一応青春もの
桜 駅
ネムさま
2018/04/03(Tue) 00:08 No.189
規則正しい音に合わせて、足元に映る吊り輪の影が揺れている。
いつもなら、そこに掴まる人々がぎっしり乗り込んでいるのだろうけれど、日曜の朝ともなると、私鉄の普通列車の車内には人影もまばらである。早朝練習でもあるのか、楽器ケースを抱えた女子高生が二人、周囲の静けさに遠慮しながらもしゃべり続けている。それを見遣りながら橋上はぼんやり思う。
― あの女子高も、スカートが随分短くなったな ―
そして親父目線の自分に苦笑し、チェック柄のスカートと健康的な膝小僧から目を逸らす。
彼は高校時代、男子校に通っていたが、電車通学の連中からは、いつも同じ電車に乗る近所の女子高校生達について聞かされていた。彼自身は趣味に没頭し“オタク”扱いだったが、それでも幾度か“グループ交際”の人数合わせに引っ張り出され、気になる子がいないことも無かった。あのまま何事も無く高校生活が過ぎていれば、それなりの想い出も出来たかもしれない。
逸らした視線を窓の外へと移すと丁度橋を渡るところで、さほど広くない河川の両側に、満開の桜堤が見えた。その、あまりにも明るい風景に、思わず目を伏せると、再び彼は昨夜のことを思い返し始めた。
「ああ、月曜日は俺と後藤さんが空港まで付き合うよ。次の帰国はまた半年後だって言うし― もちろん、最初の乾杯はビーカーだ。野末が準備しといたってさ― じゃあ、明日の晩な」
杉崎からの電話を切ると、橋上は伸びをした。ビデオデッキやテープ類で埋め尽くされた部屋は高校時代から変わらず、棚と棚の隙間にうっすら積もる埃が、部屋の主の不在の長さを物語る。それらを見ながらボンヤリしている橋上の耳に、窓ガラスの鳴る音が聞こえた。
不審に思いながらカーテンを引くと、窓の向こうには月に照らされた隣家の屋根と、庭の桜の花が目に映った。窓ガラスを開けベランダに出た橋上は、不意に潮の臭いを嗅いだ。
体中が泡立つのを感じながら、ゆっくり周囲を見回す。月明かりに淡く浮かび上がる白い花の中に、いつの間にか黒い影が揺らいでいる。
異国の衣装に鋼色の長い髪。だが見た瞬間、橋上にはその少年が誰か、分かってしまった。
「… お久し振りです、橋上さん…」
思わず膝を着いた。吐き気に似たものを感じ、手で口を覆う。そして、ここが二階ということ、少年が何かに跨っていると気付くと、体中に震えが走る。
また少年が何か言い掛けた。恐怖が沸点に達し、橋上はむしろ怒りが込み上げてきた。
「何しに戻って来た。高里」
声が掠れている。そうした自分の情けなさを感じ、更に言葉に怒りが増す。
「どの面下げて、戻って来たんだ」
「… ごめんなさい …」
「! 謝って済むことか!!」
幼い言葉に、橋上の怒りが爆発した。
「何人死んだと思ってるんだよ!俺達3年生は体育館にいたから良かったけど、それでも教室に戻って巻き込まれた奴らもいたんだ。助かっても築城みたいに片足が不自由になったり、杉崎や野末も一晩壊れた建物の中に閉じ込められて、今だに灯りを消して眠れないんだぞ」
「… … …」
「広瀬さんは逃げるみたいに外国へ行っちまったし、後藤先生達だって色々言われて…」
気付くと涙が流れてきた。あの頃はクラスメートの葬式でも泣けず、半ば呆然としたまま他県へ転校し、そのままここへは帰らなかった。
「俺は後悔したんだ。何であの時お前を庇ったんだろうって。そうでなきゃ、あんなこと…」
高里を祀り上げようとした坂田が事故で死んだ時、詰め寄る生徒達を抑えたのは橋上だった。高里が退学すると言い、それで全てが収まるはずだったのに。橋上の脳裡には決して忘れることが出来ない、あの日の惨状が浮かんでいた。
いつの間にか橋上の肩や腕、膝の上にも桜の花びらが落ちていた。微かな風がその花びらを、また吹き散らす。
「… それでも、化学準備室の皆には、本当に感謝しているんです…」
月影のような淡い声に、橋上は頭を上げた。月は傾き、高里の顔は見えない。
「明日、ここへ来て下さい。貴方を待っている人がいます」
不意に一陣の風が吹き、一瞬閉じた瞼を開くと、周囲に人影はなく、ベランダの上には一面の花びらと、駅名と時間の書いた紙が一枚、残されていた。