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約 束 (3)

* * *  3  * * *

 有明の月が、暁に消えていく。最後の輝きが白んだ空に呑まれたとき、尚隆は伴侶に目を移した。瞬きとともに零れた涙を己の唇でそっと拭う。仄かに微笑む伴侶の朱唇に口づけを落とし、尚隆は立ち上がる。麗しき女王は、もう尚隆を追うことはなかった。
 身支度を終えると、伴侶も夜着を纏っていた。見送りは裸身の方がよいな、と呟くと、頬を染めた伴侶に枕をぶつけられた。ひとしきり笑ってから、まだ赤い頬に口づける。莫迦、と呟く声を背に受けながら、尚隆は伴侶の堂室を後にした。

 その後、まだ少し機嫌の悪い国主景王と朝食を取った。女史と女御は、拗ねた様子の女王と尚隆を心配そうに見比べる。そんな二人に片目を瞑ってみせ、近いうちにまた来る、と言い残し、延王尚隆は金波宮を発った。
 しかしながら尚隆は、真っ直ぐ雁に向かいはしなかった。堯天近くの山野をしばらく彷徨った挙句、首尾よく目当てのものを見つけ、尚隆は薄く笑う。それから意気揚々と帰国の途に着いた。

 季節が進み、懐かしい花の便りが届く。待ちかねたように、尚隆は再び隣国に向かった。自ら目的のものを確かめて、尚隆は破顔する。そして、伴侶が住まう金波宮へと急いだ。
 禁門の門卒に、すぐ戻る、と言い置いて、延王尚隆は金波宮を闊歩した。いつもどおり躊躇なく国主景王の執務室を開ける。そして、端的に用件を告げた。
「──陽子、花見に行くぞ」
「いきなり、何です?」
 呆れ顔で溜息をつきながらも、女王は動じない。冢宰浩瀚は微かに眉を蹙め、宰輔景麒は露骨に嫌な顔をした。三者の反応があまりに予想通りで、尚隆は吹き出したいのを堪えながら先を続けた。
「だから、花見だ。今を逃すと、また来年までお預けだからな」
「──私は今、仕事中なんですけど」
 眉根を寄せる女王に笑みを返した。そんなことは見れば分かる。しかし、疲れた頭でいくら考えても効率は上がらないだろう。友も臣も女王を休ませることができないならば、伴侶たる己がやってみせようと尚隆は決めていた。
「お前は眉間に皺が寄りすぎている。少し休め。そういうわけだ、景麒、浩瀚。お前たちの主を少し借りていく」
 有無を言わせず断じ、では行くぞ、と尚隆は陽子の腕を取る。女王は深い溜息をつき、困り顔で己の右腕を見つめた。冢宰浩瀚は苦笑を浮かべて頷いた。
「──気分転換も必要でございましょう」
 その言葉に、女王の半身は憮然と横を向いた。相も変わらず頭の固い宰輔を気にしつつも、景王陽子は尚隆に手を引かれて執務室を出た。

「もう……強引すぎるよ」
「ちゃんと許可を取ったではないか」
「──あれ、許可じゃなくて脅迫って言わない?」
 不平を並べ立てる女王を伴って禁門に戻ると、門卒が心得たように尚隆の騶虞すうぐを連れてきた。居並ぶ門卒たちに見送られ、尚隆は班渠に騎乗する伴侶とともに蒼穹に舞い上がった。
 暖かな春の風が緋色の髪を靡かせる。眉間に皺を寄せていた女王は、少し目を見張って辺りを見回した。季節が巡っていることに、今やっと気づいたような様子だった。
「──花見って?」
「桜だ」
 小首を傾げて訊ねる伴侶に、尚隆は短く応えを返す。伴侶は思ったとおりの反応を示した。
「え? ──桜があるのか? 常世でも花見ができるんだ……」
「数はあまり多くないがな」
 翠の目を見開いて驚く伴侶に、尚隆は軽く答えて笑う。伴侶は、へえ、と感心した。尚隆はそんな伴侶に笑みを向けて指を差す。
「ほら、あそこだ」
「わぁ……」
 枝いっぱいに花をほころばせる桜を認め、伴侶は子供のように感嘆する。そのまま魅入られたように満開の花を眺める伴侶を促して、尚隆は桜の下に舞い降りた。美しいだろう、と訊ねると、咲き誇る桜花を見上げ、伴侶はほうと溜息をついた。
 風が吹くたびに、薄紅の花びらが舞い踊る。仄かに笑みを見せ、伴侶は落ちてくる花びらに小さな手を伸ばす。女王は今度こそ、頭の隅に残っていた仕事への憂慮を忘れたのだった。

