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月 影 げつえい (8)

* * *  10  * * *

「迷うなよ、お前が王だ」

 州城の上で、延王尚隆にそう送り出された。
「大丈夫、私は往生際が悪いから」
 軽く答えて騎兵の群れに突っこんだ。吉量を操り、ひらりと身をかわし、内部を目指す。目的は景麒の奪還のみ。無駄に切り結ぶ必要はない。
「景王を援護せよ!」
 後ろから尚隆の指令が聞こえた。陽子を追う騎兵は、尚隆をはじめとする雁の王師が引き受けてくれる。陽子は振り返らなかった。前だけを見つめ、剣を振るった。前線を突破し、城壁を越えた。吉量から飛び降り、駆け出した。師士が向かってくる。

「景麒はどこだ! 私の麒麟を返せ!」
 陽子は大音声に呼ばわりながら、師士を次々と切り伏せた。鬼気迫る形相で剣戟を振るう少年のような娘に、敵兵は気圧されつつあった。雑兵はひと睨みで怯んだ。辛うじて踏みとどまる者に、陽子は畳みかける。
「景麒はどこだ! 血を厭う麒麟を戦場に置く王がいるものか!」
 たじろいで退こうとする者を押しのけ、鼓舞するように怒声を上げた者がいた。
「小娘が何をほざく!」
 そう毒づいて向かってくる指揮官らしき者と切り結びながら、陽子は不敵に嗤った。
「現に延王は延麒を連れては来なかったぞ」
 大国雁の王の名を出されてか、指揮官は少し怯んだ。陽子は勁い視線で睨めつけた。
「己の麒麟を閉じこめなければならない王が、どこにいる!? 景麒は主に従うはずだ」
 その言葉を聞き、陽子を取り囲む師士たちに、動揺が走る。麒麟を鎖で繋ぐなどどう考えてもおかしい、宰輔は選定した王に従うはずだ──そんな小さな呟きが聞こえてきた。

 お前が偽王軍を威圧できれば話は早い、と延王は言った。陽子は、そんなことができるとは思えない、と俯いた。そんな自信は持てなかった。そんなもの、と尚隆は笑った。麒麟が選んだのだから、文句は麒麟に言えと思え、と。そして、五百年の永きに渡って玉座に君臨し続けている雁国の王は、笑い含みに言った。

「俺と対峙するよりは楽だと思うぞ」

 それは王たる者の助言だった。陽子は知っている。普段は鷹揚なこのひとが、いざというときに放つ威厳を。景王陽子は隣国の王を見上げ、力強く頷いた。

「そう、お前のその眼を直視できる者は少ないだろう」

 尚隆はそう言って微笑み、口づけを落とした。陽子は首を傾げたが、尚隆は笑みを見せるだけだった。陽子は己の瞳の勁さに気づいていなかった。

 今なら分かる。景麒は陽子を己の主と断じた。そう信じて剣を振るう陽子に対峙できる者は少ない。
 陽子は剣を下ろし、腰に手を当てて、自分を取り巻いている師士たちを見回した。翠の瞳は勁い輝きを宿し、師士たちを圧倒した。
「景麒のところへ案内せよ」
 その覇気に、指揮官の意地が挫けた。
「畏まりまして──」
 膝を折り、平伏した。それを見て、師士たちが次々に叩頭した。

 州城の奥深く、厚い包囲網の内側に景麒は捕らわれていた。足に鉄の鎖を巻かれ、角を封じられて。陽子は水禺刀で景麒の足を縛めた鎖を断ち切り、碧双珠で封じられた角を解放した。
 景麒は目を細めて陽子を見つめた。
「ほんとうにお変わりになった」
「うん、ずいぶん勉強させてもらった」
「正直申し上げて、もう一度お目にかかれるとは思っておりませんでした」
 陽子は頷く。
「私もだ。──人の形にはならないの?」
「裸で御前には、まかりかねる」
 その憮然とした声がおかしくて、陽子は小さく笑った。
「では、着るものを調達に、とりあえず帰ろう。金波宮に戻れるまでは、しばらく玄英宮に居候だけど」
 陽子が笑うと麒麟はもう一度目を瞬いて、その場に伏せる。動きにつれてその背が不思議な光沢を放った。

