昏 闇 (5)
* * * 9 * * *
娘の朱唇から、甘い吐息が漏れた。瞳を潤ませ、娘は微笑む。華奢な腕が、優しく尚隆の背に回された。そして、娘は、尚隆の情熱をその身に受け入れた。
少し顔を歪ませ、それでも初めての痛みに耐える娘を、愛おしい、と思った。これ以上、無理をさせるまい。尚隆はそう思い、そのまま娘を静かに抱きしめた。
瞳に滲む涙が、瞬きとともに零れた。その涙を、唇で拭う。そして、瞳を閉じた娘に、口づけを落とす。甘く、熱く、娘の朱唇を、じっくりと味わう。ぎこちないながらも、娘はそれに応え始めていた。
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朝食の席に、伴侶は結局現れなかった。尚隆はいつものように給仕をする女御にわけを訊ねる。
「陽子はどうしたのだ?」
「──申し訳ございません、気分が優れない、と。文を託されました」
困惑したように鈴は頭を下げた。尚隆は差し出された文を読む。早々に帰国願う、と一言書かれていた。尚隆は苦笑して鈴に問うた。
「──帰れ、と?」
「約束を破ったのだから、当然と……。かなり怒っておりました」
「それは不本意だ。約束を違えた憶えなどないのだが。──まあ、よい。俺はまだ帰るつもりはないから」
「そのように申し伝えます」
鈴は一礼し、下がっていった。尚隆は朝食後、そっと扉の前に立つ景麒に気づいた。目を向けると、景麒は黙って頭を下げる。
「景麒、玄英宮に、後宮を用意する」
尚隆は笑みを湛え、静かに断じた。景麒は軽く目を見開く。物問たげな夕闇色の双眸を真っ直ぐに見つめ返し、尚隆は口を開く。
「──俺は、陽子を喪いたくない。お前も、そしてあの男も、それは同じだろう?」
尚隆の問いに、景麒は黙して頷く。そして、静かに頭を下げ、去っていった。尚隆はその後ろ姿を見送り、薄く笑った。
掌客殿に戻ると、顔を紅潮させた伴侶が待っていた。尚隆は悪戯っぽい笑みを向けて、伴侶に歩み寄る。伴侶は警戒心を露にして後退りした。尚隆は、そんな伴侶にゆっくりと問うた。
「文ひとつで追い払うなど、失礼ではないか?」
「──失礼なのは、あなたのほうだろう」
「心外だな、俺が何時そんなことをしたというのだ?」
「よくも──真顔でそんなことが言える」
怒りも露に伴侶は拳を握る。こんなにも感情を素直に見せるのは久しぶりだ。最近の伴侶は女王振りが板について、面白味に欠けていた。そんなことをうっかり口走ったら、また烈火の如く怒るのだろうが。
尚隆は不敵な笑みを見せて、一気に間合いを詰める。それを予想していたかのように、伴侶は飛び退る。まるで太刀を抜きそうな勢いだった。翠の瞳が、物騒な光を浮かべる。
「──もう、その手には乗らない」
「俺は、お前の伴侶ではないのか?」
伴侶を捕まえ損ね、じりじりと前進しながら尚隆は苦笑する。同じくじりじり退りながら、伴侶は尚隆を睨めつける。
「そう思うなら、それらしくしたらどうだ」
「お前が逃げるからだろう」
尚隆は片眉を上げ、揶揄した。伴侶は即座に憤然と言い返す。
「──逃げたくなるようなことをしているのはそっちだろう!」
「ああ言えばこう言う……」
尚隆は足を止め、腕を組んで嘆息した。伴侶は油断なく身構えながら、尚隆を鋭く見つめる。尚隆は再び苦笑し、おもむろに問う。
「お前は、俺がどうすれば、満足するのだ?」
「──早々にご帰国願おう、延王尚隆」
伴侶は女王の顔をして、冷たく言い放つ。尚隆は大きく肩を竦めた。
「随分つれないな、久しぶりに会えたというのに」
「あなたが我儘ばかり言うからだろう」
「では、せめて禁門まで送ってもらおうか」
尚隆は苦笑したまま深い溜息をついた。延王尚隆が背を向けるまで、怒れる女王は緊張を解かなかった。
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交わされる口づけは、次第に濃厚になっていく。背に回された細い腕が、熱を帯びてきた。娘の顔から、苦痛の色が消える。艶麗な、女の顔を見せる娘に、尚隆は息を呑んだ。娘は、手を止め、見とれるほど、美しかった。
