「投稿作品集」 「18桜祭」

お邪魔します 縷紅さま

2018/05/06(Sun) 12:59 No.527
 いつもお久しぶりですになってしまうご挨拶がちょっと恥ずかしいですが、 今年もお邪魔します。(毎度書き逃げ状態で申し訳ないです、ホントごめんなさい)

 断片メモ集からいくつか繋いでみたら、桜の話になったので投稿させてくださいね。

葉 桜

縷紅さま
2018/05/06(Sun) 13:05 No.528
伸びたばかりの柔らかな梢が風に揺れる。
葉擦れの音がさやさやと囁きかける。
枝の先端にある若い葉の赤さは、翡翠色の瞳の眦を彩る紅のよう。

花びらをすっかり落とした桜の木は、盛りの頃の華やぎがまるで夢であったかのようにひっそりと静まり返った園林に佇んでいた。

その下には一人の翁。
真っ白い髪で髷を結い、口元には白い髭が蓄えられている。
彼は痩せて皺の目立つ指で枝先の葉をそっとなぞった。
いたずらな風が指の先から紅を盗みとると、彼は遥かな時の彼方を見つめるように眼を細めた。


お前のものには、なってあげない――

そう言って、笑った女(ひと)がいた。
その髪も柔肌も、全てを与えてなお笑う。
夢に現に匂い立つのは桜花。

戯れに触れた唇が、夢を追うように離れていった。
艶やかな紅い髪がさらりと揺れて遠ざかるのを、彼がどんな瞳で見つめていたのかその人は知らない。くるりと背を向けて空を見上げる愛しいものの姿に、彼は小さく息を吐き、逡巡して、微かな諦念を含む笑みを浮かべた。

蜉蝣の薄羽に似た生絹(すずし)を幾重にも重ねた優雅な襦裙を纏いながら、少年のごとき所作で、彼女は四阿の丹塗りの柱に手を掛け身を乗り出してみせた。伸ばしたその手の先には、四阿の屋根を覆うように伸びた桜の枝がある。

あと少し、あと少しと伸ばしても、ほんの僅か届かない指先は空を切るばかり。それでも諦めずに爪先立ちして手を伸ばす様子をからかうように花は揺れている。彼はその細い肩に手を添えて囁いた。

「この枝をご所望でございますか」

揺らさぬように散らさぬようにとそっと枝を引き寄せた、男としては繊細な指先の爪は心憎いほど丸く滑らかに整えられていた。

他の枝の蕾はまだ固く小さく閉じている。何の具合かこの枝先だけ、少しばかり早く咲いてしまったのだろう。一輪の白い花は花弁の中心近くだけが薄紅に染まっていた。彼女の指が花弁に触れる。はらりと、雲海に向けて零れ落ちていった。それは冬の終わりの雪に似て。

「ああ、散らせてしまった」

彼女はぽつりと呟いた。

「申し訳ございません」と咄嗟に彼の口からでた侘びの言葉に、お前が謝ることではないさと、そっけない声が応える。
花びらの行方を見下ろす横顔に、ほんの一瞬だけ虚無を纏って。
目で追うことが叶わなくなっても、彼女の瞳は見えぬ何かを見つめていた。そしてゆっくりと顔を上げ振り返る。

「花は咲ききれば散る。それだけのことだ」

この辺り一面が花吹雪になる頃に、もう一度お前と見たいなと微笑んで見せる。
その微笑が、零れ落ちていった散りぎわの桜花のようで不意に男の胸に焦燥が走る。しっかりと掴まえていなければ、もう二度と戻らないところへ行ってしまう、と。

「何て顔をしているんだ、具合でも悪いのか?」

目を覗き込むように見上げてくる彼女を思わず抱き寄せると、紅髪に挿した花簪がさらさらと音を立てた。たったいま散っていった白い桜花に似た小さな花が丸く束ねられ、そこに銀の雨のような水晶の小粒が繋がれた細い細い鎖が幾筋か添えられている。