「天命をもって主上にお迎えする」
 首を垂れてその角を陽子の足に当てる。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと、誓約申しあげる」
 陽子は薄く微笑んだ。
「──許す」
 景王陽子は己の麒麟の奪還を、見事に果たした。
「それじゃあ、行こう」
「はい」

 帰り道は楽に進めた。なんといっても麒麟が傍にいる。宰輔景麒を従えた陽子に、師士たちは次々と膝を折った。抵抗する者には、景麒が静かに命じた。
「──主上の御前だ、礼を尽くせ」
 角を封じられ、口をきくことができなかった霊獣が、今、厳かに命を下している。神獣麒麟に逆らえる者は、誰もいない。そして、孤高不恭の麒麟を従える者が王だと、臣は知っている。景麒を従える陽子こそが景王なのだと。
 首尾よく城門まで出ると、州城の外では雁の王師がまだ戦っていた。景麒が静かに命じた。
「班渠、延王に使いを。主上が戻られた、と」
「──御意」
 班渠はじきに延王を連れて戻ってきた。
「景麒、無事で何よりだ。延麒がずっと心配していた」
 延王の労いに、麒麟は恭しく頭を下げた。
「そして景王、よく無事に戻られたな」
 延王尚隆は、景王陽子に笑みを向けた。改まった口調は、景麒を憚っているのだろう、と陽子は思った。笑顔で答える。
「ご助力ありがとうございます、延王」
「では、玄英宮に戻ろうか」
「はい」 
 雁国王師は速やかに撤退した。

* * *  11  * * *

 偽王軍にずっと捕らわれていた景麒は、体調が思わしくなく、玄英宮に戻ってすぐに床についた。血の臭いがする、と陽子も言われ続けた。怨詛ある血だと。
 そう、殺戮を繰り返してきた。血の臭いも骨肉を断つ感触も、なじみのものだったし、人の死体を見て心を動かされるほどの繊細さなど残っていないはずだった。返り血を避ける戦い方も熟知していた。それなのに。自ら斬った人間の、濃厚な血の臭い。玄英宮に戻り、洗い流した今でさえ、鼻腔の奥に色濃く残っている。

 ──怨詛ある血ゆえに。

 人を斬った感触も、まだ手に残っていた。戦場にいるときは、考えている余裕がなかった。景麒を取り戻す、ただそれだけを思い続けた。そうでなければ生きて戻れなかった。そして、これから、こういう毎日を送る。偽王軍を打ち破り、慶を安定させるまで。
 今になって涙が零れる。──自分で選んだんじゃないか。自嘲の笑みが漏れる。嘆くことも泣くことも許されない。それが陽子の選んだ道。斬った人と、その数は忘れまい。それを胸に刻み、この道を進む。

(玉座など、血で購うものだ)

 そう延王は言った。まだ始まったばかり。無血で済むはずなどない。けれど、今日この手にかけたのは妖魔ではない。陽子が統べるはずの、慶の民なのだ。民の血を、景王たる陽子が、自ら流した。──この痛みは、どうすればいいのだろう。陽子は胸を押さえた。
 視界に入る己の手は、あまりにも小さい。それは自らの力の象徴に思えた。月に手をかざす。この手がもっと大きければ。もっと大きな力を持っていれば、誰も傷つけずにいられるのだろうか──。
 月光が凪いだ雲海を冴え冴えと照らす。この痛みも、答えの出ない問いも、全て月に預けてしまいたかった。身の内に留めるには、あまりに重い。雲海を見つめる目には止め処なく涙が溢れる。

