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黎 明 (5)

* * *  13  * * *

 夜明けと同時に里閭が開く。旌券を提示し、陽子は固継の里に足を踏み入れた。
 固継は最小単位の二十五家からなる小さな里だと教えられた。陽子が世話になるのは、里家と呼ばれる孤児や老人が住む家だそうだ。場所は里閭の前の広途を真っ直ぐ行けば分かると門衛は言う。
 陽子はゆっくりと広途を歩きはじめた。途の両側に並ぶ家は小さく、窓には玻璃ではなく紙が張ってある。雁では民家にも玻璃が入っていた。慶は貧しいのだ──。陽子は小さく溜息をつく。
 そのとき。陽子は耳に憶えのある羽音を聞いた。はっと空を見上げると、逞しい翼を大きく羽搏かせる獣が飛んでいた。

 ──妖魔。

 陽子は駆け出した。足許から密かに声がした。班渠だ。
「主上、お気をつけください」
「大丈夫、冗祐もいる」
 短く応えを返し、陽子は妖魔を追った。翼ある妖魔は民家の院子に降り立った。そしてすぐに上がる悲鳴。

 ──間に合わない。

 陽子は歯噛みする。声をめがけて門を潜り、中に入った。まだ生きている人がいる。
 躊躇わずに抜刀した。中門の屋根から飛び降りてきた妖魔に立ち向かう。虎に似たその妖魔の爪や牙をかいくぐり、陽子はその丸太のように太い脚を切り落とした。横倒しになった妖魔を素早く避け、それから止めを刺しに駆け寄る。一撃を振り下ろし、陽子は妖魔の首を落とした。

「……うそ」

 小さな声がした。陽子は露を払いながら振り返る。男の子を抱いた黒髪の少女が蒼白な顔をして座りこんでいた。緊張の糸が切れたのだろう。
 ──怪我は、と剣を収めながら短く問う陽子に、その少女は目を見開き、首を横に振っただけだった。そして、その腕の中で男の子が叫ぶ。後ろに妖魔がいる、と。
 陽子は間髪いれずに振り返った。再び剣を抜き払い、陽子はもう一頭の妖魔に向き直る。飛びかかってきた妖魔を躱しざま、その後頭部に一撃を与えた。のけぞった妖魔の肩に剣を突き通し、抜くと同時に身を捩って振り返る妖魔の喉を刺し貫く。妖魔は息絶え、横倒しになった。
 立ち上がった男の子が、すごい、と興奮したように声をかける。陽子はもう一度白刃の露を払い男の子を見た。

「怪我はないようだな」
「うん。おにいちゃん、すごいね」
 純真な瞳を返す人懐っこい男の子に、陽子は笑みを向けた。そして静まり返った奥を振り返る。先程聞こえていた悲鳴が止んでいる。妖魔の死骸を跨ぎ越し、陽子は奥へと駆け出した。そこには、鮮血に塗れ息絶えた三人の子供が倒れていた。

 陽子は俯いた。もう少し早く気づいていれば。間に合ったかもしれないのに。助けられたかもしれないのに。こんな里にもまだ妖魔は出るのだ──。新王わたしが登極したというのに。苦い思いが胸を締めつけた。

 やがて騒ぎを聞きつけて里の者たちが大勢やってきた。彼らは先程の娘を労い、死者を悼みながら里府へ遺体を運んでいった。陽子は院子の片隅に佇み、その様子を声もなく見送っていた。

「あの……ありがとう。──おかげで助かりました」
 後ろからおずおずと声をかけられ、陽子は振り向いた。さっきの少女が立っていた。いや、と短く答え、陽子は相手を見つめる。陽子よりも若干年上に見える黒髪の少女は、ここの住人なのだろうか。戸惑いと好奇心がないまぜになった目を向けている。
 小さな里にいると、見慣れない者が珍しいのだろうか。しきりに話しかけてくるその少女に、陽子は適当に答えを返した。余り詳しく話すとぼろが出るだろうと思ったからだ。しかし、少女は不思議そうに陽子に問いかける。それでは昨日は野宿だったのか、と。
 陽子は内心動揺する。辻褄の合わない話をしたのだろうか。答えれば答えるほど、少女はますます首を傾げる。陽子はどんどん墓穴を掘っているようだった。かといって、昨夜は堯天の舎館に泊まったと正直に答えるわけにはいかないだろう。陽子は返答に窮した。そのとき。

