黎 明 (4)
* * * 10 * * *
質素な袍に着替え、尚隆と陽子は堯天の街に足を踏み入れた。尚隆は慣れた様子で陽子を案内する。
「まずは舎館選びからだな。たまを預けなければ」
陽子は尚隆の説明に耳を傾ける。尚隆の連れている騎獣は稀な騶虞だ。舎館はしっかりした厩のあるところに限られるそうだ。そして、適当に舎館を見繕って騶虞を任せた尚隆は、陽気に街へと繰り出す。陽子はただただ面食らってつき従うのみだった。
堯天の街は活気に満ちていた。もちろん、貧しいなりに、と但し書きはつくが。内乱が終わり、新王が即位し、慶はこれから良くなっていくのだ──。街にはそんな希望がそこかしこに溢れていた。民の新王への期待を肌で感じ、陽子は目を見張る。
「お前は、こんなにも待たれていた存在なのだぞ」
尚隆は穏やかにそう言った。陽子は声もなく頷いた。金波宮では官吏が横行し、お飾りの王でしかなかった。官は王など置物としか思っていない。しかし、街はそうではない。
天災が収まる。妖魔が出なくなる。しかし、王の存在が人々にもたらすものは、それだけではない。民にとって王とは神。神なる王は、民に賢治を恵んでくれる者。そして、人々の希望の象徴でもあった。
──私は必要とされている。
陽子は胸に熱いものを感じた。官との拮抗に明け暮れているうちに、何時の間にか大切なものを見失っていた。王は官のために在るのではない。あくまでも民のため、国に安寧を齎すために存在するのだ。
街に降りようという己の決心は、間違いではいなかった。
民の幸福、国の安寧を望み、それを実現するのが王ならば、街の様子を見聞するのは基本的なこと。ましてや陽子は胎果なのだ。何も知らないならば、知らなければなるない。誰も教えてくれないのなら、教えてくれる人を捜さなければなるまい。
陽子は尚隆を見上げた。今はこのひとに学ぼう。陽子と同じく蓬莱からやってきた先達。五百年もの永きに渡って玉座に君臨する隣国の王に。
「案内を、お願いします」
「お安い御用だ」
陽子は頭を下げ、笑顔を見せた。尚隆は破顔し、大きく頷いた。
それから二人は堯天の街をそぞろ歩いた。陽子にとっては何もかもが珍しかった。陽子があれもこれもと質問攻めにしても、尚隆は億劫がらずに丁寧に答えてくれた。たまに、明らかな嘘も混じっていたが、それも一興だった。
楽俊と旅をしたときも、こうしていろいろなことを教えてもらった。陽子は懐かしく思い出していた。ここには十二の国があること、海客や半獣のこと。基本的なことは親友ともいえる楽俊が詳しく教えてくれたのだった。
「──どうした?」
「──楽俊と旅をしていたときのことを、思い出していた」
ふと遠くを見た陽子に、尚隆が問う。陽子は懐かしげに答えた。尚隆は微笑した。
「そういえば、聞いたことがなかったな」
ぽつりぽつりと語る陽子の言葉を、尚隆は時折相槌を打ちながら聞いてくれた。ただそれだけのことなのに、陽子の心はほのぼのと温まった。
夕暮れまで堯天見物を続け、二人は舎館に戻った。飯堂で夕食を取り、房室に入った。
「楽しかった。ありがとう」
まだ興奮抜け切らない陽子は、頬を紅潮させて礼を述べた。尚隆は愛しむような目を向け、何も言わずに陽子をそっと抱き寄せた。
「尚隆?」
昼間とは打って変わった尚隆の様子に、陽子は戸惑った。尚隆はただ優しく微笑み、陽子に口づけた。そして陽子を抱き上げると臥牀に向かう。熱を帯びた目で問いかける尚隆に、陽子は微笑で応えた。
その情熱に身を任せ、陽子は思う。何て大きなひとなのだろう、と。このひとは、きっと、もっと色々なことを知っているに違いない。しかし、全てを教えてしまうことが陽子によいとは思っていない。陽子が自ら学び、悟ることを望んでいる。
