
2017/04/28(Fri) 23:29 No.358
今年の春は雲雀が鳴かない。陽も照らない。数日前、ついに山向こうの里が妖魔に襲われたという噂が一気に広まった。
暇さえあれば難しい顔を寄せ合ってひそひそ話しこんでいる里人たちを尻目に、楽俊の母は一人、首に手拭いをかけてのんびり畦道を進む。
――そりゃあもう、仕方のないことさ……王様がお隠れになってから何年だい?
あれこれ案じてもしょうがない。自分にできることをするしかないじゃないの。
同姓の誼で何かと気にかけてくれる老張さんの畑に着けば、こんもりした薄紅の小山が目を引いた。黒くねじれた桜の老木が今を盛りと咲き誇っている。
「あらあ、まあ。綺麗に咲きましたねえ」
挨拶代わりに声をかける。すると、老張さんは意外にも顔をしかめた。
「ま、見栄えはええがな」
しわがれ声の苦言が続く。
「あっちゅう間に散りおるし、実もつけやせん。わしゃ、こんな木は早う切って桃でも植えたいんじゃ。なのに、女房と娘がうるさいでの」
フンと鼻息で飛ばされて、楽俊の母はやや萎れ気味に頷いた。
「……そうでしたか。あの、本日もよろしくお願いします」
そして言いつけられた通り、麦の世話と南瓜の種まきに取りかかった。
未だに肌寒い曇天の下、俯いて作業に専念すれば心はさらに暗く沈む。
――実もつけやせん。
その一言が棘のように刺さっていた。
彼女の息子もずっとそんな風に言われてきたからだ。
――あんた……給田を売るって、正気か?!こんなクソ坊主、育てたところで小遣いすら稼いで来んのだぞ?!
よりによって楽俊の前でそんな声をあげた男の顔を、母は死ぬまで忘れないだろう。
旋風が吹く。雑草を摘む手元に、ひらりと薄紅の花びらが舞い落ちた。
楽俊の母は手を止め、桜の木を振り仰ぐ。それから胸の内で語りかけた。
――そんな風に生まれついたのはあんたのせいじゃないよ。
少し微笑んでから、また作業に戻る。
――悪し様に言われ、除け者にされるのも、あんたが悪いからじゃない。
ひらり、ひらり。桜は途切れなく花びらを散らす。母は黙々と雑草を抜く。
――あたしはあんたが好きだよ。あんたの花は優しげでとても綺麗さ。たいして力にはなってやれないけれど、あたしはあんたが好きだよ。だから胸を張って咲いておくれ。
桜はもの言わず、ただひっそりとその場に佇んでいた。
昼過ぎに気まぐれな雨が降り始め、今日の仕事はあっさりお終いになった。
老張さんからささやかな日銭を受け取り、楽俊の母は踵を返す。そのとき、ちょうど足元に軸ごと落ちていた一輪を彼女は大事に拾って持ち帰った。
こんな他愛もない雨に打ち落とされ、緩やかな風に飛ばされ、家に飾っても呆気なく萎れてしまう。そんな頼りない花だ。桜は。
詮無いことを考えながらとぼとぼ歩むうちに、みるみる雨足が強まってきた。大粒の雨に急かされ、楽俊の母は慌てて手拭いを被り、泥を跳ね上げて走る。
ますます古びて傾いた我が家の軒先に転がり込み、やっと一息ついた。
「ああ。えらい目に遭った……」
軋む戸を押し、がらんどうの家にただいまを告げる。
しっとり濡れた上着を脱ぎ、棚上の位牌に拾った桜を供えた。神妙に手を合わせ、亡き夫に語りかける。
――この桜がねえ、なんだか放っておけなくて拾っちまったんだよ。ねえ、あんた、どうか楽俊をしっかり護ってくださいね。
そして母は穏やかな笑みを浮かべ、空っぽの書机を見つめた。
半獣の身ゆえ給田も貰えず進学できず働き口も無く、ただその机で書を読むしかなかった小さな背中は、ある日赤毛の娘に出会って遠い雁国へ旅立った。そして今、かの豊かな国で破格の待遇を得ていると云う。なにやら地位のあるお大尽に見込まれて大学に通っているらしいのだ。田舎の母は未だに信じられない。
――ほんとに大丈夫かねえ?あの子は元気にやっているのかねえ……?
雁国は遠すぎて音信も途絶えがちなのが寂しいが、息子の決断は正しいと思う。この家に留まっていては自立など夢見ることすら叶わなかった。残された母は心配と寂寥を呑み込んで、ただ息子の健闘を祈るしかない。
力強い雨がざああっと戸を叩く。
「さて……と」
ちょっと早いけど夕飯の支度でもするかねえ、と芋の籠を取り上げたとき。
バタアァァンッ!!
耳を打つ音とともに、立てつけの悪い戸がいきなり開いた。
「ひっ……!」
度肝を抜かれて咄嗟に身を縮める母の前へ、赤い人影が尋常ならぬ剣幕で駆け込んでくる。どさり。籠が落ち、芋が転がった。
乱入者が面をあげる。
「こんにちは!お久しぶりです!陽子です!」
この雨の中を懸命に駆けてきたのだろう、紅の髪も蓑もびしょ濡れで小さな滴をぽたぽた落としている――が、彼女は満面の笑みを輝かせていた。
「よ、陽子ちゃん……?」
恐る恐る聞き返せば、陽子はさらにニッと口角を上げて笑う。
「はい!お元気そうで何よりです!……また突然お邪魔してすみません。どうしてもお伝えしたいことがあって」
さすがにバツの悪そうな言い訳に、楽俊の母もやっと我に返った。
「い……いえいえ、いつだって来てくれていいんだよぉ陽子ちゃん。でも、ああ、驚いた。陽子ちゃんにはいつもビックリさせられるわ――行き倒れていたり、空から降ってきたり」
「あはは、すみません」
とんでもない過去を二人はからりと笑い飛ばす。(それでいいのか?)
