* * * 17 * * *
柴望を見送った遠甫は大きな溜息をつく。浩瀚が密かに和州で進めているのは危険なことだった。靖共に繋がる酷吏、和州侯呀峰を脅かすために乱を起こす。多くの者が傷つき、命を落とすだろう。そして、乱が鎮圧されれば、首謀者は過酷な刑罰を受ける。
それでも、浩瀚は王に道を示そうとしている。膝元で起きていることを、王に知らせようとしている。和州に設けた隠れ家には多くの賛同者が集いはじめている、と柴望は語った。
靖共の言に乗せられ、浩瀚を罷免した王に対する怨みを、柴望は隠そうとはしなかった。その王が、今ここにいると分かれば、柴望はその怒りをそのまま王にぶつけることだろう。王がまだ十六歳の世間知らずな娘だということを考慮せずに。
何故、人望篤い麦州侯を罷免したのか。何故、靖共のような狡猾な官を重用するのか。何故、和州侯呀峰のような酷吏を放置するのか。
そもそも、王に真実を知らせるために起こす乱なのだ。王に直接それを伝えることができれば、無駄に血を流すこともない。王が道を示せば、戦など起こす必要もないのだ。民人の気持ちを代弁すべく、柴望は若き女王にそう迫るだろう。
それは至極尤もなことだ。民にとって王とは神であり、人ではない。王もまた本は人であり、民と同じく感情を持っているなど、思いもよらない。景王陽子はその為人も申し分ない王だ。しかし、王はまだ即位したばかり、稚い鵬雛にすぎないのだ。
民に怒りをぶつけられた王は唇を噛み、黙って俯くのだろう。あの、妖魔に襲撃された日のように。そして一言、すまない、と呟くのだろう。生真面目な王は黙して己を責める。
なんと不甲斐ない王なのだろう、と。
たった十六の娘は玉座の重みを知っている。そしてまだ雛にすぎない己の力量を弁えている。それは助力を惜しまなかった隣国の偉大な王の教えなのか。それともそれを知る素質ゆえに天啓が下りたのか。どちらなのか、遠甫には分からないが、若き王のその姿は痛ましかった。
遠甫はずっと道を説いてきた。冢宰靖共に従うことは道に悖る、そう思いその招聘を拒んだ。しかし、その結果松塾は焼討ちにあい、多くの徒弟が命を落とした。遠甫自身も麦州を逃れ瑛州に身を隠すこととなった。
唯一最後まで偽王を認めず奮戦した麦州侯は罷免された。靖共と対立した太宰は謀反の罪を着せられ、命を絶った。他者の命を犠牲にまでしても道を説いてきた。が、己は正しいことをしているのだろうか。
これほど長く生きてもまだ迷う。
──これほどの迷いを抱えて、新王に教えを説くのか。己にそんな資格があるのだろうか。遠甫は自嘲の笑みを漏らす。
柴望に王の存在を悟られてはならない。
そしてまた、遠甫の口から和州で起こることを王に知らせてはならない。それは、恐らく誰のためにもならないだろう。遠甫は頭を抱え、深い溜息をつく。
また、多くの民の血が流される。分かっていながら、遠甫にはそれを止める術(すべ)がない。力を蓄えるために固継にやってきた王に知らせても、今は同じだ。王は朝を動かす力を、未だ持たない。
蘭玉や桂桂にまた心配をかけるだろう。しかし、遠甫は沈んだ様子を隠すことができなかった。わけを話すことは尚のことできない。
今日は授業をできない、と断りを入れると、陽子はその澄んだ眼でじっと遠甫を見つめた。聡明な輝かしい瞳だ。遠甫が思ったとおり、胎果の女王は積極的に学び、知識を蓄えていった。何かがある、聡い娘はそう思っているのだろう。そしてそれを遠甫に問うこともしない。独力で調べ始めているようだった。
そしてある日陽子は、拓峰へ行ってみたい、と申し出た。遠甫は眉を寄せる。労が言っていた。和州で乱を計画している者がいると同様に、拓峰では郷長昇紘を豺虎と憎んでいる者たちが反乱を企てていると。
危険だと止めるべきか、遠甫は迷った。しかし、陽子が己の疑問を己の力で解決しようとしているのなら、止めるべきではないだろう。
陽子が王なのだ。己の民がしようとしていることを知る権利が、王にはある。
「行ってくるがいいじゃろう。……それもよい」
そう声をかけると、遠甫は陽子に背を向けた。聡い娘にこれ以上表情を読まれてはならない。遠甫は王に心で諭す。
己の真実を、己の目で確かめなされ。あなたはそれがおできになる方だ、と。
* * * 18 * * *
和州止水郷長昇紘は尾のない豺虎であった。昇紘が民に課した税は実に七割。その金をもって昇紘は上官から己の安全を買っているとのもっぱらの噂だった。
気の向くままに女子供を攫っては痛めつけ、襤褸のように捨てる。そのため、止水の閑地は全て墓場と言ってもよい状況だった。そして、昇紘の気紛れで殺されていく民の代わりに、多くの浮民が連れてこられた。昇紘にとって、民など使い捨てのものだった。