その期待に応えたい。このひとに相応しい伴侶になりたい。この優しい胸に守られるだけではなく──。広い背に腕を回し、陽子は誓いを新たにした。
暗いうちにに舎館を出た。尚隆は、陽子をひょいと抱き上げると、己の騶虞に乗せた。そのまま後ろに飛び乗る。いつも陽子を乗せる班渠は妖魔。街の中では騎乗するわけにはいかない。景麒が手配した里の門が開くのは夜明け。お互い黙したまま、里の近くまで空を飛んだ。
里閭が見えてきた。不意に抱きしめられた。振り返る陽子は落とされる熱い口づけ。見つめる瞳に浮かぶ複雑な色──。そんな尚隆に微笑を返し、陽子は騶虞から下りた。
「──行ってきます」
陽子は尚隆を見上げ、笑顔でそう言った。言いたいことは沢山あった。が、それ以外は言葉にならなかった。今度はいつ会えるのかも分からない。そんなことを口にしては涙が零れてしまいそうだった。
そして陽子は踵を返す。里閭に向けて陽子は駆け出した。黙して見送る尚隆の視線を背中に感じながら。
* * * 11 * * *
延麒六太は景王陽子の親友である楽俊に会いに行っていた。陽子の近況を伝えるために。陽子の家出を知った楽俊は案の定、心配そうに溜息をつく。そんな楽俊を過保護すぎると諌め、六太は笑った。
そろそろ帰ろうと立ち上がりかけ、六太は小さく溜息をつく。楽俊には言っておいたほうがいいかもしれない。
「楽俊──」
六太は声をかけながらも目を逸らした。言いよどむ六太を、楽俊は首を傾げて見つめた。
「お前には、やっぱり言っとく」
六太は楽俊をじっと見返した。楽俊は黙して六太の言葉を待つ。
「陽子んとこには、もっと心配性な奴が、旅券をもって吹っ飛んでいっちまったんだ」
楽俊の尻尾がぴんと立った。
「心配してんだか、面白がってんだか、よく分かんねえんだけど、あの
尚隆……」
六太は気まずそうだった。楽俊は小さく笑った。
「そんなら、おいらが心配することは何もないですね」
「悪いが、陽子のことは、奴に任せてくんねーか。その分、柳を頼む。奴が慶から柳まで周っちまったら、いつ帰ってくるか分かんねーからな」
楽俊はもう事情を理解してくれたようだった。六太は安堵の息をつくと、にっと笑って立ち上がった。
「そうそう、言っとくが、尚隆がお前に親身なのは、陽子は関係ないぞ。楽俊が優秀だからだ。そこんところ、了解しといてくれ」
「──分かりました」
楽俊は照れたように、髭をそよがせた。
延麒六太を見送った後、楽俊は溜息をついた。
「陽子と、延王が──」
あのとき、あんなに傍にいたのに、全く気づかなかった。いったい、何時からなのだろう? 玄英宮にいたときも、二人ともそんな素振りを見せたことはなかった。楽俊はふっと息をついた。
少し淋しい気がした。陽子は楽俊のことを友達だと言ってくれた。楽俊もそう思っている。しかし、陽子は景王だ。雲の上に住まう、神のような存在なのだ。延王や延台輔と同じく。──延王ならば景王とお似合いだと思った。
そして楽俊は陽子と初めて会ったときのことを思い出していた。雨の中、倒れているのを見つけたとき、まるで手負いの獣のようだと思った。触るものをみな傷つけそうな昏い目をしていた。そのくせ、誰か助けて──と、どこかで叫んでいる。その姿は痛々しかった。
何かしてあげたい、心からそう思った。家に連れて帰り、親身に介抱した。実は娘だということが分かった。無防備な姿を曝したと知ったら、余計に警戒するだろうと予想できた。楽俊は同じ房間で寝ることを避けた。