二度でも三度でも、この桜が咲く限り主上と伴に――――と彼は囁き耳の後ろに唇を沿わせた。

「永遠なんて誓わなくていいよ」

唇の感触にほんの少しだけ肩を竦めながら、彼の背に自ら腕を回して彼女は言う。彼女自身にも同じことを言い聞かせているかのように、ゆっくりと。

「人の心だって花と同じ、時を重ねればうつろうもの。そのとき、そのときの心に忠実ならそれでいい」

それでいいと言いながら、彼女は小さくため息を吐いた。

「もし王ではない私がお前のものになりたいと言ったら、お前はその手をとる?」

それまでの声の色と違う、少し茶化すようでいて、何かが霧に包まれたような声が訊ねる。その言葉に秘められた彼女の思いに気付きながらも、彼ははっきりとした言葉で「いいえ」と返した。

「容赦ないな」

彼女はくすりと笑った。
それは何故かとは彼女は問わない。彼も言葉を重ねない。

王には王である以外のどんな生き方も許されない。彼女が王であること、それは不可分でどちらが欠けてもこの世界は彼女と王と両方を失う結末を迎える。繋ぎとめようとどれほどきつく抱きしめても、決して、そう決して彼ひとりのものになることはないのだ。

「ああ、いつか格好いいおばあちゃんになりたかったなあ――」

彼の腕の中から離れ、組んだ手を高く延ばしながら彼女は言った。
青い空にささやかな願いの言葉が溶ける。
平凡に生きて平凡に死ぬ。それは彼女に唯一できないことだ。

彼女の願いを知りながら、それを叶えることはできない。
男として、臣下として、歯がゆさを身にしみて感じながらも、だからこそ彼は、王である彼女の全てを受け止め、時に冷徹なまでに王であることを要求してきた。これまで、そしてこれからも。

慶という国を支えるためにはそれしか選ぶ道がないのだと言い訳をしても、それはただ、彼が愛する者を失いたくないという卑小な願いでしかない。

いつか分かれ道が訪れた時に、互いの顔が笑っているだろうなどと夢想はしない。そこにあるのは憎しみに醜く歪んだ顔か、あるいは深く身を抉る慟哭か。しかしそれは紛れもなく互いが生きて二つの時を重ねた証なのだ。

「私はお前のものにはなってあげない。お前の望むとおり王であり続ける。だから、ねえ。今はお前が私のものになってよ。この桜の木の花が咲いて散るまでだけでいいから」

子供の他愛のない我侭に苦笑するような表情を彼が浮かべると、ようやく彼女も晴れやかに笑った。
彼女が自分の未来に何の予感を感じているのか、彼はあえて考えることをしない。
いつか彼女がこの世界から消えるときも、きっと自らの意思で運命を選び取る高潔な王であり続けるだろう。そのことを誰よりも彼は信じているのだから。

閭胥さま、と控えめな娘の声が聞こえた。
声の方へ振り返ると、小走りに来たのだろう頬を薄紅色に上気させた少女が立っていた。少女は来客を伝えると、翁の手を取り小高い園林から里へ下る石段を下り始める。

「あの桜がお好きなのですね。去年の春も、一昨年も、よくこうして最後の花が散って葉桜になるまで毎日のようにおいでになって」

あの木には何か由来でもおありなのですかという問いかけに、翁は微笑んで答えた。

「あれは昔、儂が宮仕えをしていた頃に、王宮にあった桜を頂いたものなのだよ」

妻がその花をとても愛していたのだと。
そう語ると少女は特別な秘密でも聞いたかのように目を丸くしてみせた。
そして、夢見るような表情で雲上人への憧れを口にする。

いつかこの娘も、たった一つの譲れない思いを抱き自らの道を選び取るときがくるだろう。その時にはあの高潔な女王のことを話してやれるかもしれない。彼は穏やかな微笑みの中でそんなことを思い浮かべた。

その頃には、おそらく彼の生きる「時」も終わりを迎えるだろう。


願わくばそれが、この木の下で春であらんことを――



(了)

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背景画像「素材屋 flower&clover」さま
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