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月 影 げつえい (9)

* * *  12  * * *

 迷うなよ、お前が王だ、と送り出した。陽子は笑顔で頷いた。吉量に跨り、陽子は後ろを見ずに切りこんでいった。背中は預けた、そう言われたような気がした。

 景王を援護せよ、尚隆は王師に指令を下す。後ろは任せろ、そう返した。知り合って、まだ何日か。それなのに、言葉がなくとも心が通じる。そんな信頼感があった。そう、守られるばかりの手弱女ではない。
 陽子についていけない己の立場。分かっていたはずなのに、見守れない自分が歯がゆかった。尚隆は自嘲の笑みを浮かべる。──これからは、それが当たり前になる。己が選んだ伴侶は、隣国の王なのだから。

 やがて陽子は景麒を連れて無事に戻ってきた。景麒の使令がそれを知らせる。無論、喜ばしいことだった。しかし、尚隆は知っていた。それは別れの前触れだということを。
 景麒を取り戻し、偽王を討ってしまったら、景王は雁にいる必要はない。天勅を受けに蓬山に赴き、そして慶国に降りるのだ。己の傍に置ける女ではない。──そんなことは初めから分かっていた。むしろ、そのほうがよいはずだった。それなのに、この喪失感は何だろう。

 一人の女に、こんなにも捕らわれるのか、この俺が。

 そう思うと、また自嘲の笑みが漏れた。
 己の昏い深淵を照らす輝かしい女。──諸刃の剣だな、と心で呟く。永遠のものなど、何一つない。暗闇に灯りを点すこの女を喪ったとき、己はどうなるのだろう。それが己の最期となるのだろうか。それとも、伴侶を喪ったから道を誤ったのだ、と謗られるのを厭って乗り越えるのだろうか──。
 そんな自問をいくら繰り返しても、所詮そんな仮定は仮定でしかない。それよりも大切なことがある。
 大任を果たした景王陽子はまた、独りで泣いているのだろう。月が昇る頃、様子を見に行こう。

 はたして陽子は露台で雲海を眺めていた。肩を小さく震わせ、手を月にかざしている。華奢な手に剣を握り、妖魔ではなく、初めて人を屠ってきたのだ。

 その手が小さいのは、お前のせいではない。その細い肩に載せるには、あまりにも重い荷物なのだ。

 そう声をかけたかった。そう思った時点で、尚隆は己の気配を曝していた。
 陽子は振り返らない。誇り高き女王は、慰めなど求めてはいない。しゃんと伸ばされた背がそう語る。そんなに強がるな、お前を理解できる俺の前では。尚隆は言葉を呑みこむ。そんな女だからこそ、心惹かれずにはいられないのだ。
 ゆっくりと歩み寄った。後ろから抱きしめる。男としてではなく、宿望を果たした女王に敬意を表した隣国の王として。
「──よくやったな、景王陽子」
 叱責を覚悟して身構えていた細い背がぴくりと跳ねた。嗚咽を堪えて震える肩。陽子は黙って頷いた。尚隆は微笑した。そんな強がりも受けとめよう。待つことには慣れている。五百年も待って、ようやく手に入れた伴侶なのだから。

 やがて。陽子は尚隆の腕にそっと頭を寄せてきた。その頭を撫でる。本当によくやったな、と。見上げてくる陽子の眼にまた涙が滲む。その朱唇にそっと口づけを落とした。
 よく帰ってきたな、と思わず呟いた。そして、華奢な身体をきつく抱きしめた。今、陽子に顔を見られたくなかった。お前を失いたくない、そんな気持ちを隠しとおす自信がなかった。
 陽子は尚隆の胸に頭を預けていた。その様子は今までになく安らいでいた。尚隆はそっと陽子を抱き上げた。潤んだ瞳を覗きこむ。陽子は微笑し、微かに頷いた。尚隆は表情を緩めた。

 そのまま堂室に戻った。陽子を抱えたまま牀に腰を下ろす。目と目を見交わす。湯子はその輝かしい眼を閉じた。唇に優しく口づけ、牀に横たえた。尚隆を見上げる陽子の眼には信頼があった。何の言葉もいらない。互いに互いが必要なのだと分かっていた。
 長く熱い口づけを交わす。別れが近い。こんなふうに抱きあえるのは、あと幾日もないだろう。体調の悪い景麒を慮り、玄英宮に戻ったが、陽子は景王として戦の前線に自ら赴く。尚隆は、雁国王師を指揮する者として、助力するだけ。

 手を離さねばならない。最初から分かっていた。それでも、この女が欲しかった。狂おしく求める心を止めることはできなかった。後悔は、しない。離れていても、この女が己の伴侶。

 腕の中の女は、羞じらいながらも尚隆の情熱に応える。そのひたむきな翠玉の双眸の美しさに、思わず見とれる。尚隆は己の運命と定めた女をきつく抱きしめた。

 正しき景王が起ち、雁国延王の支援を受けて偽王から宰輔景麒を取り返した、という報せは、慶国の州候たちを動かした。雁国宰輔である延麒六太の説得も功を奏した。それからの戦況は一変した。
 州候たちは、掌を返し、我先にと偽王を討ちに走る。偽王に味方したと謗られるのを厭って。或いは、新王に助力する大国雁の王師を恐れて。

