優しい夢のはて
篝さま
2017/05/18(Thu) 22:25 No.560
その家の庭には一本の古い桜の木が植わっている。
大人が三人がかりでようやく囲めるような太い幹、年月を重ねてきたことが一目瞭然で分かる木肌、ちょっとの風ではびくともしないようなしなやかに伸びた枝々。地面に若干のうねりすら見える根本。
正確な種名こそ分からなかったものの、それはその近辺の人々の目を長年楽しませてきた。春になれば、その付近では辺り一面に菜の花畑が広がり、様々な樹々が芽吹き、畦には薺が咲いていたが、こじんまりとした集落の中で、古木ともいうべきそれは自然と人々の目を惹いた。
その家では桜以外にも多種多様な植物を育てていたが、それを管理している家人の性格上、植物を通じて和気藹々と周囲と交流することはなく、それらは近所の人々にひっそりと愛でられているに留まっていた。
それでも、そこに住まう人々が、人生の節目には、その桜の木の下で写真を撮っていたのを近所の人間は知っていた。
その家に住んでいた二人の兄弟がそれぞれ生まれた日。
彼らの母となる人がこの家に嫁いできた日。
兄が、弟が、幼稚園やら小学校に入学した日。卒園、卒業した日。
雨の日も、風の日も、来る日も来る日も、その桜の木は彼らを見守り続けてきたのだ。
だが、それも過去の話。
今やその桜の木は、花も咲かず、葉も付けず、今にも朽ち果てる寸前一歩手前の状態で、手入れもされずに放置されているのであった。
それもそのはず、そこで凄惨な事件が起き無人となったのだ。
その家で、桜と共に思い出を紡いできた人々はいなくなってしまった。正確に言うならば無人ではなかったが、残されたその一人は、事件の衝撃は勿論の事、自身が抱える問題の事もあってか、とても家屋や庭を管理できる状態には無かった。
彼らがいきなり命を奪われた理由も原因も、 犯人も分からず見つからず、確たる証拠や凶器と見られるものもなく、近隣の住人は勿論のこと警察もまんじりともせずじりじりと時を過ごしていたが、その事件から然程時を置かずに、その衝撃をも上回る大規模な水害が起きたのだ。
その結果、その事件のことは、その家の、そこに住んでいた人々のことは有耶無耶のままにされている節があった。
そして、その残された一人も、今はもう、居ない。
だから、人々は気が付くのが遅れた。
最初は、広範囲に渡って水害に遭ったせいだと思っていた。生命を育むべき大地は勿論のこと、その桜の木も疲弊し、咲く気力が少しばかり足りなかったのだろうと。なに、また次の年もあるさと、来年にはまた咲くさと笑って話した。
また次の年にも咲かなかったけれど、人間や街と同じで、まだまだ時間がかかるのさと、皆したり顔で頷き合って笑った。
そのまた次の年に、ようやく「おかしい」と誰かが指摘した。
その家の近所の梅や桃、三軒先の家の桜は活力を取り戻して復活し、芽吹き花開いたのに、何故この家の桜だけ咲かないのだと。植物に関して知識のある者が、もしかして幹が傷ついて腐敗でも始まっているのかとも疑い、専門の業者も呼んでみたがその気配も全く無く、では何故咲かないのかとやはり人々は騒めく。
業者曰く、幹の状態も、土の状態も悪くはない、すこぶる良好だと。そう、人間で例えるのならば、ただ眠っているかのような状態であるとのことであった。
言い様のしれない何かがそこにはあった。
自然と、その家の、いやそこにあった家屋は最早家とも呼べないような有様であったが、その桜は呪われているのだとひそりと囁かれ始めた。
それもそうだと、あの水害で多少は衝撃が薄れたけど、この場所で人が、しかも何人も死んだではないかと、その上陰惨な命の落とし方をしたではないかと、きっと桜はその恨みを吸っているのだと、だから咲かないのだと、人々は奇妙な現象に、理由にもならない理由をつけようと躍起になっていた。
鬱蒼と生い茂った草木。雑然とした草花。手入れも全然していないのに、年々と広がるシャガの花の面積。
この植物はこんなにも、繁殖力、生命力の強いものであったかと訝しがる人間もいたが、追及してまでその謎を解明しようとする者はいなかった。
家屋もすっかり朽ち果ていつ崩れ落ちてもおかしくはなく、そのままにしておくのも危険な状態ではあったが、それを撤去する余裕もまだないのが現状であった。地域の復興に手を回すのに皆必死であったのだ。
災害後も、時折、思い出したかのように物見高い野次馬連中が、その家の付近をうろつく気配はあったが、朽ち果てた家屋と、足の踏み入れる余裕も無い庭の様子に、すごすごとその場を後にする。
その間も、桜の花は、咲かない。
まるでその空間だけ時を止めたような桜の木、しかし年々シャガの花の面積が増えていく様は、確実に時の経過を表していた。
