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深 奥 (3)

* * *  5  * * *

 宴は恙なく終了した。女史や女御とともに談笑しつつ、主は賓客を掌客殿へと送っていく。浩瀚は密かにその背を見つめていた。そして、笑いさざめく声が届かなくなる頃。
「浩瀚」
 背後からかけられた静かな声に振り返り、浩瀚は恭しく拱手する。宰輔はまだ憂いに満ちた貌をしていた。状況は、変わっていない。それと知りながらも問わずにはいられなかった。
「台輔、如何ですか?」
 浩瀚の短い問いかけに宰輔は首を横に振る。伴侶の訪れも、主の憂えた心を動かすことはできなかったのだ。浩瀚は我知らず溜息をつく。夕闇色の双眸が物言いたげに浩瀚を見つめた。
「台輔、今はかの方にお任せいたしましょう」
 浩瀚は宰輔を真っ直ぐに見つめ返す。打てる手は全て打った。後は任せろ、と目で告げた延王尚隆に託すしかないのだ。大きく嘆息した宰輔は、それでも微かに頷いた。宰輔の了承に感謝の拱手を送り、浩瀚はその場を辞した。

 ひとり房室に戻った浩瀚は、力尽きて臥牀に倒れこんだ。しかし、頭は冴えたまま眠気を感じることがない。それでも、敢えて目を閉じると、主の憂い顔が浮かんだ。長い睫毛を伏せて俯いていたその横顔が、不意に上げられる。己の堂室に忍んできた隣国の王を認め、主は鮮やかな笑みをほころばす。そして、己が身を伴侶に委ねるのだ。他の誰も知らぬ、女の貌をして。
 あの日見た夢が、色鮮やかに蘇る。いつも凛然と坐し、強い覇気を見せる女王が、艶やかに笑み、細い腕を差し伸べる。しかし、その手を取ってよいのは浩瀚ではない。

「──どうした? それがお前の望みなのだろう? 臆したか?」

 その場に立ち尽くす浩瀚の胸に響く明朗な男の声。延王尚隆が面白そうに見つめている。かつて浩瀚を挑発した時と同様のその姿。浩瀚は唇を噛みしめる。これは現実ではない。単なる幻影だ。分かっていながら、浩瀚は主の伴侶の嘲弄を退けることはできなかった。

「欲しいなら、手折ってみよ。陽子あれは己を欲する男を拒むことはない」

 主の伴侶は楽しげに笑い、更に挑発を重ねる。そんなはずはない。主が求める男は己の伴侶だけだ。他の男を受け入れるわけがない。浩瀚は笑い含みのその声に耳を貸さなかった。

「俺に遠慮することはないぞ。陽子あれはお前を必要としているからな」

 無論男としてではないが、と主の伴侶は嘲笑う。浩瀚は思わず顔を上げた。そしてこの場にいるはずもない男を睨めつける。視線で人を殺せるならば。そう思うほど、目の前の男が憎い。

「──そういう目をする男、俺は嫌いではない」

 男は浩瀚の視線を受けとめて唇の端を上げる。楽しげな笑みは王者の余裕を感じさせた。却って浩瀚の神経を逆撫でするほどに。浩瀚は昂然と言い返す。
「──私は、あなたに好かれるつもりはございません」
「そうか。それは残念だ。陽子」
 男は軽くそう返すと主の名を呼んだ。嫣然と笑う主を当り前のようにその腕に抱き寄せる。そして、浩瀚に見せつけるが如く主の朱唇に口づけた。主の細い腕がゆっくりとその背に回される。男の手が身体を撫でると、主は甘く喘いだ。

 隣国の王は、主の伴侶。主が愛し、己を預ける唯一無二の男。

 分かっているはずなのに。今まで、敢えて考えないようにしていた事実が浩瀚を打ちのめす。愛しいひとは己のものではない、という厳然たる事実が。

 浩瀚はその場から逃げ出したかった。が、足は床に貼り付けられたように動かない。浩瀚は固く目を閉じ、耳を塞いだ。それでも目の前の光景は全く変わらない。ふと気づく。これは現実ではないのだ、ということに。ならば、見たくない幻影を消し去ることは、可能かもしれない。
 隣国の王に挑むなど、現実では考えられないことだ。殺してしまえば雁が滅ぶ。それ以前に、剣豪で名高い延王尚隆が、大人しく殺されてくれるわけがないのだ。
 浩瀚は目を開ける。目を閉じている時と同様に、女の貌をした主と、そんな主を抱く隣国の王の背が見えた。右手には、冷たく重い感触。恐る恐る目を向け、浩瀚は息を呑む。己の手には、剣が握られていた。神仙をも斬ることができる、冬器の剣が。