少しずつ元気になっていっても、陽子はいつも怯えているようだった。どんな酷い目にあってきたんだろうと気になった。巧国は普通でないものを嫌う塙王が治めている。海客や半獣といった少数の者には住みづらい国だった。半獣である楽俊もそうだった。
巧では半獣はいつまでも一人前に扱ってもらえない。学校にも行けないし、仕事にも就けない。楽俊は、いつかは努力さえすればどんな者でも学校に入れる雁国に行きたいと思っていた。海客の陽子を胎果の王の国に連れて行くことは、楽俊にとって、夢を叶える第一歩だった。
そうやって、陽子と一緒に旅をするようになった。しかし、陽子は打ち解ける様子を見せなかった。少し哀しかった。それでも、楽俊は陽子に働きかけることを止めなかった。いつかは分かってくれるだろう、何故かそんな確信があった。
そしてある日、妖魔に襲われた。陽子は軽々と剣を操り、妖魔を倒していった。楽俊はそのとき怪我をして意識を失い、陽子とはぐれてしまった。
それから楽俊は雁に渡り、烏号で陽子を待った。船が着くたびに見に行った。再び見つけたとき、陽子は変わっていた。なんだか、目が離せない、そんな存在になっていた。そう、驚いたことに、陽子は一国の王だった。
行き倒れた景王を拾い、助け、友達になった。それは偶然の重なりだった。しかし、陽子は楽俊を大切な友達と言ってくれた。別れるときも、感謝の抱擁をくれた。ぶっきらぼうな言葉とともに。
相変わらず、ぶっきらぼうなのだろうか。玄英宮にいたときも、あまり変わらなかったように思うが、少しは女らしくなっただろうか。そう、全く変わらなかったから、延王と恋仲になったことにも気づかなかったのだ。
女王なのにな、と楽俊は笑う。出会ったときは、豊かな緋色の髪と翠玉の瞳、それよりほかに飾るものを持たなかった娘。女王となった今は、絹の襦裙に包まれ、煌びやかな宝玉で飾っているのだろうか。
即位式に見た、正装の美しさを思い出す。文句なく麗しい女王ぶりだった。だが、美しく装った艶やかな女王は、女物の綺麗な襦裙は煩わしい、と眉を顰めて不平を言っていた。
きっと景王陽子は、楽俊がよく知っているあの陽子のままなのだろう。一国の主だというのに、ふらりと気儘に大学に現れる鷹揚な延王と同様に。
そんな二人だから、惹かれあうのだろうか。──やっぱりお似合いだな、そう思い、楽俊はくすくす笑う。
「なかなか会えなくて大変だろうなあ」
楽俊はしみじみそう思った。
* * * 12 * * *
簡素な袍に着替え、尚隆は陽子を伴って王都堯天に足を踏み入れた。予想通り、陽子は堯天すらまともに見てはいなかった。金波宮の官の中に、新王に王都を見せてやろうなどと思う者がいるはずもない。
「まずは舎館選びからだな。たまを預けなければ」
陽子は首を傾げる。尚隆は微笑した。
騶虞は稀な騎獣だ。舎館はしっかりした厩があるところに限られる。そんな説明をしながら、尚隆は舎館を物色した。
適当に舎館を見繕って騶虞を任せ、荷物を置いた尚隆は堯天の街に繰り出した。陽子は面食らったような顔を見せ、それでも黙ってついてきた。
堯天の街は、尚隆が以前来たときよりも、ずっと活気に満ちていた。それが、王がいる国といない国の明らかな差なのだ。戦が終わり、新王が即位し、慶はこれから立ち直っていくのだ──。街の人々の顔はそんな明るい希望に満ち溢れていた。それを肌で感じたのか、陽子は大きく目を見張る。
「お前は、こんなにも待たれていた存在なのだぞ」
尚隆は静かにそう言った。陽子は声もなく頷いた。陽子の瞳に勁い光が戻ってきた。尚隆は微笑を浮かべた。それでこそ、己の伴侶だ。
そして陽子は鮮やかな笑顔で尚隆を見上げる。尚隆と目が合うと、陽子は頭を下げた。