   程なく偽王は討たれ、斃れた。

* * *  13  * * *

 雁国を訪れてから、陽子の目の前で、次々と扉が開かれていった。御伽噺のようなこの世界の知識を、どんどん注ぎこまれた。そして明かされた己の正体。あまりの目まぐるしさに、何かを深く考える余裕もなかった。ただひたすら、目の前にあるものを受け入れていった。今できることを、がむしゃらにするしかなかった。
 慶の国主景王として宰輔景麒を救いだし、玄英宮に戻った。戦場に長く留められ、血の臭いで身体を壊した景麒を玄英宮に預け、陽子は雁国王師とともにまた偽王軍と対峙した。
 景麒を取り戻した景王に、偽王を見捨てた州候軍も付き従う。目の前の敵を倒し、前に進む。それを繰り返す。そして。とうとう偽王は討たれた。陽子は、景王だと民に認められたのだった。

「主上、おめでとうございます。これで、金波宮に戻れますね」

 玄英宮に戻り、見舞いに訪れた陽子に、景麒が静かに微笑んだ。言われて唐突に気づいた。景王になるということは、慶国に帰るということ。もう、雁国にいる必要はない。延王の傍にはいられないのだ。
 景王になることを、己が選んだ。景王は慶で自国を統べる。そんな当たり前のことを、今まで失念していたとは。陽子は自嘲の笑みを浮かべた。
「──そうだな、もう居候はお仕舞いだ」
「──主上?」
 景麒が不思議そうに陽子を見る。
「──長かったな……」
 陽子は遠くを見つめる。月の影を潜り、こちらに来たときはまだ寒かった。気づけば今はもう夏。あのとき、ただの女子高生だった陽子は、慶東国国主景王と呼ばれる者になっていた。なんと遠いところへ来てしまったのだろう。
 そしてかぐや姫は月に帰っていきました──御伽噺はそう終わりを告げる。

 月へ帰ったかぐや姫は、どうしたのだろう? 

 あちらで生まれ育った陽子が、こちらで持ったような違和感を持たずに、月で平和に暮らせたのだろうか。
 紅の髪に翠の瞳、そして陽に灼けたような褐色の肌。日本人にあるまじきこの姿は、陽子をこちらの人間と己に認めさせた。あちらで感じた違和感はそのせいだったのか、と。しかし、蓬莱で育った陽子の異質さに、こちらの人は戸惑う。そして、陽子もなかなか馴染めない。

 ──結局、どっちつかずなのか。

 己の思いに沈みこむ陽子を、景麒は気遣わしげに見つめる。そのとき。
 延麒六太が扉を開け、陽気な声を上げた。
「景麒、調子はどうだ? よう、陽子、お手柄だったな」
「私が倒したわけではないから……」
 物思いから浮上した陽子は控えめにそう言った。そうだ。六太が、尚隆がいる。同じく蓬莱から戻った胎果だ。時代は違えているが、陽子の持つ違和感を分かってくれる同胞。一人ではない。陽子は顔を上げた。
「主上……」
「大丈夫だ、景麒」
 陽子は景麒に笑みを返す。そう、一人ではない。景麒、楽俊、六太、そして、己の伴侶たる尚隆。これまで力になってくれた数多の人たち。これから出会うだろう人たち。陽子は決して一人ではない。胸にそう強く刻みこんだ。

「そうだ、陽子。尚隆が、茶でも飲みに来い、とか言ってたぞ」
 六太が軽く延王からの伝言を陽子に知らせた。主の伴侶にいい顔をしない景麒が少し眉を顰めたが、六太は笑って言った。
「景麒、そんなに目くじら立てるな。偽王を討ったからには、景麒も陽子も、玄英宮にいる必要はねえんだからさ」
 暗に別れが近いことを示唆し、六太は片目を瞑って見せた。景麒は不承不承ながら頷き、陽子は一瞬目を伏せた。六太は陽子が泣いているのかと思った。しかし、面を上げた陽子は、誰もが見惚れるような笑顔をほころばせた。

 景王陽子は麗しいな、と六太は思う。己の主を惹きつけた隣国の女王に、六太もまた惹かれている。この美しさは、清濁併せ呑む潔さだ。己の愚かさ、浅ましさを受け入れ、毅然と立つ陽子は高潔で眩しかった。

「分かった。行ってくる」
 鮮やかな笑顔ひとつ残し、陽子は景麒の堂室をあとにした。主を溜息で見送った景麒に、六太はその背を軽く叩く。
「──景麒。お前の気持ちは、よーく分かるぞ。……でも陽子が選んだんだ、認めてやれ。お前がそんなんじゃ、陽子が気の毒だ……」
「延台輔……。本当に、延王は主上を脅迫したわけではないのですか?」
 景麒はまたひとつ大きな溜息をつく。延王は助力を盾に景王を脅迫した──その考えから離れられない景麒を、六太は哀れに思った。大きな声では言えないが、六太も、実は尚隆の脅迫ではないかと疑っているからだ。しかし、肝心の陽子が否定しているのだから──。
「──諦めろ、景麒。陽子の笑顔を見たろ?」
 六太の憐みの眼差しを受け、景麒は黙す。主の笑みは気高く美しかった。景麒でさえ見とれるほどに。
 私の中での尚隆は「後宮に后を置かない」 ひとでありました。 風の漢を名乗るような人ですから。
 そんな尚隆が選ぶ伴侶おんなは?  との妄想から拙宅の陽子主上がこのような侮れない女となったのであります。 どうぞご了承くださいませ……。

2007.12.04. 速世未生
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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