それから陽子は手甲を外し、楽俊の母の手を取った。改めて、誇らしげにその顔を覗き込む。
「おめでとうございます、お母さん!楽俊は玄英宮の官吏になるんですって!!」
ゲンエイキュウノカンリ?理解が追いつかず、楽俊の母は首を傾げる。
「……はい?」
「だから。楽俊は無事に大学を卒業して、雁国府の秋官として正式に採用が決まったんです!おめでとうございます!!」
一人で盛り上がる陽子に対し、母の喜びはゆっくり遅れて込み上げる。
「国府の……官……?それって、お役人になるってことかい?!」
「それも県や郷の役人じゃありませんよ。楽俊は雁の王宮に出仕するんです!凄いことですよ!」
「ほんに……ほんとうに??」
「本当です!」
あたしは夢を見ているんじゃなかろうか。
楽俊の母は自分の頬をつねってみた――普通に痛かった。
「楽俊が、王宮の、お役人に……」
その言葉を噛みしめるように呟けば、熱い嬉し涙が堰を切ってあふれ出た。
言葉にならない。
――あの子が、自分で、ちゃんと花も実もつけたんだ……!
それはどれほどの努力を重ね、どれほどの苦労の末に掴んだ成果なのだろう。
温かく握りしめてくれる陽子の手をぎゅっと握り返し、母は何も言えないまま手を振って喜びを分かち合う。
滲んで揺れる視界のまま、棚上の位牌を見上げて語りかける。
――ねえ、あんた、聞いたかい?楽俊はあんたと同じ、お役人になるんだよ。
母の視線を追った陽子が、位牌の前の桜に目を留めた。
「ああ、こちらではもう咲いていたんですね。すごいな、文字通り『桜が咲いた』んだ!」
楽俊の母は零れた涙を拭いながら聞き返す。
「桜が咲いたのが、どうかしたのかい?」
「蓬莱では、入試に合格したり良い転機を迎えたりすることを『さくら咲く』と言うんです。ほら、桜が咲いたら春が来るじゃないですか。だから人生の春を迎えるという喜ばしい意味で」
「へえ。桜咲く……」
その響きは優しく、どこまでも明るい幸せを連れて来るように思えた。
「そうかい。桜が咲いて、楽俊にもようやっと春が来るんだねえ……」
「そうですよ。楽俊はとっても優秀だから、きっと国府でもバリバリ出世できると思いますよ」
「いいんだよぉ出世なんて。ただ毎日元気で、飯をちゃんと食えていれば」(←結局オカンの心配はそこに行きつく・笑)
外は雨、国は傾き、暮らしはどんどん厳しくなってゆく。それでも母は滾々と湧く嬉しさを後生大事に抱きしめた。
「わざわざ知らせに来てくれてありがとうね、陽子ちゃん。ところで……陽子ちゃんは今どうしているんだい?」
「それが……」
陽子は急に目を逸らした。
「実は、私は慶で働いているんです。本当は楽俊にもこっちへ来てもらいたかったんだけど……借りた学費の返済があるとか何とかであっちに取られちゃって……(ぶつぶつ)」
「へええ。そうなの」
見事に己の身を立てた息子も、どうやらもうひとつの春は手に入れ損ねたらしい。
――まあ、あの子は娘さんにはとんと縁が無かったからねえ……。
母は一転、遠い目をする(←放っといてくれよ母ちゃん!by楽俊)
そんな母の表情を見、陽子は慌てて続けた。
「でも、文通はずっと続けているんですよ!これからもずっと、互いを応援しあう良い仲でいたいと思います。だって私たち、大親友ですから!」(輝きわたるスマイル)
――なるほど。大親友、ね……(←頼むから母ちゃん、それ以上は言わないでくれよおぉby楽俊・泣)
事情はわかった。母はひとつ息を吐いて、腰に手をあてる。
「じゃあ――せっかく来てくれたんだ、何か食べていくかい?せっかくだから芋入りの饅頭(マントウ)でも蒸そうかねえ」
「わあ!ありがとう!お母さんの饅頭大好きです!」(わーい♪)
素直な良い娘さんだねえ。楽俊の母はひときわ明るい笑みを零す。
「そうだ。ねえ陽子ちゃん、今日は一緒に作ってみようか――我が家のコツを教えてあげるからさ、今度機会があったら陽子ちゃんが楽俊に作ってやっておくれよ」
「ああ……そうですね。楽俊もきっと食べたいと思っているだろうな……わかりました。頑張ります」(きりり)
生真面目に身繕いを始める陽子を愛おしげに眺め、楽俊の母は内心で息子を叱咤する。
――今度こそ頑張りなよ!(←余計なお世話だよっby楽俊with多少の意地)
こうして母は、未来の嫁(だといいな)と共に、息子の春を祝うささやかな宴を開いたのだった。
――ありがとうね楽俊。あたしは十分、幸せもんだよ。
<了>