昏 闇 (3)
* * * 5 * * *
「──国も──民も……どうでもいい」
絞りだす掠れた声とともに、涙が零れた。そして、恋しい男に縋りつく。王の誇りも、威厳も、何もかも、かなぐり捨て、ただの愚かしい女となって。
「──あなたと共に生きたい」
──そして、あなたと共に逝きたい……。
黙して動かぬ男にそう告げて、ただ泣き崩れた。おもむろに口を開こうとした男の顔を、見なくてすむように。
* * * * * *
熱い涙と、冷たい汗と。相容れぬふたつのものが流れ、陽子は目を覚ました。はっと隣に眠る伴侶を見やる。その、穏やかな寝息と、安らかな寝顔。それにひきかえ──なんて、浅ましい願い。これが、慶東国国主景王と呼ばれる女の、本当の姿。
己の浅ましさを恥じると、涙がどっと流れた。久しく泣いたことなどなかった。もう、このひとの腕に守られて、泣きじゃくる稚い娘ではない。それなのに。苦い涙が次々と頬を伝う。
──夢。そう、ただの夢だ。夢のはず、なのに。
その夢は、陽子の心に、昏い影を落とす。影は降り積もり、昏い深淵を広げる。そして、その鋭い刃で、何度も陽子の胸を貫くのだ。
己がこの常世に存在する意義。ただ、国を治めるため、民を守るため。それを捨てた途端、この命は呆気なく断ち切られる。──天命に縛られる、我が身と命。
それでも心だけは自由だ。
そう信じていた。前例がないと言われつつも、隣国の王を愛したことを、悔いたことはない。しかし、己が生きる支えとするこの想いは、時に胸を塞ぐ苦しみとなる。それは、国が安定してからは、特にそうだった。
国が安定すればするほど、王が自らしなければならないことは減っていく。物事が軌道に乗れば、あとはそれ専門の官吏に任せればよいのだ。
そうして身体が空く時間が増えるほど、物思いも増えた。王など、玉座に座るのみでよい。それならば──。心はすぐに身体を離れようとする。その想いを隠すために、仕事に没頭してゆく。臣に、友に気づかれぬよう、何気なさを装いながら。
国に安寧を齎した女王。そう称えられるほど、罪悪感が募る。その安寧は、陽子に昏い深淵を気づかせるものだったのだから。
焦がれて已まぬ己の伴侶の顔を、陽子はしばし眺める。かつて、このひとは皮肉に嗤った。
(──そうなればきっと、俺は雁を滅ぼしてみたくなる……)
あのとき理解できずにいたその言葉が、今ならよく分かる。暗闇は、王の足許に潜む。王が気を抜く瞬間を、常に待ち受けている。このひとは、この暗闇をずっと抱き続けている。──この暗闇に、ずっと耐えている。陽子と出会う、ずっとずっと前から。
──このひとには、敵わない。
いつまでたっても、追いつくことが、できない。ずっと、この背を追い続けてきたけれど。もう、疲れてしまった……。
隣に眠る愛しいひとを、こんなに遠く感じたことは、今までなかった。このひとの腕は、いつも優しく、変わらず温かいのに──。
私は、このひとに相応しい伴侶になれない。いつまでも、このひとに愛を告白することができない。愛している、と──、一度も言えずに終わるのだろうか。そう思うと、また涙が零れた。
安らかに眠る伴侶を起こさぬように、陽子はそっと牀を抜け出した。羅衫を身に纏うと、陽子は静かに露台に出た。
美しき月が、穏やかな雲海に映っていた。その月に手をかざす。かつて、己のこの小さな掌に、溜息をついた。この手がもっと大きければ、と。
その思いは今もあまり変わりがない。国を預かる王の身でありながら、国も民もどうでもいい、と思う。そんな浅ましい自分が、このまま王であっていいのだろうか。
国の、民の重さに、もう耐えられそうもない。優秀な官が揃い、国は落ち着いた。
そう、景麒がいれば、王など、陽子である必要はないのだ──。
それは甘美な誘惑に思え、心は千々に乱れる。
そして──。陽子は背中に伴侶の視線を感じた。気配に聡いこのひとは、陽子が隣にいないことに、もう気づいてしまった。陽子は振り向かなかった。涙乾くまで、そっとしておいてほしい。際立つ気配を滲ませる伴侶を、陽子は背中で拒絶した。
* * * 6 * * *