 そして、陽子は気づく。そのひとの、あまりに際立つ気配。振り返りたい気持ちを、ぐっと堪えた。いま振り向いてしまったら、きっとその胸に飛びこんで、声を上げて泣いてしまう。そうしてしまったら、きっと、陽子は自分を許せなくなる。
 ──無理をするな、と、そのひとはまた溜息をつくのだろうか。身の程を弁えない強がりかもしれない。しかし、それは譲れない意地だった。王、と呼ばれる立場を選んだのだから。
 実際に自分の目で見た慶国は、剣の幻以上に荒廃していた。巧国も貧しいと思ったが、雲海越しに見下ろす慶の国はそれ以上だった。塙王が、巧は慶よりはましだ、と言うわけだ。ましてや、豊かな雁に比べたら。
 巧から雁に入ったとき、その違いに驚いた。主上の格の違いだろう、と楽俊は苦笑した。そして、巧以上に貧しい慶と、豊かな雁。それはそのまま、いま現在の陽子と尚隆の格の違いを表すものだろう。延王尚隆は稀代の名君。だからこそ。
 保護される対象に、いつまでも甘んじるわけにはいかない。偉大な隣国の王の前で、卑屈になるわけにもいかない。流れる涙はそのままに、陽子は背筋を伸ばし、毅然と前を見つめた。

「──よくやったな、景王陽子」

 明朗な男の声が陽子を優しく労う。振り向かない陽子を、逞しい腕が後ろから抱きしめた。その思いがけない言葉に、陽子は声も出せなかった。延王尚隆そのひとが認めてくれたのだ。陽子は嗚咽を堪えた。ただ、無言で頷いた。それが今できる精一杯のことだった。
 ──どのくらいそうしていただろう。涙はいつしか乾いていた。尚隆は何も言わず、ただ静かに陽子を抱きしめてくれた。その優しさが嬉しかった。尚隆の腕は冷えた身体を温め、荒んだ心を癒してくれた。胸の痛みも答えの出ない問いも、浄化されていた。
 稀代の名君と称えられるこの王も、胸の痛みや答えの出ない問いを、持ったことがあるのだろうか。それは、慰めや励ましで超えられるものではない、と知っているのだろうか。
 このひとは、何も問わず、ただ傍にいてくれる。陽子が己で呑み下すまで待ってくれている。──ありがとう、もう大丈夫。陽子はそっと頭を尚隆に凭せかけた。

「本当によくやった」

 尚隆はもう一度そう言い、陽子の頭を撫でた。陽子は顔を上げた。尚隆は慈愛に満ちた眼で陽子を見つめていた。ここに、生きて帰ってこられた。このひとの眼を見て、やっと実感が湧いてきた。そしてまた涙が零れる。唇が重なった。

「──よく帰ってきたな」

 陽子の心を見透かすように、尚隆は低く囁いた。厚い胸にきつく抱き寄せられ、その顔を見ることはできなかった。陽子は頭を尚隆の胸に預ける。尚隆の確かな鼓動が聞こえた。その音が告げる。

 ここが、帰る場所。

 このひとの胸が、陽子の安らげる居場所。もう、躊躇いはなかった。
 やがて、そっと抱き上げられた。何かを問うように覗きこむ瞳に、陽子は微笑を返す。尚隆の眼が和み、そのまま静かに堂室に戻る。尚隆は陽子を抱えたまま牀に腰を下ろす。目と目が合った。微かに頷き、陽子は瞳を閉じる。優しい口づけを受けた。
 牀に横たえられても、もう怖じけることはなかった。このひとは、陽子を受けとめてくれる。苦い涙も、小さな強がりも、そして、つまらない意地も。心も身体も、その胸が抱きとめてくれる。それが、どんなに嬉しいことか。

 流れ流され、いつも受身で過ごした。他人の評価ばかりを気にしていた。誰にとってもいい子であろうとしていた。それは、誰にとっても都合がいいだけで、誰にも必要とされないのだと、気づきもせずに。

 このひとが教えてくれた。己の道を自ら選び取り、進むことを。自分の足で歩くことで、己に必要なものが、おのずと見えてくるのだ。
 長い口づけを交わす。その情熱に身を任せながら、陽子は思う。このひとに相応しい伴侶になりたい、と。それは俺が決めることだ、と、このひとは笑うだろう。だが陽子は、恥じることなく堂々と、このひとの隣に立ちたいと思った。たとえ前例がないと言われても。

 いつか、必ず。
 「風の万里 黎明の空」で、陽子は「殊恩」とともに戦います。 そのとき、偽王軍と戦ったときのことを回想していました。
 かなりの葛藤を乗り越えてきたのだろうな、と思いました。 そんな葛藤を書いてみたい、と思ったものです。 うまく表現できているかどうかは、解らないのですが。

2006.03.21. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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