「その子は海客じゃよ」

 笑い含みの声が陽子に助け舟を出した。後ろに老人が立っていた。老人は里の閭胥だった。ここが里家だったのかと陽子は納得した。それではこの老人が景麒の言っていた遠甫なのだろう。
 陽子の問いに遠甫は笑顔で頷いた。そして、陽子を景麒が用意した中陽子ちゅうようしという偽名で呼び、少女に紹介してくれた。彼女は蘭玉という名だった。蘭玉は陽子を少年だと思っていたらしく、動揺していた。旅をしていたときは男で通していた陽子は、その反応に慣れていた。

 遠甫に促され、蘭玉は弟の桂桂を迎えに行った。二人きりになると、遠甫は陽子に向き直った。王に対する大仰な挨拶はない。陽子を里家の者として扱うと明言し、遠甫は微笑んた。。
「お礼申し上げる。よくぞ我らを救ってくだされた」
「まだこんな人里に妖魔が出るんですね」
 陽子は伏し目がちにそう言った。遠甫は笑顔で応えを返す。

「じきに出なくなりましょうよ。──慶には新王がおられますからな」

 陽子を見つめるその目は優しく、そして期待に満ちていた。

* * *  14  * * *

 遠甫は里家に預かることとなった国主景王を見上げた。鮮やかな紅の髪をひとつに括り、粗末な袍に身を包んだ男装の娘。静かに見つめ返すその翠の瞳は、宝玉のように輝かしかった。
 名も知らぬ子供のために、躊躇いもなく妖魔に立ち向かい、剣戟を振るった。妖魔を倒したその手際も見事だった。救えなかった者たちを悼む心を持ち、己を律することをも知っている。この若さにもかかわらず。遠甫は微笑した。

 ──浩瀚の見立ては正しい。

 実際に新王を己の目で見て、遠甫はそう確信した。

 新王については色々な者が様々なことを言っていた。宰輔を自ら助け出し、偽王軍にも立ち向かった武断の王だと期待する者。大国雁の延王が助力したのだから大丈夫だろう、と言う者。かと思えば、一部の臣の言ばかり容れる愚かな王と詰る者がいた。また、十六、七の胎果の小娘などに国を任せられないと憂える者もいた。
 その中で、即位祝賀の儀から帰った麦州侯浩瀚は涼しげな笑顔を見せた。

 為人は申し分ない、紛れもなく天命受けし王だ、と。

 遠甫は考える。為人は申し分ないこの王の、どこが問題なのかを。人に物を教えるためには、まず、その者をよく知らなければならない。遠甫はそれをよく理解していた。そのためには、陽子の話を聞くことから始めよう。遠甫は陽子に午後と夕食の後は遠甫の元を訪れるように言った。

 初めて遠甫の書房に現れた陽子は少し緊張していた。話を聞く前に、その緊張を解すことが必要のようだ。遠甫は微笑んだ。
「さて。陽子はいくつじゃね?」
「はい、こちらに来たときは十六でした」
「あちらでは、陽子はどんな仕事をしていたのかの?」
「学生でした」
「ほう。あちらでは、いくつから学び始めるのじゃ?」
「──七歳になる歳から小学校に通い始めます」

 小学校は六年、その次は中学校で三年。そこまでが義務教育だと陽子は語った。そして、高等学校は三年。義務教育ではないが、ほとんどの者が疑問もなく高校を受験し、どこかに通うと続けた。
 陽子は蓬莱では女子高生だったという。毎日高校に通って勉強し、家に帰って宿題をする。勉強することが仕事のような毎日を送っていたそうだ。
 そんなふうに、遠甫は毎日陽子の話を聞いた。世間話のように。陽子が語る蓬莱は豊かな国のようだった。井戸で水を汲むこともなく、蝋燭で灯りを取ることもない。窓には必ず玻璃が入り、火鉢で暖を取ることもない。望むものは店で買うことができ、飢えることもない。