 薄紅の花吹雪の中で、ひと際鮮やかな紅の髪。桜と語らうように佇む伴侶は、まるで桜の精のようだった。そう考えて苦笑する。そんな儚い女ではない、と。頬を染めて振り返るその姿は、いつか見た緋色の八重桜の艶やかさを持つ。尚隆は桜の女神のような伴侶に笑みを返し、桜の根元に腰を下ろした。
「──眉間の皺が取れたな」
 持参した酒を手酌で飲みながら、尚隆は満足げに頷いた。伴侶は、ずいぶん用意がいい、と笑みをほころばす。花見といえばこれだろう、と言うと、伴侶は小さく首を振る。
「私は高校生だったから、お花見でお酒を飲んだことはないな」
 その応えが残念そうに聞こえる。去年二十歳になった日、伴侶は酩酊して寝込んでいた。酒を飲むなど珍しい、と笑う尚隆に、蓬莱では二十歳は大人と認められてお酒が解禁になるのだ、と伴侶は答えた。調子に乗って飲むからだ、と揶揄すると、皆が面白がって飲ませたんだ、と酔った口調で反論した。そんなやりとりを思い出し、尚隆はにやりと笑って酒盃を差し出す。
「飲んでみるか?」
 伴侶は笑って首を横に振り、尚隆の横に腰を下ろした。そしてまた、微笑みながら桜を見上げる。

 歳若き伴侶の目には、この桜はどう映っているのだろう。尚隆はふとそう思った。五百年ぶりに戻った故郷は、心に想う面影を残してはいなかった。伴侶がやってきた現在の蓬莱は、尚隆にとって、もう異郷に過ぎないのだ。風に踊る花びらを眺め、尚隆は呟いた。
「──桜は散り際が美しい」
「そうかな?」
 舞い散る花びらを受けとめようとしながら、伴侶は首を傾げる。杯を傾けて酒を一口啜り、尚隆は笑みを向けた。
「──潔いと思わんか?」
 花の盛りに散り行く桜は美しい。降り積もる花びらさえも。十六歳で時を止め、実年齢もまだまだ若い陽子には、理解できぬことかもしれないが。
 桜の根元に並んで坐り、伴侶とゆっくり語り合う。若き女王がこんなふうに穏やかな笑みを浮かべるのは久しぶりだった。だから──不意に訊いてみたくなったのかもしれない。
「──桜のように、散り際は潔くありたいものだ。そうは思わんか?」

「……そのときは、私だけでも、笑って送ってあげるよ」

 伴侶は何気なく告げた尚隆に意外な応えを返す。淡い笑みを向ける若い伴侶を、尚隆は声なく見つめ返した。

2007.05.15.
 お待たせいたしました、中編「約束」連載第3回をお届けいたしました。 相変わらず終わりが見えませんが、なんとか祭期間中に終わらせたいと思っております。 はい、鋭意努力中でございます。
 昨日、北の果ての桜が咲きました。後は東の桜を待つばかり。 けれど、咲いたら咲いたで、少し淋しい気持ちになります。 また来年、と別れを告げる日が近いですね……。

2007.05.16. 速世未生 記

背景画像「篝火幻燈」さま
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