「案内を、お願いします」
「お安い御用だ」
尚隆はその素直な願いに笑みをほころばせ、大きく頷いた。
それから二人は堯天の街をそぞろ歩いた。見るもの全てが珍しい陽子に、放浪好きな尚隆が説明を加える。陽子は宮城にいたときとは別人のように生き生きとした表情を見せた。尚隆はそんな陽子を温かい眼差しで見守った。
また、尚隆はあまりにも何も知らない陽子に、悪戯心を刺激された。茶目っ気を見せ、明らかに嘘と分かることを教えることもあった。気づいた伴侶に怒られたりもしたが、それも一興だった。
そして、陽子はふと遠くを見つめる。気づいた尚隆は陽子に問うた。
「──どうした?」
「──楽俊と旅をしていたときのことを、思い出していた」
そう答えると、陽子は懐かしげな笑みを見せた。尚隆は微笑した。
「そういえば、聞いたことがなかったな」
灰茶色の毛並みを持つ鼠は、初めて陽子が尚隆の前に姿を現したときにも、影のように陽子の傍にいた。思慮深く、海客である陽子を厭いもせずに、巧から雁まで案内した、陽子の親友。陽子は懐かしいそうに、しばらく会っていない親友の話をする。尚隆は、しばしその思い出話に耳を傾けた。
日が暮れるまで堯天見物を楽しんだ後、二人は舎館に戻って食事を取った。それから一緒に房室に入った。
「──楽しかった。ありがとう」
頬を紅潮させて鮮やかに笑う陽子は美しかった。眩しげに見つめ返すと、尚隆は何も言わずに己の伴侶をそっと抱きしめた。
「
尚隆?」
不思議そうに訊ねる陽子の朱唇に口づけを落とす。尚隆にできる手助けはここまでだ。隣国の王である尚隆には、慶で起きている陰謀を景王陽子に伝えることはできない。それを自ら乗り越えていかなければ、玉座を維持することはできないのだ。
己の力で試練に打ち勝ってほしい。
そう願わずにいられない。ささやかな助力は陽子のためだけではない。陽子の存在を欲する己のためでもあるのだ、と尚隆は自重する。
会いたかった。抱きしめたかった。
堯天を見せることなど、口実でしかない。そんなことは純粋に尚隆を信じている陽子に言えるはずもない。
細い身体を臥牀に横たえ、熱く抱きしめる。景麒の手配した里の門が開くのは夜明け。それまでには伴侶を送り届けなければならない。そして、次はいつ会えるのか、それすらも分からないのだ。
見つめあい、そして口づけを交わす。華奢な身体をきつく抱きしめ、その温もりを確かめる。蜜月の短い夜はあっという間に過ぎ去った。
暁に舎館を出た。陽子が班渠を呼ぶ前に、尚隆は陽子をひょいと抱き上げると、己の騶虞に乗せた。そのまま後ろに飛び乗る。別れが近い。しかし、まだ陽子を離したくなかった。お互い黙したまま、里の近くまで空を飛んだ。
やがて里閭が見えてきた。後ろからきつく抱きしめた。驚いたように振り返る伴侶に熱い口づけを落とす。何も言わずただ見つめるだけの尚隆に微笑を返し、陽子は騶虞から下りた。
「──行ってきます」
鮮烈な笑みひとつ残し、伴侶は踵を返した。簡素な袍に身を包んだ陽子は里閭に向けて駆け出す。前だけを見つめるその背に、尚隆はただ黙して視線を送る。
──目に見えるものだけが全てではない。己の真実を、己で掴め。お前が王として歩むために。
尚隆はそっと呟く。見守ることしかできないのだ、と己に言い聞かせながら。
2005.12.07.
お待たせいたしました、連載第4回でございます。
陽子が悩んでいる間に、沢山の人が様々な考えを持って動いておりました。
尚隆の立場は結構しんどいですね。さてお次は誰が登場でしょうか?
あまり期待しないでお待ちくださいませ。
2005.12.09. 速世未生 記