 ──国が滅ぶ、といことを理解できない。

 若い王はそう言って嘆息した。飢えたこともなく、当然のように教育を受けてきた者のその言に遠甫は納得した。あちらとこちらは違いすぎる。王と宰輔が意思を疎通できないわけだ。
 宰輔景麒の書簡を受け取った遠甫は、その内容に驚きを隠せなかった。しかし遠甫は国主景王を教え導いてほしいとの宰輔の申し出を拒む理由もなかった。新王に選ばれた胎果の娘の困惑を思うと、何か手助けをしてやりたいと思った。
 主上は道が何たるかを理解できないようだ、との宰輔の言葉は真実だった。新王はあちらとこちらの違いに戸惑い、何を基準としてよいのかも分かっていない。

 遠甫は問題点を把握した。こちらのことを一から学ばせればよい。あちらで高い教育を受けてきた王は、学び方の基本を知っている。砂に水が染みこむように知識を蓄えていくだろう。

 世間話の続きのように、遠甫はさり気なく蓬莱のことを訊ねた。
「ふむ。倭国は日本というのだな。日本の首都はどこじゃ?」
「東京です」
「日本はどのように分けられておるのかの?」
「ええと……一都一道二府四十六県だったと思います」
「そのひとつひとつの広さはどのくらいじゃな?」
「──」

 世間話によどみなく答えていた陽子がとうとう絶句した。陽子自身も、己が故郷のこともよく知らないのだということを知り、愕然としていた。遠甫は微笑んだ。学ぶ前に、己が何を知っていて、何を知らないかをまず知る必要があるだろう。そうでなければ、何を学べばよいかも分からないのだ。
 己の無知を恥じて俯く陽子に、遠甫は笑みを送る。知らないことは悪いことではない。知らないからこそ学ぶのだ。そして、王とは民の面倒全てを見る者ではない。
 人は真面目に働きさえすれば、一生をつつがなく暮らせるようになっている。天災に備えて水を治め地を均すこと、妖魔に備えて兵を整えること、法を整えること。王のすべきことは簡単に言えばそれくらいだ。そして、その実務のほとんどは官吏が行う。

 王が最もしなければいけないことは、自らを律して少しでも長く生きること。

 それこそが、民の一番の望みなのだ。
 遠甫の言葉に、陽子の表情が緩んだ。王として在ろうと緊張していた娘は、肩の荷を降ろしたように、息をついた。そして歳相応の明るい笑顔を見せた。
 遠甫もまた笑みを浮かべる。新王の問題点は洗い出された。王はこれから、新たな目で己のしなければならないことを見つめ、自ら学び始めるのだ。

* * *  15  * * *

 初日の妖魔襲撃の後、里家での生活は穏やかに過ぎていった。客庁に房間を与えられたこと以外、陽子は里家の者と変わらぬ仕事を請け負った。蘭玉や桂桂とともに夜明け頃に起きだし、食事の支度を手伝った。里家の掃除もした。
 王宮で着飾って玉座に座っているよりも、よっぽど性に合う。民のように普通に暮らし、遠甫に学ぶ。そして、空いた時間は桂桂と遊んだり、蘭玉の話を聞いたりする。そんな生活は楽しかった。

 特に、蘭玉は、こちらに来て初めて接した同じ年頃の少女だった。こちらの子はこんなことを考えているのか、と参考になった。それよりも──。初めての女友達。陽子は嬉しかった。

 こちらに来てから色々な人と出会った。楽俊に出会うまでは、人を信じては裏切られ、荒んだ日々を送っていた。人を信じることを教えてくれた親友、楽俊。そして、楽俊とともに旅をし、辿りついた雁で、陽子は己の伴侶となる延王尚隆に出会った。
 雁での日々は忘れられないものだった。己は景王だという驚くべき事実。そして、延王尚隆の求愛。怒涛のように押し寄せてくるものに流されそうになった。しかし、蓬莱に帰りたい──そればかり願っていた陽子は、こちらに留まることを選んだ。景王としての己を受け入れ、偽王軍と戦った。

 いま思い出しても激動の日々だった。偽王を倒して金波宮に入ったはずなのに、敵はまだまだ減らなかった。覚悟していたのに、心が折れそうになった。
 ふと予王のことを思った。玉座を厭い、景麒に恋着した前女王。水禺刀に映しだされた予王は苦しそうだった。繊細な美しさをもったひとだったと、官の噂で聞いたが、痩せてやつれた姿は病的で、見るも哀れだった。
 金波宮にずっといたら、陽子もああなっていたかもしれない。陽子には予王の気持ちが分かる。王の権を奪う官吏たちに囲まれ、頼る者は景麒のみ。

