月 影 (5)
* * * 7 * * *
三度目の朝食の席に臨んだ陽子に、皆の視線が集まった。陽子は大きく息を吸い、ゆっくりと皆の望む言葉を口にした。
「──やってみます。まだ、自信は持てないけれど……」
その場の緊張が一気にほぐれた。尚隆は満足そうに、六太は励ますように、そして楽俊は嬉しそうに、皆が笑顔を見せた。皆が陽子の決心を待っていたのだ。
「──よく決意したな」
皆の気持ちを代表するかのように尚隆が言った。陽子はぎこちない微笑を浮かべ、頷いた。
「はい。──それで」
私は何をすればいいのか、と陽子は目で問うた。景麒を取り戻さなければならない。でも、どうやって? 尚隆は口許に薄い笑みを浮かべ、何気ない口調で訊ねた。
「人を斬ったことはあるか?」
「……いいえ」
「人を斬る覚悟はあるか?」
今度は陽子の目を見据え、尚隆は畳みかけるように言った。物凄い威圧感だった。陽子は返答に窮した。場に緊張が走る。楽俊が身を硬くしたのが見えた。
「尚隆!」
六太が咎める声をあげたが、尚隆はそれを手で制した。そして、厳かに諭す。
「覚えておくがいい。玉座などというものは、血で購うものだ。たとえ天から無血で与えられても、玉座を維持するためには、どこかで血を流さざるをえない」
陽子は無言で頷く。威厳を放つ尚隆から視線を外しはしなかった。尚隆は陽子の覚悟を見て取り、再び口の端に笑みを浮かべて訊ねた。
「怖いか?」
陽子は躊躇わずに頷いた。それは認めなければならないことだった。その素直な反応に、尚隆は微笑した。
「関弓にいてもいいのだぞ」
陽子は肯じなかった。きっぱりと言い切る。翠の瞳が勁い光を帯びて輝いた。
「──これは私の戦いだから、隠れているわけにはいかない」」
「それでは及ばずながら助力いたそう、景王陽子」
「ありがとうございます、延王」
陽子は頭を下げた。楽俊が大きく息をついた。尚隆はそんな楽俊を見やって、大きく笑った。
「驚かしてすまなかったな、楽俊」
「い、いえ」
楽俊が口籠もる。六太が仏頂面で言った。
「尚隆、いい加減にしろ。飯が不味くなる」
せっかくその気になった景王に、水を差すようなことを言うなんて、どういうつもりだ。六太はそう言外ににおわせ、心配そうに陽子を見た。六太の視線に気づいた陽子は、大丈夫、と言うように微笑を返してよこす。その瞳は揺るぎなく、輝かしかった。六太は感嘆した。横目で尚隆を見る。その尚隆は何事もなかったかのように食事を続けていた。
その後も陽子は、楽俊でさえ気づかぬほど、いつもどおりだった。尚隆とのことは他言無用にしろ、と忠告したのはほかならぬ六太なのだが、気丈な娘だ、と思う。ただ、そこまでしなければならないのか、とも思った。陽子が不憫だった。
微かな血の臭い──尚隆はまだ蕾の花を手折ったのだ。
そんな苦い思いが六太の頭をよぎる。その上、こんな仕打ちを受けて。しかも、本来守ってくれるはずの男から、なのだ。自らの主を見つめる目が、つい険しくなる。
「──六太」
尚隆が溜息をつく。
「苦情なら後で聞く。その顔では客人に失礼だ」
よほど蹙めっ面をしていたらしい。誰がこんな顔をさせたんだ、と怒鳴りたい気持ちを、六太は堪えた。陽子が宥めるように目配せを送っている。その視線の先には楽俊がいて、はらはらと成り行きを見守っていた。六太は黙って頷いた。
朝食後、尚隆と陽子は軍議に入った。戦を厭う延麒六太は黙して聞いていた。楽俊もそれに倣った。
「──景麒は征州維竜に捕らわれている。少数精鋭の空行師で雲海から奇襲をかける。目的は景麒奪取のみだからな。それでよかろう」
「はい。それで、いつ?」
「明日だな」
「──はい」
いよいよ始まる。景王としての第一歩を踏み出すのだ。陽子は緊張を隠せなかった。そのとき、決然とした声がした。
「──おいらにも手伝わせてください」
黙して控えていた楽俊だった。陽子は愕然として叫んだ。
「楽俊! それはできない。お願いだから、関弓にいて。危険なんだ」
「陽子が戦いに出るって言うのに、おいらが関弓でじっとなんかしてられねえよ。確かに剣を振るうことはできねえが、何か他にできることがあるはずだ」
きっぱりとそう言う楽俊の決意は固かった。陽子は嘆息し、尚隆と六太に助けを求める。尚隆は笑みを浮かべて首を横に振り、六太を見た。その視線を受け、六太は軽く肩を竦める。
「じゃあ、手伝え。おれは戦えないから、州侯の説得に行く。一緒に来てもらおう」
「ありがとうございます」
楽俊は目を輝かせた。陽子は苦い顔をした。そんな陽子に、楽俊は穏やかに語りかけた。
「陽子、友達が困ってるときには手を貸すもんだろう。おいらのことを友達だと思ってくれてるなら、これくらいさせてくれ」
「楽俊……」
陽子はもう何も言えなかった。ずっとずっと助けてくれた、ただ一人の友達。この人に何か返してあげられるのだろうか、と陽子は思った。俯く陽子の肩を、六太が励ますように叩いた。尚隆がしみじみと言った。
「良い友人を持ったな」
陽子は、ただ頷くことしかできなかった。
「風の万里 黎明の空」で陽子が尚隆の言葉を回想するシーンがありました。
「──どうせ玉座など血で購うものだ」
どんなときに言われたのだろう、そんな場面を書いてみたい、と思っていました。
そんな尚隆のかなりシビアな問いかけを受けとめ、陽子が玉座につく決心をしてくれました。
偽王軍と戦っているときに、いろいろな話をしたんだろうな。
そんなふうに妄想は膨らむばかりでした。
2006.03.12. 速世未生 記