徒桜は雨に散りぬ
ふみさま
2018/04/28(Sat) 09:37 No.470
「雲海の下では雨が増え始めたようですねえ」
書房に書簡の束を運んできた青喜がそう呟いたのを聞いて、朱夏は書卓に向かったまま頷いた。
「ええ。まだ治水が完全でない所もあるから、慎重に確実に進めていかないと作物が無駄になってしまうわ」
「はい、そうですね、大司徒」
朱夏はくすぐったくなって小さく笑む。青喜が正式に地官に登用されてもうそれなりの時間が経つけれど、時々こうやって官職名で呼ばれるのはなにやらおもはゆいものがあった。
青喜がそれを目ざとく見つけてふっくらとした頬を膨らませる。
「ああ、またお笑いになった。私だって今はちゃんとした地官の一員だって、仰ったのは姉上じゃないですか」
「だって、まだ慣れなくて」
「もう……。そんなことなら、このお茶は私が飲んでしまおうかな」
朱夏がやっと振り返ると、青喜は書簡を持っていたのと反対の手らしき片方の手で器用に茶器の盆を持っている。朱夏は笑みを深くして持ったままだった筆を置いた。
「ごめんなさい、いただきたいわ」
「はいはい」
二人でくすりと笑う。書卓の脇にある小さな卓子に茶器を広げて、朱夏はふう、と息を吐いた。
「お疲れですか、姉上」
「まあね。あの頃の何十倍だって忙しいし神経が尖る……」
言ってから朱夏は「あの頃」を思い出す。砥尚と共に知らず道に迷っていたあの頃。そして、もう何度、あの季節が通り過ぎていっただろう。自分が、砥尚が、栄祝が、己の無能という罪を悟った、あの春。
視線を園林に転じればもうあの時のような桃の花はなくて、後を追うように咲いた桜が散りゆこうとしている。朱夏はぽつりと呟いた。
「桜、」
青喜が続きを促すように首を傾げる。朱夏はなんでもないの、と苦笑しながら先を続けた。
「ここではまだ桜が咲いているけれど、雨が降ったらもう下では散ってしまうのだろうと思ったらなんとなく切なくて」
「珍しく感傷的ですね、姉上がそんなことを仰るなんて」
「そうね……。どことなく、桜が砥尚と重なるときがあって、それで、なのかもしれないわ」
「そうなんですか?」
朱夏は一口茶をすする。本当なら桃の花のほうが似合いそうなものなんだけれど、と言い置いて目を伏せた。
「桜って、一旦散り始めると散るのが早いじゃない? それが、なんだか、ね」
そうですか、と青喜は神妙に相槌を打つ。しばらく沈黙が落ちて、青喜がふと微笑んだ。
「砥尚さまが桜なら、きっとこの国に春をもたらすために王になられたんでしょうね。そして春の終わりの雨で潔く散っていかれた」
朱夏は目を見開く。青喜はにこにこと笑んでいる。
「ということは母上は夏の花かなあ。あ、姉上の字にだって夏の字が入っているじゃありませんか。姉上の季節ですね、お仕事頑張らないと」
「……そうね」
朱夏が頷いたのを見て、青喜はてきぱきと茶器を片付けた。
「それでは大司徒、私はこれにて下がらせて頂きます」
急にかしこまった言い方に朱夏はまた笑う。青喜もまた笑って、書房の外へと出て行った。
「……この国に、春を」
朱夏は園林を見やって呟いた。発想が青喜らしいなと少し思う。
春をもたらした砥尚を散らしたのは、民の涙という雨だったのだろうか。そして桜の記憶がいつまでも廃れないのと同じように、砥尚は忘れることなどできない教訓を散り際に残していった――。
「……ずいぶん詩的ね」
自嘲するように朱夏は笑って、でもたまにはこういう空想にふけるのも悪くないと思った。