* * * 8 * * *
延王の勅使とともに雁に行くことが決まった景王陽子は、色めきたった女御たちにこれ以上ないくらいに飾り立てられていた。
「──私の装いに国の威信がかかっていることは分かっているが……。もう少し、旅に相応しい支度をしてくれないか? ──それに、このなりでは、武断の王であらせられる延王が驚かれる」
髪に何本も挿された簪を気にしながら、景王陽子は嘆息した。こんなに裾を引く襦裙を着て、騎獣に乗ることができるわけがない。主の深い溜息にも負けず、女御たちは鼻息荒く言い返す。
「主上、何度も申し上げておりますけれど、これでも足りないくらいでございますわ」
「大国雁に向かわれるというのに、いつもの簡素な装いでは、あちらさまにも失礼でございます」
「──かといって、こんなに長い襦裙では騎獣の上に乗れないし、この重い頭では、騎獣に乗っていられない」
これ以上は譲れない、そう繰り返す女御たちに、陽子は必死に食い下がった。それでやっと簪を一本にさせ、裾を引かない襦裙に着替えることができた。そして、勅使の待つ客殿へ向かった。
「──おお、これは景女王、なんとお美しい。わが主上もさぞ驚かれることでございましょう」
景麒とともに客殿で景王を待っていた勅使は、姿を現した陽子を見てそう賛辞し、恭しく拱手した。その素性を知る陽子は、全く褒められている気がせず、無言で頷くのみだった。景麒は能面のように表情を変えなかったが、あまり良い気分でないことは見て取れた。
その後、恭しく拝礼する官吏たちと、渋い顔の景麒に見送られて、景王陽子は雁国延王の勅使とともに禁門を出た。
金波宮が見えなくなると、取り澄ました雁国延王の勅使が笑いだした。そして、摧けた口調で陽子に話しかける。
「こんなにうまくいくと思わなかったな。景麒も丸くなったものだ」
「──笑いごとじゃ、ないと思うんだけど……」
陽子は溜息をつく。雁の勅使は人が変わったように陽気な笑みを見せる。
「お前は真面目だな、陽子。そのままでは、到底あの官僚どもを出し抜くことはできぬぞ」
「──
尚隆」
陽子は呆れ顔だった。延王尚隆は自ら雁の勅使を任じ、旅券を届けに来て、陽子と景麒の度肝を抜いた。そして、渋る景麒を難なく説得し、陽子を連れ出すことに成功したのだった。この後、尚隆は雁に向かうと見せかけて、景麒の手配した里まで陽子を送り届ける手筈になっている。
「──さて、この姿では街には降りられんな。どこかで着替えなくては」
尚隆は独り言のようにそう呟く。陽子はそれに同意した。尚隆は使者らしく官服に身を固め、陽子は景王の威厳に相応しく美々しい襦裙姿であった。こんな姿で里に行くわけにはいかない。
「とりあえず、最初は堯天だな」
「──え?」
予想もしなかった尚隆の言葉に、陽子は大きく目を見張る。尚隆は人の悪い笑みを浮かべ、陽子の肩を軽く叩く。
「せっかくだから、王都見物もしていこう。お前は景王なのに、堯天すらまともに見ていないだろう」
どうやら最初からそのつもりだったらしい。尚隆の目は悪戯っぽい光を湛えていた。
──景麒が渋るはずだ。
思わずそう納得し、陽子は頷いた。
景麒を拝み倒して二日だけ巧に行った。その他は、あちこちに挨拶回りに出かけただけで、ずっと金波宮に閉じこもりきりだった。何も知らない、と嘆息するだけで、誰も陽子に下界を見てもよいなどとは言ってくれなかった。
「王はな、己の目を己で養うことも必要だ」
「──はい」
そして、延王尚隆は重々しい口調で景王陽子に語りかける。陽子は神妙に頷いた。しかし、もっともらしい話とは裏腹に、尚隆の目は人の悪い笑みを浮かべている。
「──でも、それって、言い訳のような気がするけど」
「ほう、よく分かったな」
尚隆は呵呵と笑う。陽子はただ戸惑いを見せるばかりだった。
* * * 9 * * *
