月 影 (7)
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月が昇りはじめていた。尚隆が客庁を訪れたとき、陽子は露台に出るところだった。思いつめた顔をしていた。尚隆は小さく溜息をつく。いつも陽子を慰め、励まし、力になっている楽俊が今夜はいない。そう思い、早めに訪なってみたのだが。
陽子の背中には声をかけにくい、そうこぼしていた六太の言葉を思い出す。
(おれは麒麟だから、音も気配もないはずなのに、あいつは気づいている。なのに振り向かねえんだよなぁ)
ほう、と相槌を打ちながら尚隆は、六太を揶揄したい気持ちを抑えた。お前は感情を外に出し過ぎるのだ、相手は寝込みを襲おうとしても剣を構えて起き上がる女だぞ、起きているときに気づかれるのは当たり前だ、と、心の中で呟くに留めた。そんなことをうっかり口に出したら、また面倒なことになる。戦を控え、六太もまた気が立っていた。
六太は続けて言った。陽子には賓満が憑いているようだ、と。だから気配に敏感なのだろう。また、賓満でもいなければ、今の倭からやってきて剣を遣えるはずはない、と。
陽子と話をし、気配に敏感なのは賓満のせいだけではないと分かる。山の中で野宿を繰り返し、妖魔に追われ、野木の下で眠るうちに身についたものでもあるらしい。
尚隆は注意深く堂室の中を移動し、そっと窓辺に近寄った。腰が軽く、自ら間諜の真似までする尚隆には、気配を殺すことなど雑作もないことだった。露台の様子を伺うと、陽子が欄干に凭れて雲海を眺めていた。その背には、他人を寄せつけない雰囲気があった。尚隆は微笑を浮かべた。気配を絶って露台に出た。窓辺の柱に凭れて腕を組み、陽子を見守ることにした。
陽子はじっと雲海を見つめ、動かなかった。その背中は毅然としていて、迷いは見られなかった。いったい、何を思いつめているのだろう。
やってみます、と決意を見せた陽子に、尚隆は問うた。人を斬ったことはあるか、と。この娘は躊躇いなく妖魔を斬っていた。なかなか見事な腕だった。たとえ賓満が憑いているにしても、剣の扱いはかなり手慣れたものだった。が、尚隆は知っている。妖魔を斬ることと人間を斬ることは違う。予想通り、答えは、否、だった。尚隆は重ねて問うた。人を斬る覚悟はあるか、と。
六太は陽子の決意を鈍らせる気かと怒ったが、尚隆には訊いておく必要があることだった。人を斬る覚悟がなければ、陽子を戦場には連れて行けない。生きて帰ることができないからだ。陽子を失うのは嫌だった。
そう、玉座など、血で購うものだ。罪人の処刑、内乱の制圧、偽王の討伐──。数え上げれば限がない。贅沢三昧ができる、誰よりも偉いと有頂天になるような輩には、けして座りきれるものではない。
陽子には王気がある。尚隆はひと目で陽子が景王だと分かった。自信がない、自分は愚かだから王の器ではない、と玉座を拒否する陽子には、充分玉座に就く資格がある。だからこそ、問うたのだ。
陽子は尚隆から目を逸らさなかった。その覚悟を知った。怖いか、と更に重ねて問うた。是、と答えた。陽子はやはり、己の力量をよく弁えている。昨夜のように、怖くない、と強がるならば、もっと脅しをかけなければならないところだった。
関弓にいてもよい、と逃げ道を与えてみたが、陽子は肯しなかった。己の戦いなのに隠れているわけにはいかない、と言い切った。尚隆はその返答に満足した。これならば、大丈夫。助力しようと確約した。
楽俊が大きく息をついたのが聞こえた。いつの間にか、場の空気が張りつめていた。陽子が尚隆に気圧される様子がなかったので、気づきもしなかった。尚隆は楽俊に軽く詫びを入れた。楽俊はまた身を硬くした。これが普通の反応なのだろう。
「お前はやりすぎなんだよ!」
朝食後、六太が怒声を上げた。六太もまた陽子に入れこんでいる。
「せっかく決心したのに、あんなに苛めること、ないだろうが!」
無体なことをされた挙句にあれでは陽子が不憫すぎる、と六太は言い募る。無体なことか、と尚隆は苦笑した。
「──合意の上だぞ」
「信用できるものか。お得意の脅迫だろう。あいつはまだ蕾の花だったろうに……」
沈痛な面持ちで、六太はなかなか鋭いところを突いてきた。そう、逃げ出せぬように追いつめて選ばせた。一種の脅迫だ。尚隆にはその自覚があった。が、顔には出さず、逆に訊いてみた。
「麒麟のくせに、そんなことが分かるのか?」
「麒麟だから分かるんだよ!」
血の臭いがする、と六太は言った。ほう、と尚隆は感嘆した。が、口に出した言葉は違った。
「守りたいからこそ、覚悟を試したのだぞ。戦場で死なせるわけにはいかぬ」
それが掛け値なしの本音だった。察して六太は黙した。やがて、溜息混じりに言った。
「分かったよ。じゃあ、責任持ってちゃんと守れよ!」
そう捨て科白を残し、堂室を出て行った。六太はその後、楽俊とともに慶に旅立った。