 ──景麒に恋をするのも無理はない。

 もし、尚隆がいなかったら。玉座を捨てて、あちらに帰ってしまったかもしれない。そのくらい陽子は追いつめられていた。今、この穏やかな暮らしの中で、改めてそう思う。華やかで贅沢な暮らしをすることが幸せというわけではない。豊かな蓬莱で暮らしていたときが幸せだったかと聞かれても、素直に頷くことはできない。だからこそ。

 ──この暮らしは、慶の民が送る普通の暮らし。忘れてはいけない。そして、溺れてはいけない。せめて、この暮らしを守るためにできる最大限の努力をしよう。

 街に降りてよかった。蘭玉と話すと、心からそう思う。同じ年頃の娘として対等に話せる蘭玉の存在は陽子にとって大きなものだった。里家での仕事を教えてもらいながら話す他愛のないことが、陽子の心を温めた。
 陽子が蘭玉にこちらの話を聞きたがるのと同様に、蘭玉はあちらの話を聞きたがった。それについては、陽子はいつも曖昧に答えていた。文明が違いすぎて説明するのが難しいせいもある。そして、遠甫も蓬莱のことを蘭玉や桂桂に詳しく話すのは止めたほうがよいと助言した。中途半端な知識は人に害を与えることがある、と。
 そうかもしれない。文明が発達して、物質的に豊かな蓬莱がよい国かというと、そうともいえない。知らないほうがよいこともある。里家での穏やかな暮らしを続け、陽子はそう思った。
 国を豊かにすることよりも先に、まずは国を荒らさないことを考えよ、と遠甫は諭す。その言葉は陽子の張りつめた気持ちを緩め、楽にしてくれた。
しかし、それでも陽子は考える。

 よい国とは、どういうものだろう。

 陽子はこの国をどんな国にしたいのだろう。遠甫から教えを受ければ受けるほど、疑問は増した。まだ、答えは出ない。
 蘭玉や桂桂の笑顔を守りたい。民が幸せに暮らせる国を作りたい。でも、どうやって? 陽子はまた物思いに沈む。それから、ふっと息をつく。そんなに焦るな、延王尚隆も延麒六太もそう言った。焦っているつもりはないのだけれど。この疑問が解決しない限り、初勅は決まらない。それでは金波宮には戻れないだろう。

 学んでも学んでも学び足りない。

 知らぬことが多すぎる。知れば知るほど迷いも増える。それでも、この道を進むのだ。いつか光が見えるまで。その日が遠くないことを、陽子は朧げながら知っていた。

 授業中に桂桂が持ってきた手紙を見て、遠甫は僅かに困惑した様子を見せた。悪い知らせではないと言っていたが、陽子は気になった。その夜、遠甫を訪ねてきた客は奇妙だった。あえて顔を隠しているとしか思えない。不思議に思った陽子は里家に蘭玉を訪ねた。
 蘭玉と桂桂はその客を嫌がっていた。その客を送り出した次の日、遠甫がいつも沈んだ様子を見せるから、と。そして、そのわけも教えてくれないからだ、と付け加えた。蘭玉は遠甫が心配だと溜息をついた。
 深更になっても書房の灯りは消えなかった。来客はまだ遠甫と話しこんでいるようだ。陽子はその男の後をつけるよう班渠に命じた。門はもう閉じている。男は北韋に宿泊するはずだ。

 何かが起きている。何かが動き始めている。

 そんな予感がした。そう思うのは、知識が増え、新たな目で周りを見渡せるようになったから、なのかもしれない。
 陽子は夜空を見上げる。

 明けない夜はない。

 明るい光射す夜明けを、陽子こそが待ち望んでいた。

2005.12.15.
 なんとか週末アップできました連載第5回でございます。 如何だったでしょうか。
 ここからがやっと本編ですね、どひゃ〜!  私自身も眩暈がします……。 どこまで続くのか見当がつきませんが、気長にお待ちくださいませ!

2005.12.15. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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