雁国延王の勅使とともに、華々しく禁門を飛び立った主を、渋い顔で見送った景麒は踵を返した。自ら使者を任じてやってきた隣国の放埓な王に閉口しながらも、景麒の心は晴れ晴れとしていた。
──かの方が真っ直ぐに目的の里へ主を送り届けるわけがない。
隣国の気儘な王は、王は見聞を広めるべきだ、と大真面目に主を諭すのだろう。そしてきっと主を連れまわす。生真面目な主はそれに黙って従うのだろう。目に見えるようだ。景麒は口許を少し歪め、深い溜息をつく。
延王尚隆が見せた皮肉めいた嗤い。稀代の名君と称えられる王は、一見して分かってしまったらしい。主の苦渋も、景麒の苦悩も。景麒が選んだ輝かしき主を景王として最も認めているのは、他でもない、隣国の王なのだ。自国の
官吏ではなく。
若い主に代わって影で奔走する景麒を、かの方は見抜いていた。最も知られたくない相手に、自国の恥を見せてしまった。しかし、これほどまでに何もかもが膠着してしまっては、どうにもならない。
主本人がこの状況を打破しようと動き始めたのだ。
それは喜ばしいことだった、そして隣国の王は、またもや助力をしようとわざわざ現れた。しかし、今の景麒にはそれを大きなお世話とは言えなかった。主と同じ、胎果の王。主の気持ちを理解できる、唯一の人物。
胎果として、王として、──伴侶として。
景麒は首を振り、大きく溜息をつく。蓬莱で見つけた主は、頼りない小娘だった。景麒は苛立ちを隠せなかった。慶は貧困に喘いでいるというのに。慶の民は救いを求めているというのに。
またもや、玉座を疎む女王が起ってしまうのか──。
しかし、主は大きく変わった。自ら景麒を助けに出向き、再会したときにはまばゆい覇気を見せた。その横顔は、紛れもなく王のものだった。
主と離れていたときに起こった出来事は延麒が詳しく語ってくれた。赦しがたい暴挙。主がそんなふうに貶められるとは思ってもみなかった。隣国の偉大な王が、男の力を行使するとは。
主は必死に否定したが、景麒は信じられなかった。信じたくなかった。わが主は、二代にわたり、恋に沈むのか──。そう思うだけで身体が震えた。それくらいならば、隣国の王が主に強いたと思うほうがまだ受け入れられた。そこまで考え、景麒は愕然とする。
己はまだ、立ち直っていなかったのか。前国主景王舒覚をたった六年で喪ってしまったことから──。
前の主の儚く繊細な顔を思い浮かべる。思いつめ、そして、とうとう蓬山に赴いた優しくも心弱き王を。
麒麟は王の半身。王がいなければ生きていけない存在。景麒はもう主を喪いたくはなかった。即位式で見た主の鮮やかな笑みを思うと胸が痛んだ。不本意ではあるが、景麒にはできないことを、主の伴侶はやってのける。
かの方の寄り道は主を成長させるだろう。
今はそれに賭けるしかない。そして、主がいなくなった金波宮は、ますます官吏の横行が進むだろう。主の代わりに朝を守らなければいけないのだ。やることは山積みだった。
「──台輔」
道すがら景麒に話しかけた者がいた。恭しく拱手したその人物を見て景麒は眉根を寄せる。冢宰──いや今は太宰となった靖共であった。
「何か?」
「──台輔のご苦労をお察し申し上げます。宰輔が冢宰を兼ねるなど、前代未聞のこと。何かお困りのことがあれば、元冢宰の私めが台輔のお力になりますゆえ」
大宰靖共は慇懃にそう語る。
冢宰を降りようとも権を手放す気はない。
景麒にはそう聞こえた。景麒は重々しく頷いただけだった。
王朝の覇権を巡る陰湿な戦いはまだまだ続く。それをなくすためには王が王として権威を確立するしかない。主が真に景王として玉座に君臨することで初めて王朝は落ち着くのだ。
景麒は大きな溜息をつく。しかし、それはもう、絶望のためではなかった。揺るぎない瞳で前を見つめはじめた主を信じよう。隣国の偉大な王に、今は主を任せよう。
くれぐれもご無事で。あなたは国主景王。慶東国の全ての民が仰ぎ見る希望の光なのです。
祈りを込め、景麒は呟く。いつもあなたを案じております、と。
2005.12.01.