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黎 明 (7)

* * *  19  * * *

 少年に促されて舎館を出た陽子は、釈然としないまま、うらさびれた通りを歩いた。何もかもが胡散臭い。あの大男は確かに北韋で見かけた男だった。陽子を取り巻いた連中も、あまりにも不穏な気配をしていた。そして、陽子を逃がしたあの少年。皆が皆、申し合わせたようにしていた指環。あれは一体──。

 陽子は軽く眉根を寄せて広途に出ようとした。そのとき、通りに悲鳴が響いた。陽子は顔を上げる。先に見える途の出口から聞こえたのは大勢の人々が上げる声。そうして車の走る音と、馬の蹄の音。
 陽子は小途を走る。広途に飛び出し、そこを去る馬車と立ち竦んだ人々を見た。──そうして、道に倒れた子供と。

 取り巻く人々は凍りついたように動かない。それに頓着せず、陽子は倒れた子供に駆け寄った。そして陽子は思わず息を呑む。馬に踏みにじられたその子供は、無残にも血塗れだった。
「──大丈夫か」
 陽子は子供の傍に膝をついた。子供の肩にそっと手をかける。子供は呻き声を漏らし、微かに呟いた。

「おれ、死ぬの、やだな……」

 静かな、確信を持ったその呟き。言葉とは裏腹に、子供は自分に訪れた酷い運命を受け入れようとしていた。陽子は子供の肩に触れた手の力を込め、励ました。
「大丈夫だ」

「……鈴が……泣くから……」

 蜜柑色の髪を血に染めた子供は、また微かに呟いた。そして、力尽きたように事切れた。陽子は瞑目した。想いを残して子供が逝く。自身が死ぬことよりも、残された者を気遣って──。
 辺りは、こんなにも大勢の人がいるとは思えない、凍りついた静けさに包まれていた。やがて、奇妙な静寂を破るように、人垣の向こうから少女の声がした。

「このくらいの……子供を見ませんでしたか?」
 訝しげな声を張り上げ、少女が人々に訊ねている。人垣から答える声はない。
「あの──蜜柑色の髪の子を──」
 陽子は目を開け、倒れた子供を見やる。その血に染まった蜜柑色の髪。陽子は人垣の向こうに声をかけた。
「──それは、この子か?」
 陽子の声に呼応するように人垣をかきわけて、黒髪の少女が現れた。倒れた子供を凝視した少女は、凍りついたように立ち尽くす。

「──清秀!」

 そう叫ぶと少女は倒れた子供に駆け寄った。そして清秀と彼女が呼んだ子供の無残な姿に愕然とする。少女は子供の傍らに膝をつき、人垣を見回した。何があったの、誰かお医者様を、と叫ぶ少女に、陽子は静かに声をかけた。もう間に合わない、さっき息絶えた、と。
 陽子を振り返った少女は、大きく目を見開く。その、痛いような悲嘆を浮かべた双眸。うそ……と少女は低く呟いた。

 この少女が鈴ならば、陽子は清秀と呼ばれた子供の、今際の際の言葉を告げなければならない。

 名は、と訊ねた陽子に、少女はただ首を振った。まだ清秀の死を受け入れられない様子の少女に、陽子は重ねて言った。

「もしもあなたが鈴というのなら、泣かないでほしい、とこの子が言っていた」

 そう伝えながら陽子は目を伏せる。この子は言った。鈴が泣くから死にたくない、と。
「……多分、そういう意味だと思う」
「うそよ……」
 少女は倒れた子供に手を触れた。そして、弾かれたようにその動かない身体を抱き寄せた。何があったの、と叫ぶ少女に、陽子は首を振った。
「分からない。私が駆けつけたときには、この子はもう倒れていた。──多分馬車に轢かれたのだと思う」
 陽子の答えに少女の目が燃え上がった。誰が、と少女はその場を見渡した。重い沈黙が流れた。誰もが項垂れて首を振る。酷いわ、と少女は拳を握る。その震える声に答える者は、誰もいなかった。
 やがて閉門が近いことを知らせる太鼓が鳴った。それを合図に、人垣から少しずつ人が減っていった。清秀の遺体を抱きしめ、少女は泣き崩れる。その姿に後ろ髪を引かれながらも陽子は門に向かった。陽子も閉門までには里家に戻らなければならない。そして陽子は唇を噛む。

