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月 影げつえい (6)

* * *  8  * * *

 陽子はその夜も眠れずにいた。夜風を吸いに、露台に出た。欄干に凭れ、雲海を眺める。溜息がひとつ漏れた。今夜は話し相手がいない。楽俊は、六太とともに一足先に慶に向かって発っていた。
 ここまで楽俊を巻き込んだ。行き倒れた陽子を拾い、介抱してくれた人を。陽子の話に黙って耳を傾け、こちらのことをたくさん教えてくれた。胎果の延王に頼ろうと提案し、妖魔に襲われる旅にも躊躇わずにつきあってくれた。疑いを隠しもせずに利用し、怪我をすれば見捨て、止めを刺そうとまでした陽子を、信じて待っていてくれた。

 他人ひとを信じる、ということを教えてくれた恩人──。

「おいらは陽子と違って戦に行くわけじゃねえから、大丈夫だ。そんなに心配すんな。延台輔もご一緒だしな。陽子こそ気をつけろよ。お前は王になる大事な身体なんだから」
 旅立つ前に、そう言って笑った楽俊。いつも自分のことよりも、陽子のことを気遣う。どうか無事で。陽子には祈ることしかできない。
 そして明日の早朝、陽子もまた慶に向かう。自身の麒麟を奪還するために、戦を仕掛けるのだ。

(──人を斬る覚悟があるか?)

 尚隆の問いが、まだ胸に響いている。生きるために妖魔と戦ってきた。人に剣を向けたこともある。だが──。斬ったことは、ない。見透かされている、と思った。偽王軍と戦うということは、人に剣を振るうということだ。その覚悟なく戦場に赴けば、生きて帰ることはできないだろう。

(──怖いか?)

 そう問われ、頷くことに躊躇いはなかった。己の弱さを認めなければ、敵と対峙したときに怖けるに違いない。そう想像しただけで、涙が零れそうだった。欄干を掴む手が震えた。

(──玉座など、血で購うものだ)

 そう、玉座に就くことを選んだのだ。逃げることの許されない道に、足を踏み入れてしまった。怖い、と叫びたかった。だが、それは口に出してはいけない言葉だと、よく分かっていた。怖さを認めることと、自ら口にすることでは、全く重みが違うのだ。陽子は欄干に突っ伏し、涙を堪えた。そのときだった。

「──無理をするなと言ったろう」

 背後から聞こえる、溜息混じりの声。陽子は反射的に振り向いた。窓辺の柱に凭れ、ゆったりと腕を組んだ尚隆が立っていた。

 どうして、このひとがここに──。

 陽子は動けなかった。どうして、このひとの放つ圧倒的な気配に気づけなかったのか。どうして、こんなに情けないところばかり見られてしまうのか──。涙に潤んだ瞳をまた雲海に戻した。見られたことを恥じていた。
 不意に背中が重くなる。後ろから抱きすくめられていた。耳許に吐息を感じた。いつから見ていたのか、と咎めようと顔を上げた。が、言葉を発する前に唇が落ちてきた。残っていた僅かな意地が折れた。口づけを受けて、陽子はそのまま尚隆の胸に身を預けた。身体がふわりと浮いた。
 軽々と抱き上げられた。ゆっくりと堂室に戻った尚隆は、陽子の身体を抱えたまま牀に腰を下ろした。
「あまりお前を苛めてくれるなと六太に叱られた」
 尚隆はそう言って苦笑した。怒声を上げて尚隆に詰め寄る六太を想像して、陽子はくすりと笑った。
「ようやく笑ったな」
 尚隆は、ほっと息をついた。陽子は首を傾げて尚隆を見上げた。慈しむような眼差しが向けられていた。その瞳をもう少し見つめていたかった。それなのに、微笑を浮かべた唇が、陽子の眼に滲む涙を拭う。陽子は目を開けていられなかった。優しい感触が、頬を伝い、唇に辿りついた。
 長い口づけの後、そっと牀に横たえられた。何かを問うような、深い色を湛えた瞳にじっと見つめられて、目眩がしそうだった。目を逸らそうとしたが、それは許されなかった。大きな掌がそっと陽子の頬を包んだ。戸惑いに睫毛が震えた。瞳の奥まで覗きこむような視線に耐え切れず、瞼を閉じた。
 再び唇が重なり、きつく抱きしめられた。その腕の強い意志に、呑まれそうだった。身体が少し震えた。腕の力が僅かに緩んだ。

「──怖いか?」

 心配そうな声。陽子は微かに首を振った。陽子を見つめる瞳は、本当か、と問うていた。このひとには心を隠せない。

 そう、怖いのだ。

 このひとに抱きしめられると、自分を保てない。その胸は心地よくて、泣いて、甘えて、縋ってしまいたくなる。このひとがいなければ、立つこともできなくなりそうで、怖いのだ。

「あなたが怖いわけじゃない……」

 そう呟くと、涙が零れた。尚隆はそんな陽子に優しく微笑み、髪を撫でてくれた。その腕にずっと守られていたい。が、それは叶わぬ夢だ。明日には戦場に向かう。自身の麒麟を取り戻すために、己の手で剣を振るうのだ。そう思うと、優しい腕に甘えきれなかった。涙が溢れて止まらなかった。

「──お前は俺を責めないな」

 やがて尚隆は囁くようにそう言った。それは自嘲めいた呟きだった。
「何故?」
 陽子は訊ねずにはいられなかった。身に覚えがない。突然そんなことを言われて困惑した。その問いに、朝の件だ、と苦笑が返ってきた。
「六太は、俺がお前を苛めすぎだ、と怒ったぞ」
「──胸に響く忠告を受けただけなのに」
 そう言って、陽子は口許に笑みを浮かべた。そんなことを気にしていたのか、と思った。延王は、初陣を控えた隣国の王の雛に、真摯な助言を与えてくれた。王者の威厳を見せてくれた。感謝することはあっても、責めることなどあろうはずもない。
 尚隆は目を見張った。
「本気でそう思ってるのか?」
「違うの?」
 陽子は狼狽えた。このひとのこんな驚いた顔は初めて見た。と思うと、尚隆は破顔した。本当に楽しそうに笑っていた。陽子は訳が分からず、首を傾げるだけだった。突然唇を奪われ、強い力で抱きすくめられた。

「お前は、本当に可愛いな」

 尚隆は優しい眼をして言った。が、陽子はふいと横を向き、返事を避けた。子供扱いされたようで、気に入らない。尚隆はくつくつと笑い、陽子の瞳を覗きこむ。

「そんな顔をするな。お前の眼が、俺の運命を映すのだから──

 そう囁く尚隆の眼には、不思議な色が浮かんでいた。今度は目を逸らせなかった。

「あなたの、運命──?」
「そう、お前が俺の運命だ」

 厳かに囁いた尚隆は、もう陽子に問いかけはしなかった。口づけの雨が降ってきた。身体に回された手は熱い。陽子は微笑を返し、その情熱に身を任せた。
 「月影」は尚隆の物語のつもりで書いていました。 でも、陽子とのやり取りを書いているうちに、陽子サイドも気になってしまい……。
 ──ひとによってこんなに受け取り方が違うぞ!  と、私自身も驚いたり面白がったりしておりました。

2006.03.21. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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