人々が自身の身の回りのことがあらかた片付き、ようやく他にも目を向ける余裕が出来た頃には、その庭は人間がおいそれと立ち入るには躊躇うほどへと、かなりの変貌を遂げていたのであった。
まるで、その庭への人間の侵入を遮るかのように、地面を覆うほどのシャガの群生。開花の季節になれば、一斉に花開く様は一種独特の雰囲気さえ醸し出していた。
そして、その中でも咲かない桜の花。
最初こそ、有志を募って行政に掛け合い、地域の復興に貢献したいと願った者たちも、その明らかに異様な雰囲気に、一人また一人と関わりを断ちたがる者が出てきたが、それを止める権利は誰にもなく、散り散りとなっていく。
その庭は、完全に人々の関心の外のものとなってしまった。
季節はまた巡る。
あちらこちらで春の便りが聞かれ始めた、ある日のこと。
月が雲間にちらちらと顔を隠す夜、男は会社の歓送迎会で二軒三軒と店を梯子した帰りであった。ほろ酔い加減のいい気持で帰路についていたが、夜ともなればまだまだ肌寒く、しかし酔いが回り火照りさえ覚える身体には心地の良いくらいのひんやりとした夜風に身を任せながら歩みを進める。
あと少しで家に着くというところで、男はふと視界に入ったものに眉間に皺を寄せる。
今にも消えそうな街灯に照らされ徐々に視界に入ってくるものは、今にも崩れそうな土塀。暗がりの中の為、全容こそ分からなかったものの、そこに何があるのかは嫌というほど知っていた。それに伴って、そこにまつわるいろいろな事が思い起こされていき、自然と眉間に皺が寄っていた。
その時、すっと白い影が視界を過る。
すらりとした頭身に、衣服は凹凸の少ない中華服にも似たようなものをまとい、肩の下にかかるくらいの髪を何もくくらずにそのままに後ろへと流している。こんな田舎町のこんな夜更けに一体誰だろうと思うものの、そういう自分も呑みの帰りだと己を納得させ、その次の瞬間にはぎくりと身を震わす。
影が動いたのは、その土塀の内側へ向けてではなかったかと、いや、そもそも何故この暗がりで、そこまでその人物の風体がしっかり判別出来たのかと自問自答し、どんどん酔いが抜けていくのを感じとっていた。
常ならば、その異様な雰囲気に肝を冷やして一目散に家へと逃げ帰っている男であったが、まだ酔いが完全には抜けきっておらず、気が大きくなっていたのか、怖いもの見たさなのか、その白い影の後を恐る恐るつけていく。
そこで男が見たものは。
雲間から顔を覗かせた月に照らされ、散りゆく間際の力強さを見せつけんばかりに鮮やかにしなやかに、夜空に皓々と白くほのかに輝き、静かに咲き誇る一本の桜。
あたり一面のシャガの花が一斉に花開き、入り口からその桜の木の元へと向かってまるで切り拓くかのようにそこだけ道ができている。
思わず声を上げそうになるのを、男は懸命に堪えた。そこには半ば忘れ去られ放置された荒れ地が広がるだけであったのに、今朝この道を通った時には咲く気配すら微塵も感じられなかったのにと、誰ともなくまくし立てたくなるのを耐えた。
声を抑えるのに必死でそもそもの目的を忘れそうになった男であったが、その桜の木の下に何かを見つけて、思い出す。
その「何か」が、例の白い影だと認識出来るくらいに目が慣れてきた頃、静かな声が聞こえてくる。然程大きな声ではなかったが、日付も替わろうかとしているこの時分、無音にも等しいこの空間でその声はよく通った。
「…今まで、ありがとう。僕らのことを見守ってくれて、ありがとう。お疲れさま……」
途端、ごうと音がして風が巻き上がり、男は突然の強風に目をつぶってやり過ごす。高層エレベーターに乗った時のような急激な気圧の上昇も感じ、耳を押さえて蹲って暫く耐えていたが、不意に風が止んだ。
男がばっと上体を起こして先程の光景を今一度確認しようとすれば、月明かりもなく依然として暗闇のまま、そこには今朝と変わらずの様子を見せる荒れた庭と寒々しい様子の桜の木があるのみ。
視線が虚空をさ迷い、男は何度も頭を振るも、二度と先程の光景を目にすることは叶わなかった。
急に怖くなった男は今度こそ一心不乱に家路につく。あまりの動揺ぶりに家の鍵を開けるのにも一苦労し、その騒ぎで家人が起きてくる有様であったが、男は口を噤んで、先程見たことを一切口にはしなかった。たとえ仮に一切合切を話したとしても、酔っぱらいの戯言だと一笑に付されるのが目に見えて明らかであったからだ。
男はそそくさと布団の中に潜り込むも一向に眠れず、漫然と時間を過ごすも、ようやく襲ってきた眠気にとろとろと身を委ねて始めていたその時。遠くで獣の遠吠えのような鳴き声と、ふと鼻につく潮の香りを、沈みゆく意識の中で感じながら眠りにつくのであった。