 ──これが己の国。罪もなき命が簡単に失われていく国。無力な王を頂いたが故に。

* * *  20  * * *

 拓峰を出た陽子は班渠を呼び、急いで瑛州に戻った。班渠は軽々と州境の合水を越える。分かってはいるが、少し胸が重くなる。行きは橋の手前で馬車を降り、対岸で乗り継ぎ、半日かけて拓峰に行ったのだ。慶は貧しい、と溜息をつきながら。
 雁では川には馬車が通れる橋が架かっていた。治世五百年を誇る稀代の名君の国では。──己の伴侶の偉大さを、改めて思い知らされたような気がしていた。考えても仕方のないことなのだけれど。
 北韋の近くで班渠から降り、閉門ぎりぎりに中へ駆けこむ。なんとか間に合った。陽子はほっと溜息をついた。

 里家に戻り褞袍を脱いだ陽子に、蘭玉は驚いた声を上げた。陽子の袍には血がついていたからだ。陽子は蘭玉に拓峰で起きたことを語った。
「……ああ、昇紘ね」
 得心がいったような蘭玉の言葉に、陽子は首を傾げる。蘭玉は顔を蹙めて説明してくれた。人を人とも思わない、尾のない豺虎、止水郷長昇紘の話を。あの郷長ならば、馬車で人を轢き殺すくらいするだろう、と。
 そして蘭玉は続ける。和州侯呀峰が北韋の領主だった頃は酷かったらしい、と。瑛州は宰輔景麒の領地だ。しかも、この北韋は黄領である。十八歳の蘭玉が固継の里家にいられるのは、あと二年。二十歳になれば、よそに土地を貰いうける。和州に振り分けられないように、北韋で伴侶を見つけたい。そう語る蘭玉に、陽子は驚きを隠せなかった。

 ──そんな理由で結婚するのか。

 陽子にとって結婚とは、好きな相手と結ばれることだった。陽子は己の伴侶を思い浮かべる。尚隆の温かい眼差しと優しい手。そして、甘やかな口づけ──。好きでもない相手に身体を許すなど、陽子には考えられないことだった。

 陽子の驚きをよそに、蘭玉は淡々と語る。結婚相手を紹介する、許配なる仕事があることを。条件を言って相手を紹介してもらい、お金を払う。そうすると籍に入れてくれ、土地を動かすことができる。その後、その相手と別れるそうだ。陽子は半ば呆れて言った。
「それは……すごいな」
「そう?」
 首を傾げる蘭玉に、陽子は言った。陽子の育った蓬莱では、離婚は簡単なことではない、と。そう、好きあった者同士が結婚するのだ。──簡単に別れるなんて聞くと、愕然とする。
「蓬莱は幸せな国なのね」
 蘭玉は、くすくす笑った。できることならちゃんとした人と一緒になって子供も持ちたい。それでも、税が七割にも及ぶ止水に振り分けられるくらいなら、そうする。蘭玉は淋しげに笑う。

 七割の税──陽子は目を見張る。

 税は概ね収穫の一割だ。軍や官費を賄う特別税である賦がついても二割にはならないはず。そう決まっているのだから。昇紘が徴収する税の内訳を聞き、陽子は更に愕然とする。
 賦が二割。人ひとりにあたりにかかる口賦が一割。橋や堤を造るための均賦が二割。妖魔から守ってもらったり里家に養ってもらったりするための安賦が二割。その合計が七割だという。
 莫迦な、と言って陽子は絶句した。そんなことを許した覚えはない。税は八分、賦は徴収してはならない、と発布したはずだった。
 そんなはずはない、と憤る陽子に、蘭玉は困ったように微笑んだ。そして子供に言い聞かせるように陽子を宥める。
「だから、昇紘は酷吏だっていうの。──本当に、どうして王は昇紘みたいな奴を許しておくのかしら……」
 そして蘭玉はまた笑う。そろそろ夕餉の支度をする時間。桂桂が驚くから服を着替えてきて、と。陽子は頷き、里家を出た。

 蘭玉の呟きは陽子の胸を刺し貫いた。王は知らないのだ、──何も。そんな言い訳が許されるはずもない。陽子は王で、そして民は重税に苦しんでいる。税を軽減した発布が無視されているから。陽子は思い出す。官吏は王に何も教えず、裁可だけを求める。それは、後ろ暗いことを隠すためなのか。

 誰が本当のこと言っているのだろう。真実はどこにあるのだろう。

 官が奏上していることを、どこまで信用すればいいのか。
 民人の暮らしと玉座は、これほどまでに隔たっている。そして陽子はまた唇を噛む。なんて不甲斐ない王なのだろう、と。

* * *  21  * * *

「入ってもよろしいですか?」
 書房で本を棚にしまっていた遠甫は、その硬い声に手を止める。今日一日里家を留守にしていた王が戻ってきたようだ。

 何かあったのだろうか。

 遠甫は訝しく思いながら王を房間に招いた。そして目を丸くする。
「どうしたのじゃ、陽子、その血は」
「事故にあった人を抱えたので」
 景王陽子は無雑作にそう答えた。そして、それより止水の税が七割だと聞いた、と勘気を見せる。なるほど、と遠甫は得心がいった。