止水郷拓峰に住む虎嘯は川向こう、瑛州は北韋の街に住む労蕃生を訪ねていた。仙である昇紘の息の根を止めるための冬器を手に入れるためだ。虎嘯は、昇紘を倒すために、三年前から密かに仲間を集めていた。
冬器は一度にたくさん手に入れることはできない。そんなことをすれば、直ちに謀反を疑われる。慎重に事を運ぶ必要があった。虎嘯の古馴染みの労は、松塾出身の侠客であった。主に訳ありの物資の仲介をしている。今回の、冬器のような。
労の助けを借り、虎嘯は仲間たちと少しずつ冬器を集めていた。昇紘のような仙を斬ることができる武器を。
労と話をしながら家を出ようとして、虎嘯は気づいた。家の前には不穏な気配を漂わせる少年が立っていた。その目に灼きつくような赤い髪。少年は何気なく辺りを見回していたが、それは振りをしているだけだと虎嘯は気づいていた。
──胡散臭い餓鬼だ。
そう思い虎嘯は少年から目を逸らした。
「ま、あんたに任せるさ」
「承知した」
それだけを言い交わして労と別れた。それ以上話すことは危険だ、虎嘯も労もそう感じていた。労はさっさと家に入り、虎嘯は足早に小途に入った。背中で気配を探る。少年の視線を感じた。背中を向けていても分かる、その勁い視線。危険な奴だ。虎嘯は始終後ろを気にしながら進んだ。しかし、少年は虎嘯の後をつける様子はなかった。
拓峰に戻ると、弟の夕暉が心配そうに駆け寄ってきた。
虎嘯は夕暉に、妙な少年の話をした。虎嘯の言葉に夕暉は眉根を寄せる。夕暉は弟ながら、頭がいい。難しい話はお手上げの虎嘯には分からないことを、夕暉は考える。
後をつけられてはいないか、と訊く夕暉に、恐らく大丈夫、と虎嘯は答えた。それなら大丈夫かな、と夕暉は呟いた。
しかしその後、赤い髪の少年は虎嘯の舎館に現れた。少年が開け放たれた扉を潜る前に虎嘯は気づいた。店の中にいる仲間たちに目配せする。男たちは頷くと、油断なく少年を見やり、目を逸らした。
「──なんだい、
小童」
「道を訊きたいんだけど。──食事ができるかな?」
何気なく声をかけた虎嘯に、少年は悪びれずにそう言った。この場に漂う緊迫した空気にも全く動じていない。内心驚きながらも、虎嘯は少年に椅子を勧めた。少年はおとなしく椅子に腰掛けた。
虎嘯はその度胸にただならぬものを感じた。思わず卓子に手を突いて身を乗り出した。そして気づく。
少年ではない。
お前、女か、と反射的に訊ねた虎嘯に、相手は平然と肯定した。虎嘯は軽く笑った。度胸が据わっている。
──据わりすぎているくらいに。
「──前に北韋で会わなかったか?」
娘は不敵に笑い、本題に入った。やはりそれか、と虎嘯は思う。薄ら笑いを浮かべた虎嘯は、いや覚えがないな、と呟き、訊き返した。まさか俺を訪ねてきたのか、と。そんな気がしただけだ、と娘はあっさりと引き下がった。そして、食事がしたいのだが、と虎嘯を睨めつける。
虎嘯は思わず恐れ入った、と呟いた。この娘、このまま帰すわけには行くまい。その気配を感じ、踵を返そうとした娘に、虎嘯は鋭く誰何した。娘は旅の者だと嘯く。
信じられるはずがない。虎嘯の気迫にも娘は怖けることはなかった。何を調べに来た、と重ねて問う虎嘯に、道を訊ねに来たと娘は白を切る。ますます胡散臭い。虎嘯の合図で店の者が娘を一斉に包囲した。そのとき。
「──やめて」
その声に虎嘯は振り返った。蒼白な顔をした夕暉が近づいてきた。下がれ、虎嘯は目で合図したが、夕暉は微かに首を振った。虎嘯の手を引き、放してあげて、と言った。そして、娘を見やり、行っていいよ、と促した。
虎嘯は、おい、と剣呑な声を上げ、夕暉の手を振り解こうとした。しかし、夕暉は虎嘯の太い二の腕に縋りつき、娘を更に促した。
娘は静かに頷いて踵を返した。夕暉の目配せを見て、仲間たちは渋々包囲網を解く。囲みを抜けて戸口に向かった娘は一度振り返って夕暉を見た。そしてまた真っ直ぐに前を見つめると、何もなかったように出て行った。
「どうして逃がす、夕暉」
出て行く娘を見送って、虎嘯はまだ腕に縋っている弟に声をかける。夕暉は軽く息を吐き、腕を解いて笑った。
「……彼女を助けたんじゃない。兄さんを助けたんだよ」
「俺があの小娘にしてやられるとでも言うのか」
虎嘯は憮然とする。あんな小娘に負ける虎嘯ではない。しかし夕暉は娘が去った戸口を見やって言った。あの度胸は尋常ではない、しかも太刀を持っていた、と。虎嘯と仲間たちは一斉に戸口を見た。
「──何者かは分からないけれど、用心するにこしたことはないね」
夕暉の溜息に、虎嘯は頷くしかなかった。
2005.12.23.