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月 影げつえい (3)

* * *  5  * * *

 尚隆を見送った後、陽子は牀を降り、服を着た。そのまま露台に進み、雲海を見つめた。潮の香り、打ち寄せる波の音。心が落ち着き、澄んでいくのを感じた。

 今まで訳もわからず逃げ惑い、襲ってくる妖魔と戦った。楽俊に拾われるまでは、野木の下で涙していたのだ。あれから何ヶ月もたっていないというのに、陽子はいくつも年をとったような気がしていた。
 何も知らなかった。自分がいかに無知か、知ろうともしていなかった。こちらのことを学ぶにつれ、自分の愚かさが怖くなった。景麒に選ばれたからには陽子こそが景王だ、と言われても、鵜呑みにはできなかった。自分がしてきたことを省みると、決して王の器ではないと断言できるほどだった。

 楽俊は、陽子がどうして迷うのか分からない、と言った。が、陽子にしてみれば、延王尚隆を前にして、自分が景王だと認めるのは抵抗があった。
 尚隆は見るからに王の風格がある偉丈夫だ。陽子がてこずった妖魔を鮮やかに平らげた。普通に話をしているだけでも、威圧され、呑まれそうになった。泰然とした態度の中に、面白がっているようなところもあり、なんとも捉えどころのない人物だった。
(私の着替えに男物の袍を用意してくれたっけ……)
 陽子はくすりと笑った。そのとき楽俊は、女と分かってて用意させたなら、洒落た方だ、と評していた。あいにく陽子にはそんな余裕はなかったが。

 尚隆は無理に王になれとは言わなかった。あちらに帰りたいなら延麒に送らせる、とも言ってくれた。当の六太は、災害になるから嫌だ、景麒を説得してからにしろと盛大に文句を言っていたが、尚隆は、本当に命令したときには麒麟は主に逆らわないので大丈夫だ、と請負った。公正な人だと思う。
 六太は、尚隆は胎果の王に増えて欲しいんだ、と笑った。そして、延王・延麒・今は行方不明の泰麒と三人の胎果がいて、陽子は四人目だと教えてくれた。尚隆が陽子に寄せる親しみには、そういう訳があったのか、と陽子は納得した。
 尚隆が陽子を見る眼は、いつも温かかった。だからこそ、陽子は率直に言えたのだろう、故郷あちらに帰りたい、と。正直言うと、本当に帰りたいかどうか、自分でも分からなかった。今まで、帰ることしか考えてこなかった。そうでなければ、生き延びることなど、できなかった。

 よく生き延びたものだ、と尚隆は言った。涙を堪えることができなかった。延王であるこの人の前でだけは泣きたくなかったのに。尚隆は、お前が景王だ、とあっさり断言し、陽子は王気を具えていると言ってくれた。その人の前で泣いては、ますます失望させてしまうような気がした。
 しかし尚隆は陽子を抱き寄せ、泣けるときに泣いておけ、と言った。これからそんな暇は無くなるから、と。この人は自分を受け入れてくれる、と思った。陽子は声を上げて泣いた。そして、初めて安らかな眠りについた。

 翌朝、女官に起こされたとき、尚隆は既にいなかった。朝食の席で顔を合わせたときも、なんら変わらない態度だった。
(夢、だったのだろうか……?)
 そう思ったほどだった。しかし、夢ではなかった。

 尚隆はまた夜半に現れ、お前を口説きにきた、と笑った。そして、お前が俺の運命だ、と言った。天啓が下りたのだ、と。意味がよく分からなかった。からかわれているのかと思った。
(この人はいったい私に何を求めてるの……?)
 水禺刀で見た塙王の愚かさを、陽子には他人事ひとごととは思えなかった。だからこそ、ましな人間になりたければ玉座に就いてましな王になれ、という楽俊の説得を受け入れたのに。また決心が揺らぐような気がした。
 尚隆は重ねて言った。選ぶのはお前だ、と。そして静かに陽子の返事を待っていた。その顔は微笑を浮かべていたが、陽子には尚隆の本心を読み取ることはできなかった。逆に自分の心を見透かされてしまうような気がして、目を逸らした。そのとき──。
 頤に指がかけられた。と思うとすぐ、唇が重なった。息が止まるほど驚いた。軽く触れて離れた唇が、もう一度静かに語った。