 それを調べに行ったのか。

 遠甫は軽く息をつく。それを調べに行ったわけではないけれど、と王は呟いた。そしてまた遠甫に勁い目を向ける。それは本当のことか、と。遠甫は静かに頷いた。
 そんなことを許した覚えはない、と声を荒げる若き王を、遠甫は哀しげに見やる。もうひとつ溜息をついて、遠甫は陽子に椅子を勧めた。

「憤っても始まらんのじゃよ。──陽子、北韋の税は三割じゃ」

 怒りに頬を染めていた王は、愕然と目を見張る。その顔から見る間に色が引いた。でも北韋は黄領で、と王は小さく呟く。到底信じられぬといった風情だった。

 どんなに人道篤い王がいても、目が行き届かなければ役に立たないのだ。

 遠甫がそう諭すと、若き女王は深い溜息をつき、しおしおと椅子に座った。
 遠甫は落胆を隠せぬ王を励ます。慶はここしばらく君主に恵まれていない。無能な王のもと、民の血税は酷吏の懐に消えてゆく。呀峰が領主だった頃の税は五割だったのだ。税が三割に減った、と北韋の民人は喜んでいる。それを聞いて王は絶句した。遠甫は続けて語る。
 昇紘が課す七割の税の内、一割は国、四割が呀峰、残りの二割が昇紘の取り分となっている。呀峰のために四割の税をきっちり取り立てる昇紘を、呀峰は能吏と呼んで目をかけるのだ。
 この現実に若き王は打ちのめされたようだった。そんな、と言ったきり、泣きそうな顔をする。昇紘や呀峰の話をしながら、遠甫は心で呟く。これさえも、氷山の一角にすぎないのだ。中央の目の届かぬ辺境では、もっと箍が緩んでいることだろう。
 そういうことか、と王はそれでも気丈に呟く。静かに怒りを燃やす王に、遠甫は微笑した。王が何を考えているか、すぐに分かったからだ。勅命で酷吏を裁くことは無意味だ。酷吏は和州にいるだけではない。そう諭す遠甫に、何もしないよりはましだ、と王は食い下がる。

 しばし問答が繰り返された。若く清廉な王を、納得させなければならない。長年の間に荒みきった国を、短期間で立て直すことは無理なのだ。
 陽子は拓峰で見かけた出来事をつぶさに語った。昇紘が馬車で子供を轢き殺した、と。しかし、陽子も実際に馬車に昇紘が乗っているところを見たわけではなかった。それでは昇紘を捕らえる理由にはならない。逆に馬車に乗っていたのは昇紘ではない、という証言を山ほど集め、まんまと捕縛を逃れることだろう。それをできるからこそ、昇紘は郷長として君臨しているのだ。
 見過ごすわけにはいかないのに、と王は悔しそうに唇を噛む。そんな王に、遠甫は厳然と諭した。
「酷吏を放置することは良くないが、法を歪めて処罰すれば法は意義を失う。それは放置よりももっと罪が重い。──焦るでないぞ」
「──はい」
 肩を落とし、俯いて房間を出る女王の背中を、遠甫は黙して見送る。その細い背は、それでも何かをしなければ、と呟いていた。若き王のひたむきな思いを、遠甫は確かに感じたのだった。
 遠甫は思いを馳せる。

 浩瀚、おぬしの見立ては正しい。

 王は己の真実を見出そうとしている。柴望、王は愚かな方ではない。稚き鵬雛は、大空に飛び立つための準備を着実に進めている。
 景王陽子は、急速な成長を遂げていた。遠甫の教えを受け、こちらの知識をどんどん吸収していく。蘭玉や里の者と話をし、己が疑問に思うことを独自に調査した。己の目で確かめるために現地に赴き、昇紘や呀峰という酷吏を知った。そしてその非道さに憤り、今の己にできることを模索している。
 書房を出た王は、金波宮で待つ台輔に連絡を取るのではないか。和州侯や止水郷長のことならば、台輔がなんなく調べられるだろう。
 遠甫は微笑む。景王陽子は次に何をするのだろう。その行動力に、遠甫は明るい未来を期待するのだった。

2005.12.27.
 お待たせいたしました。「黎明」連載第7回でございます。
 鈴登場です。だんだん物語が動き出してきました。 このまま、勢いに乗っていければ、と切に願います……!
 いつものごとく、気長にお待ちくださいませ。

2006.01.05. 速世未生 記
背景画像「幻想素材館 Dream Fantasy」さま
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