「お前を得て、俺がどんなに嬉しいか、お前には分かるまい……」
そう告げて、尚隆は娘を抱きしめた。腕の中で震える娘を見下ろし、その怯える翠の瞳に映る、己の暗闇を見た。
その、柔らかな、滑らかな肌に──己の印を刻みつけたい。内に潜む情熱のままに抱きしめ、己がものにしてしまいたい。
まだ、たった十六の、口づけも知らなかった生娘なのだ。愛しみ、大切にしたい。優しく守りたい。そう思う気持ちも嘘ではない。それなのに──。
潤んだ瞳は、怖けながらも真っ直ぐに尚隆の眼を見つめ返す。お前は、俺の瞳に潜む暗闇が見えるのか。そして、その輝ける紅の光が、昏い深淵を照らすことを、知っているのか──。
* * * * * *
目覚めると、隣に眠るはずの伴侶がいなかった。道理で腕が冷たいはずだ。羅衫を羽織り、尚隆は牀を下りた。大きな窓を開け、露台に出ると、緋色の髪を靡かせた伴侶が月を眺めていた。
その華奢な背を、尚隆は黙して見つめた。豊かな紅の髪は風に弄られ、解れていた。気配を感じても、振り返ることはない。陽子はそういう女だ。
また、夢を見たのだろうか。密やかに降り積もる昏い闇が見せる悪夢を。──語りたくない夢を、また見たのだろうか。
お前を守りたい。王を呑みつくそうと日々脅かす昏い闇から。
そう思い、その涙を受けとめてきた。王は臣の前では泣かない。たった十六の娘が、その重みに耐える姿は痛ましかった。
今やお前は、数多の障害を乗り越え、国に安寧を齎した武断の女王。もう、涙を見せることも、久しくなかった。だからこそ、涙を恥じて背を向けるその姿は、労しい。
慰めを拒絶するその背が、細かく震えていた。尚隆はゆっくりと伴侶に近づき、その華奢な身体を後ろから抱きしめた。わななく小さな肩が、ぴくりと跳ねた。微かにかぶりを振る伴侶に、尚隆は静かに囁いた。
「──泣くほど、辛いか?」
伴侶は黙して語らない。そして、頑なに振り返らなかった。尚隆は溜息をつく。無理をするな、と言っても今は聞く耳を持たないだろう。それくらい全てを拒絶している。だからこそ、伴侶がどんな夢を見たのか、尚隆には想像がついてしまう。
「──楽にしてやろうか? 俺が、この手で」
尚隆は低く囁いた。伴侶は初めて振り返った。そして、激しく首を横に振った。しかし、その見開かれた翠の瞳に浮かぶ、複雑な色。喜怒哀楽が全て入り混じった、泣き笑いの表情。
俺の手にかかることを嬉しいと思う──それがお前の暗闇なのか。
尚隆はしばしその瞳に見入り、口づけを落とす。そして、おもむろに呟いた。
「美しいな……。お前のその暗闇に、酔いしれたい」
「──何故、今、そんなことを言うの……?」
見つめ返す瞳から、涙が零れる。声にならない言葉が聞こえた。そんなことをしたら、雁まで滅んでしまう、と。尚隆は軽く首を振る。昏い光を宿す潤んだ瞳をじっと見つめながら。
「──国など、どうでもいい。お前と共に逝けるなら」
「──尚隆!」
尚隆は道に悖ることを、あえて言ってのけた。恐らく、それこそが、伴侶に巣食う暗闇の囁き──。伴侶の目が驚愕に見開かれる。そんなことはできない、赦されない。伴侶はそう叫んだ。
「──あなたを巻き添えになど、できない……」
やはり──。
悪夢は伴侶を苦しめる。昏い闇は王を呑みこもうとする。そして、伴侶はまた己を責める。
「──ごめんなさい。私は……いつまでも、あなたに相応しい女になれない……」
俯いて微かな声で伴侶は囁いた。月に溶けてしまいそうな華奢な身体を、思わずきつく抱きしめた。
──俺を、置いて逝くなど赦さない。
「俺に相応しい伴侶は俺が決めると言ったろう。──己の浅ましさが赦せぬか? 己の暗闇を拒絶するか? 俺の暗闇に背を向けることはないというのに」
伴侶の耳許でそう囁いた。伴侶は顔を上げた。涙に濡れた翠の瞳は昏い深淵を露にしていた。そんな暗闇すらも美しい、鮮烈な女。延王尚隆が伴侶と定めた、ただひとりの女──。
2006.08.22.
「4万打」記念企画、中編「昏闇」連載第3回をお届けいたしました。
陽子に巣食う「心の闇」でございます。尚隆と一緒に私も切迫しております……。
2006.08.23. 速世未生 記