* * * * * *
伴侶は有無を言わせず尚隆を追い立て、禁門へと進む。黙って歩きながらも、尚隆は考える。このまま大人しく帰国するつもりはなかった。ただ怒らせるだけでは、何かが足りない。やがて、よいことを思いつき、尚隆は密かにほくそえむ。
禁門が見えてきた。さて、そろそろ仕上げにかかろう。女王の怒りを受けるのを避けるためか、付近に人の気配はない。
尚隆は振り返りざまに伴侶を抱きすくめ、口づけを落とした。驚愕し、抵抗しようとする伴侶に構わず、存分にその朱唇を味わう。
やがて唇を離すと、伴侶は目を見開き、真っ赤になって口許を押さえた。その小娘のような仕草を、尚隆は人の悪い笑みを湛えて見つめた。伴侶の顔は、怒りのあまり、ますます紅潮していった。
「小松尚隆っ! いい加減にしろ! 貴様は当分、金波宮出入り禁止だ!」
凄まじい怒号とともに、尚隆は禁門から蹴り出された。禁門を守る兵卒が、何事かと飛んでくる。
「こいつを放り出し、二度と門を通すな」
国主景王の怒声に、門卒は驚愕とともに平伏する。伏礼を嫌う女王はいきり立ち、更に怒気を強める。門卒たちはますます竦みあがった。そんな様子を、尚隆は尻餅をついたまま、面白げに眺めていた。門卒の一人が遠慮がちに伴侶に声をかける。
「恐れながら、主上……」
「なんだ」
「そのお方は、延王とお見受けいたしますが……」
門卒の問いかけは尤もなものだった。自国の女王は伏礼を嫌うが、他国の王には礼を尽くさねばならないからだ。しかし、怒れる女王は鼻を鳴らし、侮蔑的な目を尚隆に向けた。
「ふん。この男はただの風来坊だ。偉大なる延王ともあろう方が、こんな恰好で不躾に現れるものか」
その勁い瞳には、朝の儚げな姿は見当たらなかった。尚隆は鷹揚に笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。それから、鋭い視線を投げる伴侶を見下ろして、軽く言い返した。
「こんな恰好とはお言葉だな。お前の恰好とてそう変わらないと思うがな」
「御託を抜かさず、とっとと帰れ! ちゃんと出迎えてほしければ、公式に訪問してみろ」
景王陽子はますます激した。顔を蹙め、憤然と怒声を返す女王を、尚隆は面白げに見つめる。怒りに任せて、伴侶はいいことを言ってくれた。ほう、と笑い、尚隆はおもむろに確認する。
「公式訪問でなら、そんな恰好ではなく、正式に大袞で出迎えてくれるのだな?」
「勿論だ。公式に訪問していただければ、私も大袞で正装してお迎えいたそう。ただし──」
景王陽子は延王尚隆に凄惨な笑みを向ける。夜叉のようなその笑みも美しいものだ。尚隆は暢気にそう思ったが、無論口に出すことはなかった。
「くだらん用事で正式訪問などしてみろ、そのときは、永久に出入り禁止だからな」
そう言い捨て、鋭い一瞥をくれると景王陽子は豊かな緋色の髪を靡かせて踵を返した。足音荒く去りゆくその後ろ姿を、尚隆は苦笑して見送った。
困惑気味に二人の王のやりとりを見守っていた門卒は、王の退場後、延王に伏礼した。それから、そのうち一人が尚隆の騶虞を連れ出しに走っていった。
「やれやれ。ずいぶん怒らせてしまったな。まさか、蹴り出されるとは」
尚隆は薄く笑うと、残る一人に聞こえるように呟いた。溜息をつきながらも、尚隆の声は笑いを含んでいた。
「近いうちに、また来る。なに、お前たちに迷惑はかけまいよ」
尚隆は平伏した門卒に太い笑みを見せる。門卒は畏まって、はい、と一言答えた。
尚隆は、己の騶虞に跨って宙に浮かび上がった。これから手配しなければならないことを反芻しながら。それを知ったら、伴侶はどんなに驚くだろう。見開かれる翠の瞳を思い浮かべ、尚隆は微笑した。
2006.08.26.
「4万打」記念企画、中編「昏闇」連載第5回をお送りいたしました。
「慶賀」冒頭に辿りつき、やっと切迫感が取れました!
──そのため、少し間が開くかもしれません。
8月中には仕上げたいと思いますので、最後までよろしくお付き合いくださいませ。
2006.08.26. 速世未生 記