「お前が、俺の運命だ」

 じっと見つめられて、目眩がしそうだった。延王、と呼びかけた陽子に、尚隆は首を振った。なおたか、と呼んで欲しい、と。そういえば、このひとは最初から、小松尚隆なおたかと名乗っていた。延王でもなく、ショウリュウでもなく。尚隆は胎果の王に増えて欲しいんだ、という六太の言葉を思い出した。
 しかし陽子は躊躇った。このひとは、隣国の王。しかも、稀代の名君と称えられる偉大な存在。それに比べてわが身は──。盗み、脅し、逃げ暮らした浅ましい日々が甦る。水禺刀は見せつける。暗い瞳をした、荒んだ自分を。──私が延王あなたに相応しいとは思えない、と自嘲気味に呟く。このひとは、陽子にとって、眩しすぎる存在だった。

「それはお前が決めることではないな」

 尚隆は片眉を上げて微笑した。そして断言する。俺の伴侶は俺が決める、他人がどう思おうと関係ない、と。尚隆は諭す。お前が選ぶのだ、お前の道を。
 陽子は、はっとした。前に似たようなことを楽俊が言っていた。おいらが陽子を信じたいから信じるんだ、それはおいらの問題であって、陽子がどう思おうと関係ない、楽俊はそう言って笑った。

 そうだ、陽子は己の進む道を己の意思で選ぶのだ。人の思惑など、気にせずに──。

 陽子は尚隆を見つめ返した。決心がついた。
 やってみます、と答えた陽子を、尚隆は抱きしめた。口づけを受けながら、身体が震えるのを感じた。耳許で、夜這いの意味を教えてやろう、と囁かれた。そう言われてやっとその意味を悟った。恥ずかしさでいたたまれなくなった。陽子はしっかりしてるようでウカツだな、と楽俊に呆れられたことを思い出した。

 怖いか、と笑われた。見透かされているようで悔しい。違う、と首を振った。不意に押し倒された。悲鳴を堪える。容赦なく唇を塞がれた。長い口づけの後、尚隆は少し意地悪な顔をして、正直に言ったほうがいいと思うぞ、と笑う。どうしても怖いと言わせたいように見えた。
 涙が滲むのを感じた。それでも陽子は首を振った。楽しげに笑う顔が憎らしい。その腕から逃れようとしたが、強い力で押さえつけられた。力では敵わない、分かっていても涙が零れる。それでも、認めたくなかった。力に屈するのは嫌だった。
 強い怒りが爆発した。尚隆は沈黙したが、陽子の身体を離さなかった。機嫌を取るように唇で涙を拭った。そして、お前に嫌われたくないからな、と苦笑した。
 身体の力が一気に抜けた。このひとがそんなことを言うなんて、信じられない。
 別に、俺が稀代の名君というわけではないが──と尚隆は苦笑する。小娘が己の目を信じられないのならば、お前の言う、稀代の名君の見る目を信じてみる気はないか? おどけた口調だったが、その眼は真剣だった。信じてみよう、と思った。そして陽子は尚隆に身を委ねた。

 尚隆は優しかった。その労るような手や温かい唇に触れられるたび、身体が開かれ、荒んだ心も癒されていった。最後の扉を自ら開き、陽子は尚隆を受け入れた。
 こんなに強く己の存在を求められたのは初めてだった。尚隆の五百年もの孤独を感じた。その深淵を垣間見たような気がする。それを己が埋められるとは思わなかった。ただ、その昏い闇に灯りを点してあげたかった。そんな想いを込めて、陽子は尚隆を抱きしめた。尚隆は薄く微笑み、安らいだ顔をして眠りについた。
 息がかかるほど傍近くに尚隆の顔があった。その寝顔を見つめると、熱い涙が込みあげてきた。

 求められて逃げるのは、卑怯だと思った。
 求められて与えるのは、傲慢だと思った。
 求められたら、受け入れればよいのだ。

 尚隆を受け入れることは、こちらを受け入れることだ。こちらを受け入れれば、もう逃げ惑うことはないのだ、陽子はそう悟った。視界が開けたような気がした。 

 回想に沈みこんでいた陽子は、不意に他の気配に気づいた。殺気はない。陽子は振り向かなかった。現れた人物も何も言わず、陽子の隣で静かに雲海を見つめていた。
 「月影」はワードに縦書きしてました。 横にすることを意識していなかったので、編集が難しいです。 とかいって、ルビ足して編集し直してみましたが。
 この頃の陽子は、まだ頑なですね。 色々と酷い目に遭ってきたのだから仕方のないことですが。
 今、改めて読み返すと、かなり恥ずかしい場面です……。

2007.12.04. 速世未生
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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