一方陽子は朝食後、軍議や戦装束の準備など、淡々と日程をこなし、明日の戦に備えていた。緊張はしていたが、怯むことも涙を見せることもなかった。尚隆は、それが逆に心配だった。他にもしなければならないことがあり、陽子とずっと一緒にいるわけにもいかない。じりじりしながら夜を待った。そして今、尚隆はここにいる。
どのくらい待っただろう。時間はゆったりと流れていた。陽子の背中を見守るだけで、心が温まっていた。
陽子は雲海を眺めている。それから、まるで何かに祈るように、手を組み合わせた。故郷の神に祈っているのだろうか。声をかけたい気持ちを抑えた。邪魔をしてはいけない、と思った。
陽子はやがて祈りを終え、欄干に手をかけた。その手が小刻みに震えた。毅然としていた背が、儚く見えた。陽子はとうとう欄干にくずおれた。尚隆は、もう黙っていられなかった。
「──無理をするなと言ったろう」
驚き振り返った陽子の眼は、やはり涙で濡れていた。見開かれた翠の瞳は、どうしてここに、と問うていた。しかし、尚隆が答える前に、陽子は目を逸らし、また雲海を見やる。涙を見られたことを恥じているようだった。
向けられた細い背は、慰めを拒否していた。尚隆は微笑した。朝の仕返しをされているような気がする。そんな強がりも、愛おしい、と思った。
尚隆はゆっくりと陽子に近寄り、後ろから抱きしめた。陽子は身動ぎひとつしなかった。ただ身体を硬くして拒絶していた。尚隆は陽子の耳許に溜息を落とした。やがて陽子は、咎めるような眼を向け、何か言おうとした。尚隆は、その唇を封じた。と、糸が切れたように力が抜け、陽子はその身を尚隆に預けた。
陽子の軽い身体を抱き上げて堂室に戻った。抱えたまま牀に腰を下ろす。陽子の顔を覗きこんだ。その瞳はまだ涙を湛え、憂いに沈んでいた。どうやって気を引き立てようか、と思案する。お前を苛めるなと六太に怒られた、と苦笑して見せた。陽子はくすりと笑った。
その笑顔に、尚隆は安堵の息をついた。首を傾げて尚隆を見上げる陽子の眼は、まだ少し潤んでいる。その真っ直ぐな瞳にじっと見つめられると、吸いこまれていきそうになる。尚隆は苦笑した。視線を避けるように、陽子の眼に滲む涙を唇で拭う。陽子は目を閉じた。尚隆は、陽子の頬に唇を這わせ、そして唇を求めた。
長い口づけの後、尚隆は陽子を、そっと牀に横たえた。その瞳に少し怯えが走ったのを見逃さなかった。初物を摘んだのだ、と思い、複雑な気持ちがした。いいか、と目で問うてみた。陽子は目を逸らそうとした。尚隆はその頬を両手で包み、再び陽子の眼を捕らえた。戸惑いの色が浮かんでいる。尚隆はじっと陽子を見つめ、静かに待った。睫毛が震え、陽子はついに瞳を閉じた。
再び唇を重ね、強く抱きしめた。細い身体が小さく震える。無体なことをした、と六太に詰られたことを思い出し、腕の力が緩んだ。怖いか、と訊ねた。微かに首が横に振られた。それは強がりに思えて、つい顔を凝視してしまった。それこそ、脅迫染みているというのに。
あなたが怖いわけじゃない、と詫びるように呟き、陽子は涙を零す。素直に涙を見せる陽子を、愛しい、と思った。ふっと息をつき、緋色の髪を撫でる。怖がらせるのは本意ではなかった。優しく守ってやりたかった。それなのに──。
陽子は声を呑みこみ、静かに涙を零し続ける。暗に責められているような気がした。いたたまれなくなって囁いた。お前は俺を責めないな、と。六太は尚隆を責めた。楽俊も固まっていた。あれだけ厳しいことを言ったのだから、責められても仕方ない。しかし、陽子はその呟きを聞きとがめた。何故、と陽子は濡れた目を見開いて訊ねる。尚隆は苦笑して言った。六太はお前を苛めすぎだと怒ったぞ、と。
「──胸に響く忠告を受けただけなのに」
そう言って、陽子は口許に笑みを浮かべた。意外な答えに、尚隆は目を見張る。思わず、本気でそう思っているのか、と問うた。違うの? 陽子は目を丸くする。本気のようだ。尚隆は破顔した。可笑しくて仕方なかった。憶測で思い悩むとは、焼きが回ったものだ、と自嘲する。
笑いを収めて見ると、陽子は、訳が分からない、と途方にくれている。有無を言わさず唇を奪い、抱きすくめた。つい、お前は可愛いな、と口に出した。案の定、陽子は横を向いて口を尖らせた。幼いな、と思う。が、この素直さ、純真さは、忘れていた何かを思い出させる。
尚隆は陽子の瞳を捕らえた。勁い意思の輝くこの瞳が、尚隆の運命を映す。運命に怯むのはやめよう。この娘は自らを統べる王だ。自身の意に染まぬことは決してしないだろう。尚隆は、もう陽子に許しを請わなかった。己の情熱のままに陽子を抱きしめた。潤んだ瞳は微笑を浮かべ、尚隆を受け入れた。
この9章、心のままに書き綴ったようでございます。
改めて読み直すと、なんと原稿用紙11枚分の長さ! いやはや長すぎますって。
尚隆視点が長くなるのは、今に始まったことではない、と納得した次第でございます。
2007.12.04. 速世未生 記