* * *  6  * * *

(隣国の王を手に掛けるわけにはいかない)
(いや、これは現実ではない)
(主の伴侶だ)
(単なる幻だ)

 胸の中で鬩ぎ合う相反する想い。浩瀚は右手に持つ剣の重さに身震いした。幻とは思えぬ質感を擁する剣を、静かに持ち上げる。冷たく光る刀身は、浩瀚の顔を映す。今まで見たこともない、醜く歪んだ己の貌。

 これが己の真実か。

 怜悧な冢宰、景王の右腕と称される男は、こんなにも浅ましいのか。浩瀚は自嘲の笑みを浮かべる。
 己は何のために生きているのか。何を求めているのか。国が荒んでいた時には考える余裕もなかったことを、今、問われているような気がした。そのとき。

「──何故、躊躇う?」

 伴侶に抱かれた主が問うた。いつかの夢でも聞いた、妖艶な声で。心のままに振る舞え、と誘う暗闇の甘い囁きは、浩瀚を惑わせる。そう、あのときも、浩瀚は抗いがたいその誘惑に屈した。そして、今もまた。
 意を決し、浩瀚は主の伴侶に後ろから斬りかかった。確かな手応えとともに鮮血がしぶく。斬られた男は背を血に染めて振り返る。浩瀚は躊躇いなく男の首を一刀両断した。大きな体躯がゆっくりと倒れる。そして、男に抱かれ、隠されていた女の姿を露にした。
 主はただ目を見張っていた。その翠玉の瞳は斃れた伴侶には目もくれず、浩瀚だけを見つめている。肩で息をする浩瀚は、そんな主に走り寄った。華奢な身体をきつく抱きしめる。主は浩瀚を拒むことなかった。それどころか、ひととき浩瀚を強く抱くと、信じられない言葉を吐いた。

「──ありがとう、浩瀚」

 そう言い様に、主は浩瀚の腕を抜け出した。落ちている血塗れの冬器を躊躇なく取り上げて、主は愛しむような笑みを見せる。

「これで、私も逝くことができる……」

「主上!」
 浩瀚は驚愕した。そんな浩瀚に構うことなく、主は伴侶だった男の首を拾い、右手に持つ剣ごと愛おしげに抱きしめた。そして、斃れた男の身体の横にそっと置き、剣を己の首筋に当てる。浩瀚は凍りついたように主のその様を見つめていた。
「──何を……なさるおつもりですか」
 浩瀚は震える声で問うた。これから何が起きるかなど、分かり切っていながら。主は答えなかった。ただ、晴れやかな笑みを見せるだけ。そして、景王陽子は迷いなく己の首を落とした。口許に笑みさえ浮かべて。再び鮮血が飛び散り、折り重なる二人の王の身体を赤く染めていった。

 こんなはずではなかった。

 浩瀚は嘲弄する主の伴侶を除きたかっただけだ。主を喪うことなど考えてもみなかった。そんなとき、揶揄うような声がした。

「慶と雁が同時に滅ぶな。お前の愚かな行いのせいで」

 胴と切り離された延王尚隆の首が嘲笑する。既に事切れたはずの男が楽しげに語りかける様を、浩瀚は声なく見つめた。
 己は何をしたかったのだろう。主を喪ってまで何かを成したいと思っていたのだろうか。首だけとなった延王尚隆は酷薄な笑みを浮かべ、厳かに断じた。

「それがお前という人間だ。愛する者を滅ぼしても手に入れたいと願う浅ましい人間だ」

 嘲弄の言葉を残し、男の首は動きを止めた。と同時に闇が辺りを包み隠す。ただひとりの主と決めていた愛しい女をも呑みこんで。そのとき。

「──夢は、お前の暗闇を、暴いたか?」

 淡々としながらも暗闇を切り裂く女王の声が響く。翳りを纏う景王陽子が、立ち尽くす浩瀚をじっと見つめていた。
「──図星か?」
 昏い瞳を向けて問う主に答えることはできなかった。浩瀚は視線を床に落とす。

「──恥じることはない。私とて同じだ。人には語れぬ暗闇を持っている……」

 主の美しい姿は、自嘲じみた言葉とともに暗闇に吸いこまれていった。空虚な闇に取り残され、浩瀚は一人立ち尽くす。己の浅ましい想いがいったい何を齎したのか。夢か現か分からぬ出来事を反芻し、浩瀚は恐怖に慄く。しかし、それは、浩瀚に己のほんとうの望みを示唆するものでもあった。

2011.07.06.
 中編「深奥」第3回をお届いたしました。
 ──さすがに語る言葉が出てまいりません。
 気分を害した方がいらしたらごめんなさいね。

2011.07.09.  速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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